第19章 聖地――マキの涙
1
聖地に近づく急勾配の岩の道は、登れば登るほど空気が乾燥してきて、厭な予感はしていた。言動から元気印に見られがちなあたしだけど、喉、弱いんだ。コーラス部としては致命的なんだけど、合唱をはじめたきっかけもそれだったりするわけで。
ヒューガラナを出てしばらくして、いがらっぽいなーと思っていたけど、ルイスは登山慣れしてない理緒子につきっきりだし、タクは珍しく考え事に没頭していて、ふざけて話しかけるくらいしか出来なかった。まだきちんとマフォーランド語も話せないしね。
で、気張っていたら、予想通り発熱。野宿のテントで横になったとたん悪寒がして、さすがに理緒子に気分が悪いと訴えた。手のひらをあたしの額に当て、理緒子が悲鳴をあげる。
「すっごい熱じゃん! やばいよ、すぐにルイス呼んで来る!」
いや、そこまで大袈裟にしなくてもと思ったけど、その頃には喉の奥が風船でも詰まったように重くて熱くて、声が出なくなっていた。体を起こしたくても、ふわふわして力が入らない。
――ああ、またみんなの足引っ張っちゃうな。
ガウルの子のことでも迷惑かけたのに、こんなことで旅が遅れるのが申し訳なかった。
「xxx?」
やってきたルイスがマフォーランド語で、大丈夫か的なことを言ってくる。横になったまま、ずりずりと荷物を引き寄せ、ルーズリーフに〝昔からへんとうせん(漢字が分からなかった)が腫れてよく熱出すから、たぶんそれだと思う。寝てれば治る〟と書いて見せた。
それを読みあげた理緒子の声や、ルイス、タクの声が耳の中で変に反響して、うるさくてかなわない。とりあえず、今は一人で横になって眠りたかった。
〝後から追いつくから先に行ってて〟と書き足すと、理緒子がむっとした顔になる。
「置いていけるわけないじゃない」
でも、もうすごく心が弱ってた。すごくお家に帰りたい。ルイスにルーズリーフとペンを取り上げられ、支えるように腕を回されると、あたしはぐったりと倒れこんでしまった。
夢を観ていた。夢の中のあたしは、自分の部屋のベッドで寝ていた。夢だなと思ったのは、周りでいろんな物音がするのに起きれなかったから。
一階で母さんが料理している音。包丁で何か刻む音とか、フライパンで焼いてる音。冷蔵庫の蓋を開け閉めする音。板の間を歩く足音。
「真紀、ごはんよー」
のんびりした明るい母さんの声が呼ぶ。
「はよ降りて来いや。飯でー」
なぜか県外に行ってるはずの兄の不機嫌な声。
「真紀、寝てるのかー? ご飯、冷めるぞー」
父さんが部屋を覗き込む気配。
なのに起きれない。あたしはここに居るのに、返事もできない。
――あたし、ここだよ。お願い、誰か起こして。
心の中で呼びかける。体が重くて重くて、顔を動かすこともできない。ふと、ふんわりとした柔らかいものが頬に触れた。少しくすぐったい。
薄目を開けると、目の端に淡く光る金色の毛並。頭に触れるやさしい体温。飼い犬のミニチュアダックスのシナモンだ。ちゃんと専用の犬ベッドを部屋に置いてあるのに、調子が悪くて寝てると、こうして時々枕元に来るんだ。に、しても顔が見えない。
――しーの馬鹿。人がしんどいのに、お尻向けて寝るなよ。
腹が立って、指で突いてやろうと手を伸ばす。長毛にしては短い金色の毛束は、だけどいつもと違って、さらりと繊細に指の間を通り抜けた。
――あれ、シナモンじゃない……?
不思議に思って、目を凝らす。あったかいし金色だし、こんな傍にいるのはシナモン以外に考えられないし、と巡りの悪い頭を懸命に働かせる。
「しーくん?」
呼びかけてみれば、誰かが答えた。マキ、と呼ぶ声。不思議に響く声色。
――ああ……あれ、あたし一体今どこにいるんだったっけ?
思い返す。自分の部屋でベッドに寝てて、ご飯なのに起きれなくて――じゃなくて。
そうだ、部活から帰って家のドア開けたら、変な場所に居たんだった。今ベッドに寝てるってことは、あれは全部夢だったんだ。別の世界のかっこいい魔法士の人に出会って、理緒子っていう子と友達になって――。
『マキ』
そう、こんなふうにやさしい声で呼ばれたっけ。年上でひねくれてて、でもやさしくてちょっとセクハラで、あたしの髪が好きだって、守るって言ってくれたのに突然元婚約者とか現われて――彼のことちょっといいなって思ってたあたしは、かなりショックで。
『マキ。マキ、しっかりするんだ』
やさしい声で呼ばないでよ。一生懸命好きにならないようにしてたのに、なんでいつも気にかけてくれるの? 大事なものを見るみたいな目で見るの?
『マキ、お願いだから、この薬を飲んで』
薬ってなに? あたしはもうすぐ起きて、母さんの作った晩御飯食べるんだから。こんな夢なんて、すぐに覚めちゃうんだから。
青空みたいな目の色とか、笑い皺とか、低く笑う声とか、長くてきれいな指とか、思ったより広くてしっかりした胸板とか、みんな忘れ――――ムナイタ?
