Interlude Ⅲ――男たちの真実(2)
(2)日記――王と彼らと彼女と、そして(前編)
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友人は反対するが、俺はこの日記を残そうと思う。
彼女がここに――この世界に確かにいたという証拠とするために。
彼女はほとんど何も持たずにやってきて、かけがえのないものを残して去っていった。その名を花につけてやるくらいしか、俺はしてやれなかったから。
ユリア。俺はおまえを……――。
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私がその本に辿り着いたのは、偶然からだった。当時ある悩みを抱えていた私は、その元凶を探るべく王専用の書庫を漁り、それを見つけた。
第一妃親子に席を譲り、オズの隣に移ったシャルルが、中の紙が茶色く変色した革表紙の日記を手に取り、ぱらぱらとめくる。
「ディーノ=オルフェイド……例の、王后制を撤廃した最初の王ですな」
「オルフェイド王といえば最初の異界の乙女が訪れた時の王であり、数々の灌漑事業を成し遂げた方だろう。なぜそこで王后制の撤廃を取りあげるのだ」
アルマンが、不満の声をあげる。シャルルは私を見ずに、薄い唇に笑みを湛えて首を振った。
「いえ、ふと思い出されましたので」
「閣下、王后制は本当に撤廃されたのですか?」
ツークス領主が、丸眼鏡の向こうから目を輝かせて問う。空気の読めぬやつだ。
「確かにオルフェイド王以降の王は、后を迎えず、複数の妃を娶って数ある子の中から王太子を選出するのが慣例となっていますが、王后位を撤廃したとは記憶していませんが?」
生き生きとそう続けた後、まだ二十一才の領主はテーブルの向こうのジェニアに目を遣り、その隣の王子を見て、しまったという顔で片手で口を覆った。今さら遅い。
間の抜けた元神童に、早熟の天才だの奇才だのと呼び称された男が溜息と共に教えた。
「事実上の、という意味での撤廃だ。かの王はなにしろ、正妃たる王后を迎えずに妾妃を迎えた最初の王ゆえな」
「ですが、オルフェイド王の妃は御一人だったように思いますが?」
とりなすようにヘクターが口を挟めば、またも領主が混ぜ返す。
「御一人って、あの無知文盲の無名貴族の娘でしょう? 子もなさず他の妾妃も迎えずで、王亡きあと熾烈な後継者争いを起こした引き金ではありませんか」
「御子が生まれても生まれてなくても、争いは起きる。王位というものはそういうものだ」
そう、かくいう私も、それで五人の子を亡くした。そのうち二人はジェニアとの子で、そのことがきっかけで私はこの妾妃制に疑問をもつようになった。
私自身も先王ディーノ=アルハディンの第二妃の子で、十二人の兄弟がいる。だから王が王后を迎えずに多くの妃をもつのは当然と思っていたが、二人目のミア=シエルを亡くし、ジェニアとの仲に亀裂が入ってようやく目が覚めたのだ。
そもそもジェニア以外の妃は、前太政大臣クロヴィス・レン・クガイ=フージェ・ハランが差し出してきた、かの血族の娘だ。わが母もその一族だというに、空恐ろしいことこのうえない。
目の覚めた私は、手を回してアルマンをイェドに移し、ジェニアを厳重な守りの下に置いた後クロヴィスを解雇。シャルルを起用して、本格的なフージェ一族の排斥に着手した。
その際にこの元凶を作った男に興味を持ったのだが、そのことはあえて口に出さずとも良いだろう。シャルルは気がついたようだが。
堪りかね、オズが強引に話を戻す。
「それで、今ここでなぜディーノ=オルフェイドの名が出るのだ?」
「ああ。この日記が、かの王のものだからだよ」
そう答え、シャルルは片眼鏡を掛けると、日記を読みはじめた。
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天鳴三年 壱の月八日
この日は生涯で忘れ得ぬ日だ。ソロンの予言した、三月の合の日というだけでない。
その夜、俺は初めて彼女と出逢ったのだ。
夜二の鐘が鳴った頃、湯浴みを済ませた俺は一人寝室に向かった。
休むには早い時間だが、実は神官長から異界の乙女を召還する儀式に参加するよう言われていたのを、体調が優れぬと言い訳して早々に引き上げたのだ。仰々しいお祭り騒ぎに付き合う気にはなれなかった。
