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いや、飛び降りたっていっても、いきなり下までぽーんと跳んだわけじゃない。
結局あたしは自分の足とお尻両方を信じて、適度なところに着地すると、傾斜角度70℃近い斜面を滑り降りることにしたのだ。
『あわわわわ』
腰を落として踵を踏ん張る。ががががっと、激しい音をたてて鋭い石の破片が飛んでいく。
不恰好だけど、逃げるにはこれしか考えつかなかった。だってやっぱり怪我とか死ぬのは嫌なんだよ。でも、さすがに打ち身とか擦り傷なんて気にしてる場合ではなかった。
あれだけ脅したから、一瞬ヴェルグは追うのをためらうだろう。その一瞬でどこまで逃げ切れるか。あたしがあいつを出し抜く公算は、そこしかない。
焦点がぼやけるくらいの振動に、前へとつんのめりそうになるのを必死で堪えた。スキーとかスノボと一緒だ。怖くて体を引っこめると余計に転びやすくなる。顔から突っ込むのを覚悟で、低く前のめりに体重をかけた。
と、いきなり体が持ち上がる。宙に投げ出される感覚。眼の端に、さっきまでいた場所にはなかったはずの岩が高々と突き出て見えた。
――ヴェルグ……そっか、あいつが岩を。
岩恐竜を創った相手なら当然かと、あたしは冷静に判断した。このまま叩きつけられたら痛いだろうな、と軽く覚悟を決める。そのとき。
『風精ビャクーガ』
艶やかな声が響いたと思うと、あたしは別の力に抱き止められていた。
まるで自分が木の葉にでもなったみたいに、下から吹き上げる猛風に支えられ、ふわりと地面に足を着く。といっても、やっぱり傾斜は60℃強。
ざざ、と流れる砂を踏みしめ、ふらつく体を立て直すあたしを、その人が呆れ顔で見た。
『なにやってるのよ、馬鹿な子ね。死にたいの?』
『……アマラさん』
ジャムがいるから近くに来てるんだろうとは思ってたけど、登場早々すごい発言だ。
『あーあ、顔に傷作っちゃって。自分でさらに見栄えを悪くしてどうする気?』
『や、あのアマラさん。そんなことを言っている状況では』
『なに言ってるの。こんなの想定内よ。わたし、未来視もってるって言わなかった?』
聞いてません。てか、想定内ならもっと早く助けて欲しかったんだけど。
――あ、そっか。あたし嫌われてるんだった。
なのになんで助けてくれたんだろうと、黒紅色の髪をなびかせて立つ年上の女性を見上げた。
やけに風が収まらないと思ったら、彼女の足元で風が渦を巻いて、アマラさんは地面からほんのわずか浮き上がっている。居丈高な声が、あたしたちの間を割って入った。
『女。その娘を寄越せ』
『馬鹿言わないでよ。いくらどん臭くてぱっとしない子でも、あんたに渡すわけないでしょう?』
相変わらずの女王さま口調で、アマラさんが言い返す。
『おまえもどうせ、その娘がいなくなった方が都合がいいのだろう。違うか?』
『ファリマってろくでもないと思ってたけど、つくづく馬鹿ね。わたしが公私混同すると思う? 仕事をきっちりこなせないようじゃ一人前の女って言わないのよ』
下方に開いたアマラさんの両手の中に、ソフトボールくらいの旋風が集まる。
『それにわたし、自分のおもちゃをとられるのって嫌いなの。あんたに手出しはさせないわ』
『笑わせるな!』
アマラさんが放った風の弾丸を、ヴェルグが力の幕で弾いた。鈍い光のヴェールに触れた途端に弾は四散したけど、さすが風。すぐに寄り集まって一頭の大きな獣に変わった。
風の唸りとも獣の咆哮ともつかない声をあげて、巨大な猫科動物がヴェルグに襲いかかる。
『ちっ!』
ヴェルグが身を屈めてそれを避け、避けた瞬間、腰の剣を抜き放つと下から上へ斬り払った。頭から縦半分に裂かれた風の獣が、煌めきを放ちながら散り散りに大気に還る。
『ビャクーガ!』
『風精程度で俺には勝てんぞ。これで終わりか、女?』
闇を切り取ったような真っ黒な刃の剣を提げ、ヴェルグが不敵に笑う。本当にこれほど〝不敵〟って言葉が似合う男もいない。それくらい凄みのある表情だった。
『闇の精レイキ』
その言葉と同時に、足元を冷たい何かが吹き抜ける。厭な空気だと思ったら、急に辺りに黒雲が立ち込めて、昇ったばかりの太陽を隠しはじめた。
あっという間に薄暗くなる視界の中、一際黒いもの――あたしや周囲の岩から伸びる影がゆらりと揺れ、そのまま身を起こす。にゅうっと手が伸び、あたしとアマラさんの足に絡んだ。
――気持ち悪っ!
