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『いや、まさか光精を喚ぶとはねー』
『妥当なところでしょ。相手が相手なんだから』
『まあ、若様にしては耐えたほうですかね。あーあ、せっかく喚んだおれの闇精が……』
へえ、イジーって普段の一人称は〝おれ〟なんだーと、あたしは二人のゆるい会話を聞きながらぼんやり考えていた。
どうやら忍耐の切れたルイスが、二頭の岩恐竜の真上に巨大な魔法光を喚び寄せたらしい。それがさっきの光の渦だ。眩しすぎて、まだ眼がちかちかする。
教えてもらったところによると、さっきからアマラさんたちの言っている〝ナントカ精〟というのは、ずばり精霊のことだそうだ。といっても、あたしたちの感覚とはちょっと違う。
前にラクエルから説明された、物質のもととなる〝素〟という概念。これが天律の働く領域では〝神霊〟となる。つまり、理律の支配するこの世界での太陽は、天律ではアーミテュースという神さまになるってこと。ちょっと分かりにくいけど。
で、精霊はその二つの領域を行き来できる唯一の存在だ。理律にも天律にも影響を及ぼせる。だから、無限の領域である天律に働きかけて現実世界の理律を動かそうという魔法士にとって、精霊を喚ぶということは、もっとも具体的で威力のある効果をもたらせるわけだ。
ここで、マーレインとそうでないものの差が出る。精霊加護者であるマーレインは、生まれながらにして精霊に喚びかける力を持った人間だ。同じマーレインでも力の特性によって喚べる精霊が限られてくるそうだけど、まあそんな中でオールラウンド型のルイスは別格ということで。
精霊の中で特に喚ぶのが難しいのが光と闇らしく、闇精をあそこまで操作できるヴェルグもすごいんだけど、彼の喚んだ地精と闇精に直接光精をぶつけて相殺させるなんて、場数を踏んだ魔法士でもちょっと呆気にとられる出来事だったようだ。
――大丈夫かな、ルイス。
あたしにあれだけ治癒術を使った後なのに、そんな大掛かりなことをするなんて無謀すぎる。とはいえ、ルイスに無理をさせる原因を作ったのは他ならないあたしなわけで。
『ほら、イズ! しっかりしなさい。圧されてるわよ!』
『だから勘弁してくださいよー、姐さん』
夫婦漫才みたいな会話をしながらも、実は二人とも現在鋭意戦闘中だ。闇を消されたヴェルグが一気に百体近い集団を創り出したからだ。
さっきもタクに襲いかかったこいつらは、幻より一歩進んだ〝傀儡〟という術で、術主の魔法力の一部を物質化した存在だ。相応の魔法力をくうけれど、一度決めた命令には最後まで従い、また実際の兵士並みの攻撃力をもつので、かなり厄介らしい。
自分と同じ藍色の服を着、剣を手にしたその傀儡たちをルイス、タク、それにジャムへ差し向け、ヴェルグは単身あたしを守るアマラさんを狙ってきた。イジーが援護に入るけど、鍛えあげた長身から繰り出される剣さばきは、反撃するどころか近寄ることすら許さない。
タクの剣が変幻自在な風なら、これは他を排して真っ直ぐに突き進む稲妻だ。その終着点にいるのが自分っていうのが、どうにも納得しがたいけれども。
なんだか優勝商品みたいなことになっているあたしは、目下アマラさん特製の光の繭玉にひとり守られて〝待て〟の最中だったりする。
精緻なレースというより、細かく張ったクモの巣に雨粒が乗ってきらきらと光っているのに似た美しい魔法の鳥籠は、戦闘の余波で飛んでくる魔法の欠片はもちろん小石や砂まで防いでくれるのに通気性は確保された優れものだ。
――すごいなあ。
触ってみたいが、アマラさんに止められているので、ぐっと我慢。〝待て〟と言われたのだから、今度こそ本当におとなしくしておかないとまずい。
ヴェルグはあの闇色の長い剣を、アマラさんはレイピアのような細身の剣、イジーは鎖を腰に巻き両手にS字型の短剣を持って、休むことなくそれぞれに打ち合いを続けている。
精霊は一度喚び出したものを還すと(強制送還含む)続けて召喚することはできないらしく、三人とも大きな魔法は使わないけど、魔法光や炎、風の流れを変えたりという細かな魔法と剣の動きを組み合わせた独特の戦い方でぶつかっていく。
下の台地では、タクとルイスが背中合わせに立って、傀儡集団に剣で応戦している。理緒子の傍にいるジャムは、なんと素手だ。指先を切ったグローブをつけた拳で、がんがん傀儡たちを殴り飛ばしていく。だけど数が多い。
光の盾に護られている理緒子に隙間から敵の手が伸び、思わずあたしは叫んだ。
『りお!』
「えいっ!」
傀儡に声があるのか知らないけど、悲鳴をあげたのはやつのほうだった。理緒子はタクからもらったという短剣を手に、震えながらも果敢に相手に向かって振り回していた。
理緒子を襲う傀儡に、後ろからジャムが拳を叩きつけ、足で蹴り飛ばす。
『大丈夫か、お嬢ちゃん。無理すんなよ?』
「うん、でも負けたくないから」
理緒子にも聞こえるオープンな送心術で訊いたジャムが、その答えを聴いてちょっとだけ笑う。おっきな手で、理緒子の頭を撫でた。
『それじゃあ、ちょいと本気で片付けに行くか』
――今まで本気じゃなかったんかぃ!
