Interlude Ⅲ――男たちの真実(3)
(3)日記――王と彼らと彼女と、そして(後編)
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天鳴三年 壱の月二十六日
待望の雨が降る。そして俺は、世界で最も大切なものを失った。
今も後悔することがある。それは、彼女を一人で聖地に向かわせたことだ。
断っておくが、決して彼女から目を離したわけではない。巨大な石柱遺跡である聖地――その一端に触れた途端、彼女は、俺とキリアンの前から煙のように姿を消してしまったのだ。
俺たちは、なかば狂乱状態になって彼女を探し回った。そして一時間近く経った後、消えたときと同じように突然、彼女が再び俺たちの前に現われたのだ。
『ごめんなさい。わたし、もう一緒にはいられないの……』
唐突に告げ、すでに泣き顔だった彼女は、ぼろぼろとその場に泣き崩れた。訳も分からず、俺はただ彼女を抱きしめるしか出来なかった。
なにがあったのか、なぜなのか。一体どこへ消えていたのか。
俺たちの問いに、彼女は『答えられない』と言うばかりだった。その左腕には、今までなかった光り輝く幾何学模様の紋が浮かび上がっている。
「なんだ、これは?」
『分からない。なんだか、印みたいなのをつけられて……〝鍵〟だって』
「聖地の中に誰かいるのか?」
『言えないのよ、オルフェ。本当に無理なの。これ以上わたしを困らせないで』
「……そいつを殺してやりたい」
『だめ! そんなことをしちゃだめよ。そんなことしたら……みんなが不幸になっちゃう』
大きな瞳に溜まる涙を指で拭い、彼女は気丈にふるまった。
『わたし、この世界が好きだから。雨、ちゃんと降るように、お願いしてきたから』
「もうどうだっていい。おまえがいないのなら、この世界に意味などない」
『だめだよ、オルフェ。王様は、この国のこと一番に考えないといけないんでしょう?』
「行くな。俺にはおまえが必要だ」
『……オルフェ、ごめんね。でも、行かなくちゃ』
「行くな……っ!」
『今まで、ありがとう。オルフェが立派な王様になるの、わたしずっと見てるから。ずっと――ここで見てるから』
そう言うと、彼女は俺の腕の中からするりと抜けた。抜け落ちた温もりは、俺の心の一部を奪っていったようだった。
手に嵌めていた指環を取り、彼女はそれをキリアンに返すと、彼を抱きしめる。
「ありがとう、キリアン。オルフェ。……さよなら」
そして、彼女は消えた。
何もない石の壁を見つめる俺の眼に、光るものがよぎる。それはぽつりと足元の岩に落ち、小さな染みを作った。次第に数を増し、俺の髪や肩を叩きはじめる水の雫に、つられるように俺は空を見上げた。
鈍い色の空。待ちに待ったはずの雨は、天が声をあげて泣いているように思えた。
雨がこんなに冷たいものだと、俺はこのときはじめて知った。
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「本当に……この通りのことが起こるのだろうか」
「起こらないとは言い切れません。ただ、起こるとも言えないでしょう」
アルマンの不安に、シャルルが冷静に意見を述べる。
「なにしろ、前の乙女とは別の扉で来た乙女たちですよ? しかもお二人も。なにが起ころうと不思議はありません」
「……そうだな」
冗談めかせば、強張っていた顔もわずかに緩む。
「しっかし、どうも納得できないんですよねえ」
「なにがだ、若造」
「オルフェイド王の行動ですよ。公務を放り出して、二十日間近くも乙女の随行をしたことはまだいいんですよ。問題は――」
手を伸ばし、領主が盤上の日記を指先で叩く。
「こんな詳細に言語の一覧なんぞ作れる人が、なぜ無学文盲の娘を娶ったかってことです。しかも、あれだけ異界の乙女に骨抜きにされておきながら」
「まだこだわるか」
「だってそうでしょう? かの王は様々な面で完璧なんですよ。政策も人格も革新的なところも、まさに〝雷王〟の名にふさわしい偉大さだ。ところが、たったひとつ欠けているんです。いや欠けているのではなく、そぐわないと言っていいでしょう」