ぼやけた脳みそに広がるキーワード。頬に当たる平たい感触は、ベッドじゃない。それに視界に差し込む金色のふわりとしたものは、髪の毛だ。
「ルイス……?」
え、これって夢じゃなかったっけ。あれあれ、どっちが夢だ?
呆けたままのあたしの頭に、聞き慣れた男の声が響く。
『マキ、薬を飲んで。楽になるから』
やけに息が近い。あのソファでべったりしたときよりも、確実に密着している。なんだかこう、後ろから抱きしめられて半分彼を下敷きにしている感じだ。
熱でぼやける目に、あたしを抱きかかえる彼の体から、淡い光の粒子みたいなものが立ち昇っているのが見えた。
――きれい……だなあ。これって治癒術……?
そんなに密着するほど、あたしの容態は悪いんだろうか。これ以上迷惑かけるのもまずいから、薬くらい自分で飲まないと、と頭を起こす。
『ほら、これで熱が下がる』
口元に差し出されたそれを眺め、ちょっと止まった。いや、お椀に入っている液体が薬だってことは分かる。うん、そんな匂いがするよ。
だけど、熱に浮かされてるあたしでも、それが不味い雰囲気だっていうのは分かった。だってどう見ても、青汁も真っ青な深緑色なんだよ。しかも、ライムグリーンが点々と。
――無理。むりむりむりむりむり、絶対こんなの無理! 錠剤とは言わないけど、せめて粉薬!
反対向きから覗き込むルイスを見上げて、視線で訴える。それをどうとったのか、ルイスはお椀を取り上げて横を向いた。
――ふう、青汁回避。
と思ったのに。あたしの頬に手を当てたルイスが、やおら顔を近づけてきた。視界がふさがる。同時に生ぬるいどろりとしたものが、口いっぱいに広がった。
――にが……っ!
熱もいっぺんで吹き飛ぶような苦さだった。正確には、にがにがにがにがにがにがい、人生最上級の不味さだ。しかも驚いている間にごっくんしてしまうし、口の中のものがなくなったと思ったら、なんと次が来た。
――ルイスの馬鹿っ!
殴ってやりたいけど、体に思うように力が入らない。熱なんて出したの誰だよ、まったく。
薬の苦さだけじゃなくて、涙が滲んだ。だってだって、初めてだったんだよ?
幼稚園の頃のちゅーはカウントされないとかじゃなく、本当に正真正銘の初めてだったんだ。
――ルイスの馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿あぁっ!
恋愛値の低いこのあたしにも、一応夢ってものがあったんだよ。遊園地とか浜辺でとかじゃなくてもいいから、気持ちの通じ合った人とどきどきうっとりの感動的な経験をさ。
でも現実には、なかば強引に薬を飲まされてるわけで。しかも、きっちり六回。
えーえー、さすがのあたしも数えたよ。大事なことだから、この熱で動かない頭をフル回転させましたとも。
――もう、ほんと最低だよ……。
相手がルイスだったことじゃなくて、こんなふうに事務的にされたのがすごく嫌だった。口の中は苦くてたまらないし、体は熱くてぼうっとしてるし。
あたしの口を強引に開けたルイスの唇が、ちゅっと湿った音をたてて離れていく。状況だけ考えればすごく濃厚なんだけど、口の中は薬だらけでニガニガだ。ファーストキスは良薬の味だなんて、もう乙女心真っ二つの粉々だ。
目の端でルイスがお椀を下に置いたのが見えたから、終わったと思ったら。
『ほら、お水飲んで』
ちょっと待った。それは水筒でくれれば自分で飲むし!
「ん……っ」
抵抗しようとしたら、変な声が出た。あたしが押し返そうとしてるのが分かったはずなのに、ルイスはそのまま口移しで水を飲ませてくる。
鼻から出たらどうしてくれる!
――ちょっと待ってってば……息、しんどいし。
しかも、なんだか今までより長い。水が流れ込んで口の中がすっきりしたせいか、彼の感覚がさっきよりはっきりと伝わってきた。
――ルイス……?
距離ゼロからの息がやけに熱い。熱でもうつったんだろうかと、瞼を開ける。
ちょっと斜めの、逆さ向きから見るルイスの顔は、表情がはっきり分からなかった。
「マキ……」
マフォーランド語で何か呟いている。よく分からないけど、ダメだとかちゃんと見てとか言ってるみたいだった。しかもすごく苦しそうな声で、囁くように。
「ルイス……?」
不安になって手を伸ばすと、ルイスが顔を上げて指先を軽く握ってきた。
『ごめん……でも、これで熱が引くから』
治癒術を使いすぎて送心術が使えなくなったわけではないらしい。ルイスは残った薬をとるつもりか、あたしの唇を指で拭い、額に貼りついた髪の毛をかき分けた。
『すぐに良くなる』
おまじないのように、額に唇を落とす。握った指先にもキスをして、あたしを後ろから抱えた体勢のまま、繋いだ手をお腹の上に置いた。
――なんでよ……?
薬の味が染み込んでいくように、重なった手の乗るお腹が鈍く痛む。
ねえ、ルイス。もし熱が出たのが理緒子だったら、今と同じようにしたの?
同じように薬を飲ませて、額にキスして、手を繋いで一緒に眠るの?
アマラさんにも、同じことをしてきたの?
――あたしって、醜い。
自分がこんなに彼のことを独占したがってるなんて、思いもしなかった。
口に残る苦い味は、確かに薬のはずだったのに、あたしの心をどうしようもなく苦く昏く蝕んでいった。