心の中で突っ込むけど、もろもろの原因をつくった張本人としては肩身が狭くてやりきれない。誰一人怪我をせず、というのは無理にしても、無事にこの戦いに勝利するのを祈るので精一杯だった。
あたしがヴェルグに従うことでケリがつくならそれでもいいんだろうけど、彼の目的は水門の開放の阻止だ。簡単に許してくれるわけもない。
魔法士じゃないけどマーレインのジャムが、理緒子の周囲に光の盾を複数創って多面体に組み立てる。魔法の形状に創り主の性格が反映されているようだ。
右手でそちらを、左手で傀儡を叩き潰しながら、ジャムは『大将』と声をかけ、頷いたタクと位置を入れ替わる。その瞬間、示し合わせたようにルイスが宙に駆け上がり、ジャムが百倍速くらいのスピードで傀儡を周囲から一箇所に追い込んでいった。
軽やかに空中で身を翻したルイスが、そのまま塊となった傀儡集団へ容赦なく魔法光の雨を浴びせる。さっきヴェルグが創り出した灰色の光より範囲は狭いが、威力と数は倍以上だ。光のゲリラ豪雨が辺りを真っ白に染める。
雨が熄んだ後には、青い服の残骸を散らして、傀儡があらかた消えていた。その中、ゆらりと何かが動いた。漂う傀儡の切れ端がひとつひとつ中空へ貼り付き、形を成していく。
『なんだあれ……』
『ちっ。使鬼(しき)を出してきましたか』
ヴェルグに打ち返された体勢を整えながら、イジーが呟く。
『使鬼?』
『魔法士が使役する〝鬼〟のことよ。ちなみに鬼は動物と精霊の間のような存在。半分生身ってとこね』
なんだかアマラさんが口にすると物騒な気が――いやいや。二人は、ほんの数メートルに迫ってきたヴェルグを懸命に食い止めている。二対一(正確には五対一)なのだから、いい加減疲れが見えてもいいはずなのに、彼の勢いは一向に衰えなかった。
イジーの言う使鬼は、切れ切れに飛び散った魔法の欠片を繋ぎ合わせ、いびつな形となったそこから生き物となって躍り出た。
黒光りする体毛、尖った耳、長い口吻。四本の肢に六つの眼をもち、どこかガウルを思わせる。宙で身をよじった異形は二つに分かれると、地響きをたてて大地に降り立った。
二股の尻尾までそっくりなその鬼たちは、一方が漆黒、もう一方が黒に白い鼻筋の入った姿をしている。
『黒弦、白弦。そいつらと遊んでやれ』
『御意』
抑揚のないヴェルグの命令に、鬼たちが答える。喋ったというより、ジャムの使うオープンな送心術と同じ、頭に響く声だ。
大型犬の五倍くらいはあるその獣の迫力と声に、理緒子が怯えるのが見てとれた。あたしは光る檻のぎりぎりまで寄って、みんなに迫る鬼たちを見下ろす。
――どれくらいの強度があるんだろう、この魔法の檻って。
確かめるように、そっと指で弾く。ぽわんと光は揺らめくが、すぐに消えるようにはない。それに外からの衝撃をあれだけ防げるんだから、かなり信用していいはずだ。
狭い中を数歩退る。あたしの動きを察したアマラさんが叫んだ。
『待ちなさい、マキ!』
『とおりゃっ!』
その声を振り切るように、内側から魔法の檻をぐいと肩で押した。丸い形状をした光の檻が、堰を切ったように傾斜60℃強を転がりはじめる。中のあたしは痛くはないが、ミックスジュースになりそうな具合だ。
階段状の崖の縁に辿り着いたところで勢いよく跳ね、光の繭玉は重力のままに黒い鬼の背中に落ちた。理緒子の方へ向かいかけていたそいつが、予想外の方向からのダメージを受けてうつ伏せに倒れる。衝撃で、光の玉がぱりんと割れた。
『マキ!』