「一説には、心に秘めた相手とそっくりな容姿をもった娘を見初めて、強引に妃に迎えたと聞きますが」
ヘクターの言葉に頷いて、オズが続けた。
「確か、妃の名はユーリアナ。まさに想い人の名前をマフォーランド風につけたわけだが、真名はなんと言うのだったかな、シャルル」
「ミア=ヴィオラ・ユーリアナ・ルーア・タチアナ。別名ユーリアナ・トゥーディ。王の側近タチアナ公の養女となったが、出自は不明。タキ=アチファの村を訪れた際に王が見初めたとも言われる」
「そして身分の低さゆえ、王の寵愛を一人受けながらも妾妃に留まり、亡き後も王墓に共に埋葬されることはなかった」
「――本当か?!」
付け加えられたツークス領主の一言に、アルマンが驚きの声をあげる。妾妃に対し、そこまで厳しい措置をとられることは歴史上滅多にないことだ。
「おかしいですよねぇ? この妃に関してはおかしなことばかりです。なぜ、あれほどの威勢を誇った王が、寵愛する女性をこうもないがしろにしていたのか――あるいは、ないがしろにされることを許していたのか」
よく口の回る青年領主は一度語を切り、促すように一同を見渡した。
「そこで、観点を変えてみてはどうでしょう? オルフェイド王に関わる怪しい点はすべて、彼の意志であるとするんです」
「王の意志? つまりそれは……」
「異界の扉および、王自身が発見者であり乙女の随行者であったことの隠匿。そして何者ともしれぬ娘を妃にしたこと、その遺体を誰にも知られぬ場所に埋葬したこと。これらすべてが、ひとつの意図の下にあったのだとしたら――?」
「妃であることの利点を考えればよいだろうな」
思ってもみない方向へ進む話を、意外にもシャルルが後押しした。
「非常時には王の代理ともなる王后に比べ、妃は公的な立場が薄い。権力は弱いが、そのぶん公に身を晒す必要はなくなる。姿を見せぬ王の恋人というわけだ。
まったく、かの王はこの妃をどこまでも隠したいらしいな。遺体までも」
「それに、妃の時間はわりと自由でしょうしねえ。字を覚えたり、さまざまな勉強をしたりする暇があるわけだ。あるいは……文字を教えることとかも、ね」
意味深な眼差しが、古びた日記に注がれる。アルマンとヘクターが戸惑いの顔を合わせ、オズが驚きの声をあげた。
「まさか、そのようなことが……」
「有り得ないと言い切れますか? この単語の一覧の分量と丁寧さは、二十日やそこらで仕上げられるものじゃありませんよ。当時としては画期的なオルフェイド王の灌漑事業も、もしかしたら別の智慧が働いているという可能性だってあるのですしね? ――信じろ、と言ったのはあなたですよ、魔法士長。」
その場を得心したような空気が流れる。張り詰めた後に訪れる安堵感に似た、やわらかく差し込む希望の光。
「では、乙女は――」
「この物語には、続きがあるということだ」
シャルルが先程まで読みあげていたページをめくった。その先に文字を書き込めるページはなく、硬い革の裏表紙が本の終わりを告げている。
ぱたりと音をたてて閉じられた日記の裏には、1の刻印がうっすらと刻まれていた。
――やはり……。
私は頬杖をついたまま、固く両目を閉じた。皆が私と同じ結論に達してくれることを願っていたが、得も言われぬ感慨が胸中を突き上げる。
もし、これが真実であるなら――。
もし、たった一人の女性を守るために、これらすべてが在ったのだとしたら――。
――私は一体、今まで何に囚われていたのだ……。
過去の自分の愚かさを痛感する。これに気付かなければ、大事なものを失くしていたかもしれないという思いが、私の身の内を冷たくさせた。
テーブルの下で、左手を伸ばす。わずかに身じろいだ妃が、細い指を指に絡めてきた。
「ジェン。この後、乙女たちが無事に還ってきたら……言いたいことがある」
「……はい、わが君」
小さな声で交わされた会話を耳聡く聞きつけ、シャルルが軽く私を睨む。
「陛下、これ以上の隠し事はご勘弁くださいよ?」
「なに。単に〝慣例〟というやつを打ち破ろうというだけだ。大したことではない」
乱暴に言えば、やや驚いた顔で皆が見た。ヘクターがテーブルの下の手を見透かすように微笑み、その視線をアルマンへと移した。