冷たくも熱くもなければ、痛くもない。だけど圧迫感があって動けないっていうのは、ものすごく気味が悪かった。竦むあたしの横で、アマラさんの冷静な声が命じる。
『火精スゥザよ――灯れ』
以前ラクエルが見せてくれた、手のひらサイズの炎ではなかった。最後の言葉の息が吐き出されたそこから紅蓮の炎が宙を奔り、渦を巻きながら闇を舐め尽していく。
灯るどころの騒ぎじゃない、大火事だ。あたしたちを拘束していた影も簡単に解けてしまう。
『すご……』
『わたしって防御型なのに、なぜか火精と相性がいいのよねー』
なんとなく分かるような気がしますが?
『スゥザ、やっちゃって』
どんだけ適当な命令なんだ。いいのか魔法士。お祈りの言葉とか聞いて描いていたカッコイイ魔法士像が崩れていくぞ。
命令主の性格か、渦を巻いた火の精は踊るように自在に宙を跳ね、熱と耀きを散らしながら影たちを追い散らしていく。明るいのが苦手なのか、影は千切れ、また岩陰に入り直してどんどん消えた。
ところが。逃げているように見えた影たちは、するするとヴェルグの方へ集まったかと思うと彼の影と溶け合い、雲を突く巨大な影法師となって立ち上がる。
目鼻もない顔が、ぱっくりと縦に割れる。そのまま首が伸び、頭全体が口になったように、闇は炎の渦を丸ごとごぶりと呑み込んだ。
『うへえ』
『さすがはファリマ。〝闇〟の名を冠せられるだけはあるわね』
どこかで聞いたことのある名前だ。あの山賊たちが襲ってきたときに、ファリマって名前がでたとか理緒子が言っていたような。
『ねえアマラさん。ヴェルグって、ひょっとして有名人?』
『どういう論拠でその質問に至ったかは疑問だけど、一部では知られているわね』
右拳に人差し指を立て、その周囲に炎の輪を作ったアマラさんが、こちらを見向きもせずに答える。フリスビーのように投げ撃たれたそれが、勢いよく巨大影法師の首を刎ねた。転げ落ちた頭はすぐに本体に吸いとられ、首からはまた新しい頭が生える。うーんエンドレス。
『とりあえず、疑問には後から答えるわ。今はおとなしく待ってなさい』
『……わん』
〝待て〟と言われたのでそう返すと、生ぬるい視線が向けられた。
『あんたって……まあ、いいわ。じゃ、そのままいい子でそこに居なさい。守ってあげるから』
くしゃ、とあたしの頭を撫でる手は、どこかやさしい。ちょっと心が和んだけど、そんな平穏な空気を許してくれる現状ではなかった。
アマラさんの炎の輪で切り刻まれた闇は、空中でばらばらになるや、今度は普通サイズの人型となってそれぞれに襲いかかる。
『くっ!』
さすがに分散されると攻撃するにも限度がある。アマラさんは腕で大きく半円を描き、炎の壁を作って防御に転じた。だけど闇はしつこかった。
炎が揺らめいて落ちる影。それがまた意志を持ってゆうらリと動きはじめる。
『このやろっ』
アマラさんの背後に伸びるその手に向かって、足元の大きめの石を投げつけた。が、勿論手ごたえはない。なのに逆に腕を掴まれそうになり、あたしは身を引こうとして盛大に尻もちをついた。
『マキッ!』
アマラさんが脇に滑り込む。
『なにやってるの。待てって言ったでしょう!』