ルイスの声が聞こえ、眼の隅に金色の影が飛び込む。手を伸ばそうとすると、別の何かにぐいと襟首をとられ、再び空中に投げ出されるのを感じた。どうやらもう一匹の鬼が、ルイスより先にあたしを捕まえたらしい。
――こんなに何回も宙を飛ぶなんて、人生初だなこりゃ。
ほんの数秒の滞空時間にそんなことを思ったあたしの体を、力強い腕が抱きとめる。硬い、巌のような逞しさ。
『おまえのほうから来てくれて嬉しいぞ、娘』
甘いハスキーな低音が、ぞわりと囁く。肌が総毛立った。
『うるさい! 誰が好きで来るもんかっ。放せっ!』
『強情な娘だ』
どこか愉しそうに言い、ヴェルグは剣を持っていない左腕であたしを抱えたまま、さっきまでいたところと台地の中間にあたる斜面へ立った。
やや遅れ、崖の方からアマラさんとイジーが斜面を飛び跳ねて駆けて来る。阻むように、その前へ黒白の鬼がひらりと舞い降りた。ルイスたちの前には黒の鬼。光の檻の直撃なんてへっちゃらな様子だ。
『娘。おまえがおとなしくしないと、不要な誰かが傷つくぞ?』
『うるさい! おとなしくしてもしなくても傷つけるくせにっ!』
『俺はわりと紳士だぞ? おまえのことも助けてやっただろう。娘、忘れたのか?』
『忘れてないけど、それとこれは別! 第一、紳士な人が他人のこと〝娘〟なんて呼ぶもんか。あたしの名前は〝朝野真紀〟だ!』
えい、と足を踏もうとして、難なく避けられる。やっぱり二番煎じはダメか。
あたしを抱え込むヴェルグの笑みが深くなった。
『そうか……ならば、俺と来い。アサノマキ。水門のことなど忘れて、俺と共に行こう』
闇に光が融けるように、甘い誘惑の響きが耳元から全身に流れ込む。ふ、と体から力が抜けるのを感じた。寝落ち寸前の浮遊感に似ている。
――気持ち悪い。
生理的な嫌悪が、本能のように疼く。傷ついた口の内側を歯で噛むと、右手を振りかぶって思いきりヴェルグの頬を叩いた。お返しはこれくらいじゃ足りないけどね!
『行かない! 放せ。あんたの言うことなんて信用できない!』
叩かれたことが意外だったのか、ヴェルグが眼を見開いた。
『おまえ……真名を捕らえたのに、平気なのか?』
『――馬鹿な男ねぇ。その子が異界から来たってこと、忘れたの? 異なる界に属しているのに、こちらの律が通用するわけないでしょう。あんたお得意の呪声術(じゅせいじゅつ)は通じないわ』
黒白の鬼と睨み合いつつも、アマラさんが女王様口調で皮肉る。〝呪声術〟って、厭な響きだ。ヴェルグの鉄色の眼が、すうっと細まる。
『なるほど、な……。それで、俺との接触も見逃していたというわけか。ますます面白い』
『面白がるなっ』
『魔法の通じぬ異界の娘……それに歌声も良い。発音はいまいちだが、教えてやればいいことだしな。体つきも悪くない。おまえとなら、強い子ができそうだ』
――なんでそうなる!
胸を叩くあたしの動きを胸に閉じ込め、腰を抱く手があやしく太腿を這う。ぴったりと体が押し付けられ、耳元で低く囁きが吹き込まれた。
『俺の子を産め、マキ。一生大事にしてやる』
密着する肌の感触も撫でる手も、囁く声も吐息もすべてに対して、あたしの心と体のすみずみが拒否していた。それでも前と違って、彼の腕と体はがっちりとあたしの関節を押さえて、まったく身動きがとれない。
――イヤだ……イヤだ。こんなの気持ち悪い。助けて、ルイス……!
殺される恐怖とは違う何かが、あたしの声を奪った。こんなに怯えるのは、あたしが女だからなんだろうか。
大声で止めてと言いたいのに、心の中の叫びはどうしても声になってくれない。抵抗もできずに、ただ身を硬くするしかなかった。
――助けて……ルイス! ルイス、怖いよ……助けて!