ベッドに横になると、部屋の隅の窓から月明かりが淡く差しこんでいる。満月にしては暗いそれは、合の始まりを意味していた。しばらくじっと青い光を見ていたが、何も起こる様子はない。
ため息をつき、寝返りをうった。横向きになって目を閉じる。すると。
どさっという音と共にベッドが弾んだ。というより、確実に量感のあるものが背中側の空いている箇所に落とされたと感じ、俺は咄嗟に枕の下の短剣を引き抜いて身を起こした。
驚いた。
そこにいたのは若い女だった。衣服は纏わず、大ぶりのタオルを一枚素肌に巻いているだけだ。夜這いは初めてではないが、明らかに気を失っている。しかも艶やかな髪は、したたるほどに濡れていた。
どこから来たのかと天井を見上げる。戸板が外れたようにはない。壁も床もベッドそのものにも仕掛けは見当たらなかった。
手っ取り早く本人に聞いてみたいが、肩を揺さぶっても女は目覚めない。戯れに、裸身を覆うタオルを解いてみる。
細いわりに豊かな胸元。硬い印象の腰の線は、まだ男を知らないのだろうと思った。おぼろな月の光に照らされる象牙色の肌は美しく、正直悪くない眺めだった。
顔を良く見ようと身を乗り出すと、低く呻き、女が瞼を開けた。
心臓を撃ち抜かれるというのは、あのような瞬間を言うのだろうか。長い睫毛に縁取られた大きな瞳を見た瞬間、俺は世界がひっくり返ったような衝撃を受けた。
俺を魅了したその瞳は、次には大きく見開かれ、振り上げた右手を俺の頬に打ちつける。小気味いい音が左耳の傍で鳴った。
「おい待て。おまえが忍び込んできたんだぞ?」
手首を捕らえてそう告げれば、みるみる目に涙を溜めた女が、まったく聞き覚えのない言葉で喚きはじめた。
「なにを言っているんだ。言いたいことがあるなら、せめて通じる言葉で喋れ」
そう言ってから、俺はやっと気がついた。
濡れた髪、穢れを知らない体、初めて聞く言葉。
振り返ると、窓から差し込む月光は、今まさに満月の明るさを取り戻しつつある。
「そこを動くな!」
女に命じ、俺はガウンを羽織ると部屋のドアを開け、大声で侍従を呼ばわった。
「キリアンを呼べ! 今すぐ即刻ここへ連れて来るのだ。例の指環とやらを持参させよ!」
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その場を包む何とも言えない沈黙を破ったのは、どうにも空気を読めない男カイエ・エルタダ・カーヅォ=ツークセアだった。
「やー、他人の日記というのは恥ずかしいものですねぇ。聞いているだけで背中がかゆくなってきましたよ」
頭に花畑でもありそうな若者に、オズが冷たい一瞥をくれる。
「それよりも、どういうことだ? 最初の異界の乙女を発見したのはキリアン魔法士ではなく、オルフェイド王だというのか?」
「ええ。さらに問題は、異界の扉がこの王城の――」
「儂の居室にあるということだな」
ヘクターの言葉を継いでそう言ってやれば、皆からすごい形相で睨まれた。予想していたことではあるが、いささかたじろぐ。
大規模な〝異界の扉〟探索を指揮し、その不首尾を大臣たちに厳しく責めたてられた魔法士長の眼差しは、特に殺気立っているようだった。
「つまり、陛下はずっとこのことを御存じで?」
「そう怒るな」
「怒っているのではありません。呆れ果てているのです。王、これを御存知の上で、異界の乙女を見つけた者に王位継承権を与えるなどとおっしゃられたのですか?」
「そうだ」
泥沼の王位継承争いは、ずっと悩みの種だった。フージェ一族の勢力を削ごうとする私が誰かを指名すれば、おそらく確実にやつらはその者の命を狙うだろう。全面戦争に火をつけるようなものだ。
アルマンをイェドに遠ざけている今はまだいいが、彼ももう子どもではない。状況を理解し、天都に来ることを望むかもしれない。そこで考えたのが、異界の乙女の威光を借りることだ。
異界の乙女は神殿の領域。その発見者もまた、丁重な保護下に置かれる。神殿はフージェ一族とも密な関係で、古くはむしろ神殿側に主導があった。下手をすれば内部分裂を引き起こしかねない、かの一族が一番手を出しにくい領域。それを引きずり出してやろうと思ったのだ。
幸い、異界の扉は王の寝室にあるらしい。となれば発見者は、私かその側近の者となるはず。
「――で、ご自身が発見者となることで、王位継承者の指名権を絶対化しようとお考えで? 異界の乙女の祝福を得た王が申すことならば、いかにフージェ・ハランといえども口を出すのは難しくなりましょうなあ?」