『場所は動いてないよ。投げただけ』
『転んだら一緒でしょう、馬鹿な子ね。コマだって、待てって言われたら飼い主の言うことくらい聞くわよ』
なんかだんだん、けなされるのも慣れてきたぞ。
『守るって言ったんだから、きちんと信じなさいよね?』
『信じてるよ。だけどアマラさんにばっかり戦わせるの、やなんだもんっ。じっと待ってて怪我されるなんて嫌だよ!』
『……ほんと馬鹿な子』
炎を映すアマラさんの顔が、ふっと微笑む。
『馬鹿だけど、仕方ないから絶対あんたを守ってあげるわ。それにね――助けって、思わぬところから来るものよ?』
告げた瞬間、あたしたちの周りに広がっていた炎の壁が変化した。炎を作っていたひとつひとつの何かが急激に拡散して熱を消し、輝きだけを残した小さな粒子となって複雑な網目模様を成す。光の粒で出来た繭玉に、あたしたちは包まれていた。
その光の繭の向こう側で、いくつもの小石ほどのものが鋭く奔り、影を貫いて岩に突き刺さる。影たちは標本箱の中の虫さながら、大地に次々と縫い止められていく。
ヴェルグが忌々しげに言葉を吐き捨てた。
『影使いか……』
『――〝闇のファリマ〟を相手にするのですから、当然でしょう? この忌み技を存分に発揮できる機会ができて、光栄ですよ』
場にそぐわないやわらかな声でそう言ったのは、平凡な中肉中背の魔法士イジーだ。
『遅いわよ、イズ』
『勘弁してくださいよ、姐さん。あの土人形のおかげで準備していたものが埋まって、大変だったんですから。二人ともさっさと行っちゃうし……』
『愚痴はいいから、早くこの闇をなんとかなさい』
さすが姐さん、助けてもらったのにこの大上段。うん、今度からあたしも〝姐さん〟って呼ぼう――呼ばせてくれれば、だけど。
イジーははあ、と肩を落とすと、両手を軽く広げてヴェルグに対する。もちろん斜面から仰ぐ形だけど、彼の手のひらにぞろりと数十本の真っ黒なナイフが現われた刹那、黒の剣をもったヴェルグが崖を蹴って跳びかかった。
真っ暗な闇の波を引き連れたヴェルグは、その上を滑るように進み、唸りをあげて剣を揮う。イジーが投げるナイフがどんどん払い落とされていく。体格も威力もスピードも、完全にヴェルグが勝っていた。
『ぬるいぞ、小僧!』
『たかが五つしか違わないあなたに小僧呼ばわりされたくないんですよ』
ヴェルグの勢いに圧されるように、ふわりゆらりと攻撃を避けるイジーは、持っていたすべてのナイフを投擲し尽くしてしまったようだ。
最後の一本を弾き飛ばし、ヴェルグが会心の笑みを浮かべる。だけどイジーは、波打つ闇と刃がすぐそこまで迫るのに、微動もしなかった。
『ああ、そういえば私、名乗り忘れていましたね。ヤムートと申します』
『……なに?』
『お初にお目にかかります、ヴェルギウス・アスペル・ファリムスどの。あなたには――』
イジーの十本の指が広がり、複雑な軌道を描いて曲がると、見えない何かを絡めて一気に引き寄せる。その瞬間、辺りを包んでいた闇が、高波をあげて粉々に砕け散った。
『負けて差しあげませんよ?』
『貴様……〝隠形(おんぎょう)〟のヤムートか』
『いかにも。お見知りおきいただき恐れ入ります、と言っておきましょうか、一応』