「では……王位継承問題も、これで解決というわけですね?」
「乙女を見つけた者に王位を譲るという約定、陛下ならば果たしていただけると信じておりましたわ」
「――誤解しているようだが、神官長。母上」
艶やかな声で、アルマンが呼びかける。
「乙女の正式な発見者は、わが部下ムシャザとアクィナシア魔法士だ。あの二人が王位に就きたがるとは思えぬが、候補とするならば彼らの方であろう?」
「しかし、ミア=ヴェール」
「それに……俺は、今は王位など欲しいと思わぬ」
にやりと口唇に笑みを湛えて告げられれば、あのツークス領主ですら目を瞠った。
「お、王子。俺って……」
「おまえこそ〝僕〟だとか抜かしていただろう。そのことは良い。ともかくも俺はまだ、王位に興味はない。だからといって今ここでイェドに帰る気などないが……少し、おのれのやるべきことを探してみたいのだ」
なにが彼にこの台詞を言わせたのかは分からぬ。それでも、ジェニアに良く似た線を描く顔立ちは、天へと羽ばたく若い猛禽のごとくまっすぐに澄んでいた。
「私の目には、殿下の御心はすでに決められているように視えますが?」
「単に胆(はら)を括ったというだけだ、魔法士長。俺は未熟だ。知らぬことも多い。それをこれから掴み取るのに、露ほどもためらいはせぬと決めたまでだ」
「微力ながら、お力添え申し上げます」
「ああ、頼む」
泰然と頷けば、ジェニアが私と繋いでいるほうとは別の手を、王子へと差し伸べた。その手を取り、彼が私を見る。
「すべての準備が整いましたら、そのときは貴方から直接王位を奪いに参ります」
「……よかろう」
来るがいい、わが息子よ。猛禽の爪をわが喉元へ喰らいこませに訪れる日が、今から楽しみだ。
――まさか、このような会話を交わす日が来ようとはな……。
嬉しいような苦いような複雑な想いが去来する。神聖な空気を、ツークス領主の声が破った。
「ですが、王子。乙女を天都へ連れて来た褒賞くらいは頂いてもいいんじゃないですか?」
「ああ、それは俺も少し考えていた」
物をねだるなど滅多にない息子に、思わず問いただす。
「なんだ、申してみよ」
「いえ……このたび王がどうしても私をイェドに戻されるならば、承諾する代わりに母を共に連れて行くつもりでおりました」
「まあ素敵」
にっこりと嬉しそうに、ジェニアが息子の手を握る。が、私はちっとも嬉しくない。
「それは……認められぬ」
反射的にテーブルの下で繋いだ手に力を籠めた。ジェニアが睨む。
「あら、わたくしはイェドに参りましてもよろしくてよ?」
「認めぬと申しておろうが」
ようやくただ一人を傍に置くと心に決めたというのに、冗談ではない。その想いが顔に出ていたのか、一同から失笑が洩れた。
アルマンまでもが、困ったように頬をほころばす。
「分かりました。では、お二人で参られればよろしいでしょう。天都と違ってなにもありませんが、イェドは良いところですよ。歓迎いたします」
二人で、か。それも楽しそうだ。
「ああ……良いだろうな」
かすかに笑う。戸惑い、それでもはっきりとした笑みをアルマンが返した。
――オルフェイド王よ。このような結論でいいのだろうな……?
心の内で、そっと過去に呼びかける。
――そなたが守り抜いたものがあるように、私にも守るべきものがあるのだ。
この私の決断を、後世のものは愚かだと誹るかもしれぬ。それでも、再び繋いだこの手を離す気など、可能性すら私の頭にはなかった。
――……乙女たちよ。なにが起ころうと、例えどのような真実を目にしようと、必ず聖地より戻り来たまえ。
再び見えたそのとき、私は語ろう。かつての乙女が何を遺したのかを――何をもたらしたのか、その真実を。そして、この手紙に託された人の想いを伝えよう。
われわれは、はかない一本の糸だ。だからこそ、繋がってゆける。
神が思い描こうとした紋様でなくとも、われわれはこの手でおのれ自身の人生を描いてゆけばよいのだ。
迷いながらも歩む道、共に繋がるこの想いこそが、真の運命なのだから。
私はもう一度微笑み、后と繋いだ手をそっとテーブルの上に置いた。
次章はマキです。(時間がちょっと戻ります。)