隠していたことに腹を立てているのか、険の籠もった言い方でシャルルが私の考えを代弁する。
それを聞いて目を丸くしたのが、わが子アルマンだ。
「王は、本当にそのようなことを……?」
「まるで目論みは外れたがな。失望したか?」
数日前、彼が嬉々として異界の乙女発見の報告に来た時は、胸が潰れる思いだった。アルマンを蹴落とすためのフージェ一族の罠ではないかと疑い、どれほど神経を磨り減らしたか分からない。ヘクターが眉を顰めるほど詳細に荷物や身辺を探らせても、リオコが偽者であるという証拠が見つからなかったのが幸いだ。
ここへ来て、やや大人びた冷静さを纏うようになった王子が、ふっと私から目を逸らす。
「いえ。王は、誰かに王位を譲る気などないのではと考えておりましたゆえ」
「それは大きな誤解ですよ、王子。この方は毎日、早く楽隠居をさせろと私にせっついて仕方ないのですから」
「余計なことを言うな、シャルル」
「こんな機会は滅多にありませんので、しっかり言わせていただきます。とはいえ、この案は貴方にしては考えたほうですね」
「遠回しな皮肉ならいらんぞ?」
「褒めているのですよ、一応。前もってご相談いただきましたら、かの一族を抹殺する罠などに良い智慧をお授けできましたでしょうに」
ふふふと不気味な含み笑いと共に告げられれば、相談しなくて良かったような気もしないでもない。
「たいした隠し玉ですね、この日記は」
「他になにが書いてるのだ? 大臣」
「ツークス領主の言い草ではありませんが、奥歯のむずがゆくなる甘い描写がつらつらと。良ければお読みしますが?」
「……いや、いい」
顔を赤らめて、アルマンが俯く。少年らしいその様子に、イェドにやったのは正解だったと心中で安堵していると、横目でジェニアが睨んできた。息子の純朴さを喜んでなにが悪いというのだ。
シャルルの手が、紙音が流れるように日記のページをめくっていく。あれで一字一句読めているのだから、天才の頭脳というのはほとほと呆れる。
「ああ、ここは面白い。オズ、見てみろ」
「ほう……異界の単語の一覧だな。〝ニホンゴ〟というのか。ふむ、表音文字と表意文字があるのだな。神聖文字に近い気もする」
「表音文字が二種類あるうえに表意文字のこの種類の多さは……よくも聞き出せたものだ」
数ページにわたる文字の羅列と解説に、さすがのシャルルも呆れた声を洩らす。
「こちらは見たような文字だ。古語、いや古代魔法文字に似ているな」
「ディーノ=オルフェイドとは、つくづく驚くべき王であるな。欲しい情報を的確に記してある。〝これはエイゴという他国の言葉で、素養として学校で習うもの。この言葉は広く異世界で話されているらしい〟そうだ」
「そういえばマキも、異界には百近い国があると言っていたようです」
身を起こし、ヘクターがテーブルの向こうから覗き込めば、たちまち小さな日記は頭の影に埋もれた。覗き損ねた青年領主が不平を洩らす。
「師匠、僕にも見せてくださいよ~。し・しょ・う!」
「年功序列という言葉を思い知れ、若造」
オズの一喝に青年は口を噤んだが、代わりになにやら手の中の物体をつつきはじめる。確かこの部屋に来たときに「謎解きの手助けをする」と言っていたもののはずだ。
武器とも思えぬその物体の表面を彼の指先が弾いた、そのとき。
「!」
目の覚めるような音の渦がそこから響き渡った。アルマンが立ち上がり、腰の剣に手をかける。
だが、いつもならば真っ先に攻撃を仕掛けるオズは、泰然と椅子に腰掛けたままだった。盤上に付いた手を顎に当て、ちらりとそちらに目を配る。
「小僧、なんだそれは?」
「……さすが魔法士長。動じませんね」
「魔法力ひとつ感じぬ物体だ。音を発する以外に、何か芸ができるのか? できぬのなら止めろ。耳にうるさくてかなわん」
「まあ、お待ち下さい。お見せしたいのは、こちらです」
銀色の物体の上半分を明るく照らす、光の窓を指で示す。そこには色が渦を巻き、同時に数語の文字列が浮かんでは消えていた。
「これは、今回の異界の乙女から預かった〝おーでぃお・ぷれいやー〟というもの。音楽を再生できる機械です。この文字はおそらく、流れている曲の題名を表わしているのでしょう」
「ふ……ん、なるほど。この日記にある〝エイゴ〟と同じ文字のようだな」
「でしょう? 僕はこれを確かめたかったんですよ」
砕けた口調で言い、ツークス領主はようやく手の中の異界の楽器を止めた。