弾かれたように見えたナイフ。それをヴェルグに纏わる闇すべてに命中させ、柄についていた極細の糸を同時に別方向へたぐって引き裂く、なんて離れ業をやってのけた魔法士は、気軽な調子で肩をすくめた。
かちんときたらしいヴェルグが、風を巻いて剣を打ち下ろす。微笑を浮かべたイジーはそのまま剣を受け、切っ先が触れたと同時に、彼の体はうすっぺらな映像となって飛散した。
『……小僧め』
『〝隠形〟の名をとる私の特性は、隠密に偵察。あなたと同じく闇の眷属を使うこと。得意技は――幻術と、呪縛です』
破片のままイジーは喋り続ける。低く罵倒し、ヴェルグが剣でそれらを薙ぎ払った。
イジーの破片はあっけなく光の点になって消えたけど、代わりにじゃらりと思わぬ重さを纏った音が耳を打つ。蒼く底光りする金属の鎖に剣を持った腕をとられ、ヴェルグは上空に鋭く視線を突きつけた。
いつの間にか崖の高みに登っていたイジーが、手袋をはめた手でぎり、と長い鎖を引く。
『対魔法士用の封魔具ですよ。闇を使うあなたにも効くよう、特別に改良済みです』
『ふざけた真似を』
『あなたがうろついているのに何の対策も講じないと思われているとは心外です。目障りなので、そろそろご退場願いましょうか。姐さんよりも何より、あの方の忍耐がそろそろ尽きそうなのでね?』
言った傍から、下の台地のほうで爆音が立て続けに聞こえる。うん、誰のことかなんとなく分かったよ。
『あなたの足止めも限界のようですよ?』
『ほざけ』
『言うこと為すこと年寄りめいてますね。そろそろ引き際というやつでは?』
『代わりに貴様が消えろ、小僧!』
ヴェルグは腕に絡んだ鎖を片手で掴み、さらに胴に半周巻きつけると、全体重をかけて長身を捻る。『うわっ!』と情けない声をあげて、イジーが崖上から吹き飛んだ。
それでも、喚び寄せた闇をクッションにふわりと降り立つ。じゃらん、と解けた鎖が彼の後を追った。
『あーあ。力技とはまいりましたねー』
『まいってないで、さっさとやっちゃいなさいよ』
アマラ姐さん、〝殺っちゃいなさい〟に聞こえますよ?
『えーっ、無理ですよ。だって、おれ闇討ちとか騙し討ちとか不意を突くとか隠れて狙うとかじゃないと戦えませんよ? これでも自分の力量はよぉーく知ってますから』
おい、どんだけ卑怯なんだこの魔法士。
緊張感のないえへら顔のイジーは、それでも油断なく腕に鎖を巻きつけ、ヴェルグを仰いでいる。長い髪を真っ黒な光背のごとく舞わせ、彫像となって佇む長身の周りには、再びじわじわと闇が染み出はじめていた。
イジーの持つ長い鎖が、蛇みたいに彼の腕から足元にとぐろを巻いて浮かび、先端を持ち上げて警戒を示す。
『それに、もうあちらが本気で限界みたいです』
『それもそうね』
仲がいいんだか悪いんだか分からない魔法士コンビが互いに言い合った、そのとき。
『――オウリーン』
どこからか不思議に澄んだ声が、大気に響き渡る。そして次の瞬間、真っ白な光が満ち、その場から一切の影と色と音が消え失せた。
*ヴェルグ(25才)、イジー(20才)の設定。
ちなみにアマラさんは23才で、ルイスと同い年です。