凍りついていたあたしは、たぶん周りから見て絶対に助けを求めてる状況ではなかったと思う。だけど唯一特異な力をもつ男が、心の声に反応した。
ド……ン、とヴェルグの左耳の傍、あたしの頭の上ぎりぎりを大砲の弾のように何かが突き抜ける。ふっと密着していた体が緩んだ。
『くそ、こんなとこでこの力ぁ使いたくはなかったんだが……。てめえ、いい加減その子から離れろよ。オレは女子供を泣かせるやつは、嫌いでね』
『……半端者が』
ヴェルグがせせら笑う。
背中越しに見えない砲弾を叩きつけたジャムに、黒い鬼がごうと咆えかかった。が、彼の懐から飛び出した小さな動物に鼻面をひっかかれ、牙が空を切る。パン、ナイスアシストだ。
『魔法士として術も磨いていないくせに、マーレインの力を統御できるとでも?』
『悪ぃが、オレは規格外でな。ちょっとは世の中見たほうがいいぜ、坊ちゃん!』
ジャムが威勢よく大地を蹴る。それは、睨み合いの均衡を崩す一歩だったに違いない。彼が動いた刹那、複数の場所でさまざまな出来事が起きた。
イジーが腰の鎖を黒白の鬼の首に投げて絡めとり、その体を踏み越えてアマラさんがこちらへと走り出す。
跳躍するジャムの後ろから再び黒い鬼が襲いかかり、ルイスがその背に魔法光を放つ。
ジャムを迎え撃つヴェルグが、即座に蒼い光の盾を正面と左に作り、剣を構える。
そしてジャムは――飛び上がった瞬間、姿を消した。
いや、完全に消えたわけじゃない。すごい速さで、人一人分の質量に相当するものがジグザグに駆け上がってくるのが分かる。時折見える、赤い髪と金色の瞳。
『な……っ!』
さすがのヴェルグも攻撃のタイミングが掴めない。と、左から来たアマラさんの剣先が光の盾に突き刺さり、魔法が砕ける。同時に目の前ぎりぎりに現われたジャムが、やつの腕の中からあたしを掬いあげ、宙高く弧を描いて離れた大地に着地した。
ざん、と砂音が響き、ヴェルグの頭上で十字を描くように交錯したアマラさんも地面に降り立つ。
『大丈夫? マキ』
『……うん』
いろんな感情が押し寄せて泣き出しそうになり、あたしはようやくそれだけを言った。
姫抱っこしていたジャムが、片手を離してあたしを地面に下ろすと、わさりと頭を撫でた。
『えらかったな。もう大丈夫だ。――旦那、こっちは問題ない。あとは好きにしな』
ジャムの呼びかけに、低く応えてやって来たのはルイスだ。黒い鬼は、と見ると、タクに剣を向けられ、唸り声をあげたまま右に左に動いて、攻撃をしかねている様子だった。
あたしの前に立ったルイスが、身を屈めて覗き込む。今朝の冷たかった瞳はもう拒絶してはいなかったけど、どこか昏い光を秘めていた。指先で右頬に触れてくる。
『殴られたのか?』
『でも、さっき殴り返したから』
それよりも抱きしめられて撫で回されて、変な言葉を囁かれた方が嫌だった。すぐにここから帰って、お風呂で全身くまなく洗い流して聖水降りかけて塩撒きたい。あれが人生初のプロポーズだったとか、みじめすぎる。
あたしの心中も知らず、ルイスがいつもの保護者めいた表情をみせた。
『まったく君は、無謀なことをする。アマラがいてくれてよかった』
勝手だと分かってるけど、今ここでルイスの口から彼女の名前が出るとキツい。精神的打撃のダブルパンチだ。今日みたいな日を厄日って言うんだろうな、本当。
泣きそうになるのを堪えていたら、肩にルイスの手がかかった。一瞬あの男を思い出して体が震える。はっと彼が身を引いたので目の前の上着を握れば、今度はルイスがその手の上にそっと手を被せてきた。
この指先も手のひらもあいつじゃないんだと心の中で言い聞かせていたあたしは、ルイスの表情が変わったことに気がつかなかった。尋ねる声が、これまでにないほどの硬さを帯びる。
『あいつと……何があった?』
『旦那、今はやめとけ。それより先にすることがあるだろう?』
あたしの心情を気遣って、ジャムが声をかけてくれる。ルイスはぼさぼさに乱れたあたしの髪を軽く整え、頬を指でさすって治癒術を施した。
『そうだな……すまない。君に聞くべきではなかった。君はこれから一切、あいつのことなど一瞬たりとも思い出す必要はない。すべて忘れるんだ。いいね?』
『さ、殺人とか、やだよ?』
『大丈夫。君を傷つけ踏みにじった罪を、あいつにきっちり贖わせてやるだけだ』
ルイスの何かが振り切れたらしい。微笑みかける顔は今までの彼のものなのに、それまでとはまったく違っていた。
ブリザードが吹くのでも魔王が光臨したわけでもない。ルイスはただひたすら、指を近づけたら切れそうな凄まじいなにかを纏っていた。
『聖地を壊すのだけは勘弁しろよ、旦那』
『分かっている。マキを頼む』
そう言い置いて、ルイスはあたしから離れる。
アマラさんと戦闘をはじめたヴェルグに向かって歩き出す彼の拳が、固く、真っ白に握り締められているのをあたしは見た。