「なぜ、異界の文字がここに存在すると?」
「リオコ嬢の荷物を調べた後、返したというのが気になったんです。返したということは調べ終えたということ。つまり、その荷物が異界のものであると断定できる証拠――比較対象となる何かを天都は隠しているのではないかと睨んだんです。当たり、でしたね?」
小面憎く笑う。元神童というのは、嘘ではないようだ。
事実、リオコの荷物にあった文字類はすべて私自身の手で調べ、異界のものだと確かめたのちに返却を許した――たったひとつを除いて。
鞄の内ポケットに入っていた封書。それを解読した時、私はかの少女が間違いなく異界から来たのだと確信したのだ。
――あれを知ることが、あの娘にとって良いことなのか……。
分からぬ。それでも、この場でなにがしかの答えが出ることを私は期待していた。
――もし、皆がここでわたしの出した考えと同じ答えに達するならば、そのときは――。
いかにしても、どのような責任もとる覚悟はできていた。
思いを巡らす間にも、領主の軽口は続く。
「まさか言語そのものが、こんなふうに体系化されて残されているとは思いませんでしたよ。やー、師匠に頼み込んでついて来た甲斐がありました」
「それはリオコの荷物の中にはなかったようだが?」
「えーあー、あのもう一人の方がうるさくてですね。持っておくように言われました」
「うるさかったのはあなたでしょう、カイエ」
ヘクターが指摘すると、悪びれずに肩をすくめる。
「ここにいらっしゃる方々と同じく、僕も疑うのが仕事です」
「要するに、おまえがうるさく疑うから、マキが腹を立てて証拠の品を渡して行ったという訳か。……マキらしいな」
語尾にかすかに甘いものが混じる。思わず王子を見つめた私の足を、テーブルの下で、こっそりジェニアが爪先で蹴ってきた。触れるな、ということらしい。
――そうか、アルマンは異界の乙女を……。
長年離れていたわが子の成長ぶりに、いささか気分が老け込む。口元に手を当て、流れ出る嘆息をごまかした。
「しかし、異界の言葉を見るだけでなく耳で聞くというのも新鮮な感覚だな。〝ニホンゴ〟の曲はあるのか?」
「ありますよ。ただし問題がひとつ」
領主はおーでぃお・ぷれいやーを手にかざし、もったいぶった仕草で指を一本立てる。
「魔法士長。魔法で〝声玉(こえだま)〟を送る場合、相当の技量と魔法力がいると聞きますが、確かですね?」
「ああ。おまえが何を言いたいのか分からんが、声玉の術をもってしても、その音楽機械のような業は無理だろうな」
「まさに、言いたいのはそこです。これは異界の文明そのものです。僕たちの文明に似たものはあっても同じものはありません。いや、できないのです。
さらにもうひとつ問題なのが、物には対価が必要だということ。すなわち、未知の文明の産物であるこのおーでぃお・ぷれいやーから音・光・文字の再生を促すと、目には見えない、声玉で言う魔法力に相当するものが消費されるわけです。ところが僕たちに、それを補充する手立てはない。話を総合すると――」
「使い過ぎると動かなくなるということか。もったいぶるな、この馬鹿造」
オズが、顎を乗せたままの指先で、塵ほどの魔法光の欠片を領主の額に命中させた。
「あだっ!」
「そんなことは分かっている。おまえやわれわれだけでなく、勿論異界の乙女もな。使い過ぎれば二度と動かなくなる、代え難い故郷の品をおまえに託した想いをどれほどのものだと思うているのだ、愚か者め」
「……分かってますよ、僕だって」
手のひらで額を押さえ、言い訳をする子どものように青年領主が呟く。
「たった一度会っただけの人間に、こんな貴重なもの手渡して、憎まれ口叩いて出て行って。返す保障もないのに、勝手に信じて。だから僕も、来たくもないこんなところへ出てきたんじゃないですか」
「……」
「せめてこれが本物だって、誰もが認める証拠だと胸を張って公言できるようにするために、こんなところまで来たんじゃないですか!」
「だったら、簡単なことだ」
オズの声は揺るぎない。
ヘクターのような流れる水を思わせる声ではなく、大地に差し込む朝日のように胸をさす声。
「おまえ自身が、まず信じればいい。この――オルフェイド王が信じたように」
差し出された日記を見つめる青年の瞳は、ほんのわずか潤んでいるようだった。
注)王后(おうごう)と読みます。
日本語ではないのですが、「王妃」だと「妃」と混乱するので使用しました。