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眠れなくなったあたしたちは、日が昇るころには服を着替え、テントの外に出た。火の傍にはタクが一人座っている。徹夜とかじゃないといいけど。
『おはよう』
『……おはよう』
まずい、タクと理緒子が目を合わさない。焦って話題をふる。
『ルイスは?』
『まだ寝ている。先に朝食を作るよ。できてから起こせばいい』
夜の様子がおかしかったから、念のために聞いてみた。
『あの……大丈夫、なの?』
『心配するな。彼は強い』
あたしを気遣ってか、自分のほうがよっぽど大丈夫じゃない顔でタクは言った。
『でも、一晩中治癒術使ってたんでしょ? あたしのせいで』
『君が元気な顔でいれば、彼の苦労も報われる。心配なら、あとできちんと自分でお礼を言うといい』
タクがそう言うんなら少しは安心だ――と思ったのに、ところが全くちっとも大丈夫じゃなかった。
テントから出てきたルイスは、顔色が良くないとか機嫌が悪いとかではなく、表に薄い氷を張ったようにあたしを寄せ付けなかった。最初にアクィナスで会った時なんてものじゃない。まるで別人みたいに、冷たい眼差し。
―― 一体どうしたんだろう。
昨日の夜のことが原因じゃないかと思うけど、ちっとも思い当たらない。第一熱で浮かされていたんだから、夢と現実がごっちゃで自分が何をしたかも正確に思い出せなかった。
前にもルイスとすれ違ったことがある。お披露目のパーティを抜け出したときだ。
そのときは明らかにルイスは怒っていて、タクのとりなしもあって、話し合って仲直りできた。だけど今回は、話をする以前にルイスは完全にあたしを彼の領域から遮断していた。
――ああ……そうなんだ。
理緒子の言った「内ポケットに入れられてる」っていう意味が、やっと分かった気がした。そこから出されて、その温もりを失ってはじめて、あたしはそのことを思い知ったんだ。
――もう、今までみたいに話せないのかな。
考えるだけで喉の奥が震える。
頼みのタクは、理緒子を意識しすぎて右手と右足同時に出るようなことになってるし、理緒子は理緒子で気にしないようにする素振りがかえってわざとらしい。まるで、それぞれが全く違う方向を向いて立ち竦んでいるような、そんな気まずさがあたしたちの間には立ち込めていた。
あたしたちは、ばらばらになっていた。
――聖地が目の前なのに……どうしたらいいんだろう。
ごつごつした岩山の先に聳える、四角い塔のような石柱群を仰ぐ。聖地であるタキ=アマグフォーラにあるのは、巨大な謎の石の建造物だ。一番大きな柱と、それを囲むように三つ(正確には四つらしいけど、ひとつは崩れた)の柱が不規則に並んでいる。
理緒子が買った絵本によると、石は一番大きいもので幅5チェク、奥行き2チェク、高さ8チェクというから、五百×二百×八百メートルなんていうビル並みの大きさだ。
あまりの大きさと形の良さから、古代人の建造物だとか神さまの武器(神の槍というらしい)と呼ばれたりするみたい。北の果てに棲む一つ目巨人のダイダロッド族が創ったんじゃないかという話まであるようだ。
さすがに大きいだけあって、タキ=アチファに入る手前から見えはじめたその姿は、だけど全然近づいていっている気がしない。
鈍く朝日をはじいて建つ姿は、確かに異様な風格を備えて映った。
――こんなばらばらな状態で、本当にあれに挑めるのかな。
まるで巨大な風車に立ち向かうドン・キホーテ。象に喧嘩を売るネズミの気分だ。
ズボンのポケットから、小さな紙切れを取り出す。
〝ル パサロ ヴォランテ サ クエ エス ウヌ パラ レ シエル パラ ヴォラール(飛ぶ鳥は、空が飛ぶ場所であることを知っている)〟
アチファの村で買った、お菓子の中に入っていたおみくじの言葉だ。日本語で言う、適材適所みたいな意味かな。
〝飛ぶ鳥は、空が飛ぶ場所であることを知っている〟
人に空は飛べない。だけど鳥にとって、空は飛ぶための場所だ。
じゃあ、あたしにとって聖地は何のための場所なのだろう。あたしはその答えを、すでに持っているのだろうか。
――……分からないや。
白く輝きを増す空に、手のひらを掲げる。
あのターバン男の故郷だというアチファの村は、彼の言ったとおり貧しくて小さな村だった。岩と石と砂と灰と、村にあるのはそれくらいだ。草もなくて、茶色だか灰色だか分からない丸くてぺたっとした葉っぱが岩陰に少し生えているだけ。キッキーナの姿もない。
そんな枯れきった景色の中で、肩を寄せ合うように数軒の石組みの小屋が建っている。それだけだった。
ルイスたちの説明によると、この村は作物がほとんど育たず産業もなく、聖地を守る役目のために昔からあるのだそうだ。
『聖地を守る?』
『そうだ。聖地の周りを清め、訪れる人に祝福を与える。それがこの村の役目だ』
村の入り口では、入る前に巡礼者が手足をすすぐように、例のイカカスの葉が浮かんだ大きな水桶と洗い場があった。だけどその水も茶色く濁っていて、本音を言うと、ちっとも清められている感じではなかった。
冗談っぽく「ぜんぜん聖水じゃないよね」なんて突っ込もうとして、できなかった。しなくて良かったと思う。そこにいた村の子どもの持つカップの中身は、聖水と同じかそれ以上に澱んだ水だったから。
目だけぐりぐりと大きくて、痩せた骨の浮く体。不自然に突き出たお腹。あたしたちがただの巡礼者だと信じて、その子が無邪気に歓迎してくれるから、余計に胸が痛んだ。
きっとあたしたちの世界にも日本にも、実際に目にしていないだけで貧しい人たちはいるはずだ。だから、軽々しく助けたいなんて思うのは間違っているのかもしれない。それに雨が降ったくらいで、この子たちの状況が簡単に良くなるわけではないのも分かっていた。
それでも、なんとかできないかって思う気持ちは嘘じゃない。できるのが、ヴェルグから貰ったお金を全部つぎ込んで、その子の親が売っていたおみくじ菓子を買うくらいだったとしても。
ここに今、あたしがいることに意味があるってことも、きっと嘘じゃない。
――意味があるように切り拓くから……この手で。
翳した手を拳に握る。
くだらない思いつきのじゃんけんからはじまった、この旅。じゃんけんには、グーチョキパーじゃないものもある。象と人とアリ。人は象には負ける。でも、一番弱そうなアリが象に勝つんだ。
あたしは、人よりネズミよりちっぽけなアリになる。象に勝つために。
下を向いたらすぐに萎えそうになる気持ちを押し込めて、あたしは空に立つ白い石の柱を睨むように仰いだ。