Interlude Ⅲ――男たちの真実(1)
(1)会談――王と彼らと彼女
私が忘れかけていた古い書物を引っ張り出して読んでいると、突如荒々しいノックが響き、短丈のマントを肩から掛けた男が部屋に飛び込んできた。
褐色の肌もつややかな見上げるようなその偉丈夫は、母方のハイト族の風習に習って頭を剃りあげ、その左半分を見事な刺青で覆っている。マントの下の綾織の上着は土埃に塗れ、彼が長らくの国内調査より戻ったばかりだということを示した。
私に私的なものはほとんど存在しないが、内密な個人会談を行うためのこの[星辰の間]にこんなふうにやってくるとは、よほどに火急の用件らしい。
本越しにちらりと目だけを向ければ、その男――魔法士長オリザリオ・アーヴェンは恭しく一礼した後、私の左隣の男に向かって吠えた。
「なぜこんなところにいるのだ、シャルル! おかげで、報告会で大臣どもの吊るし上げを喰らったではないかっ!」
「君が大臣たちの吊るし上げなどに屈しない人間だということは知っているよ、オズ」
左隣の男シャルローズ・セバン・カトゥアは、書きかけの書類に半白の頭を傾けたまま、そう答えた。ニ、三の語を加え、それを私に示して確認をとると、書類の束を調子よく両手で整える。
オズが仁王立ちしたまま、不服そうに太い腕を胸の前で組んだ。
「私にあの阿呆どもの相手をさせて、おぬしはこんなところで書類作りか」
「おかげで早く仕事が済んだよ、オズ。ありがとう?」
「心にもないことを言うのは止めてくれ。で、それはどんなものだ?」
私が目で促したので、オズは向かいの席に腰掛け、卓上に軽く身を乗り出す。
「とりあえず、君の報告を受けて中西部山岳地方の開拓は一時中止の決定を。さらに従来どおりの徴税は無理と判断したので、別途方法を提示することにした」
「方法?」
「ひとつは、前期の納税を減らして後期もしくは中途期に持ち越せる分納制。もうひとつは、新たな作付け用のテム芋の苗またはコメイの備蓄を政府で売り出し、その購入費用を納税分として加算することが可能な補填制だ。これは上限が全体の二割までとするが、状況を見る限りではこちらが多くなるだろうな。地方領主の判断にもよるが」
「やはり減税はならんのか」
「君の気持ちは分からなくもないが、今の時点では無理だ。一度減らすと、元へ戻すのに〝増税〟せねばならなくなる。この意識の差は大きい。それに旱魃の被害状況を等級付けした君の調査報告には感心するが、等級に合わせて納税額を変えるとなると、それも問題だ」
「なぜだ」
「分からないかね、オズ。その理屈でいくと、等級ひとつの違いでコメイ一樽どころか百樽ほども差がつくのだよ。誰しも税は少ないほうがいい。民たちは必ず等級に不満を感じて、我先に被害状況の深刻さを提訴してくるだろう」
一度語を止め、シャルルは外見と同じく枯れきった声音を繋いだ。
「飢えているのは一部地域だけではない。この国全体が、すでに飢餓の状態にあるのだ。そして不満は容易く政府に向かうだろう。
皆おのれのことで頭がいっぱいなのだよ。重症地域分を肩代わりするという意識など、生まれる余裕もない。まして貴族に平民を救う義務があると考える者は、無いに等しいのだよ。残念ながら」
小さいながら貴族の生まれであるシャルルは、最後の言葉に若干のやさしみを籠めて、平民出身のオズを見た。ふう、とオズの禿頭が椅子の背にのけぞる。
「一ヵ月走り回った私の時間は、無駄に終わったな」
「……私は無駄とは思いませんが」
それまで黙っていた、右隣のヘクトヴィーン・レニアス・クガイ=ヤーマトゥーロが静かに口を挟んだ。長く下ろした黒銀の髪をさらりと揺らし、微笑む。
「あなたの詳細な被害状況の報告と極端な救済政策を事前に聞いているからこそ、主要八省の大臣たちはカトゥア大臣のこの提案を受け入れざるを得ないでしょう。閣下の提案は瑣末なものに見えましょうが、民にとっては大きな救いとなるはずです」
「……小僧めが、いっぱしに言うようになりおったな」
乱暴に呟き、オズがにやりと口の端を持ち上げた。子どものいない彼にとって、部下と仲の良いヘクターは幼少時より知り尽くした相手でもある。若き神官長の微笑が苦笑に変わった。
「ところで、異界の乙女とやらをもう聖地に向かわせたそうだが」
「ええ、一刻も早いほうが良いとの総意がございまして」
「一度会ってみたかったものだがな」
天嶮の巨人に匹敵する千里眼の持ち主と言われる彼は、独り言のように洩らした。
「異界の扉の調査は誰が?」
「カシュゲート魔法士に一任してあります」
「レスが?」
この師匠と違い、出歩くよりも王城から策の網を広げることを得意とする弟子の意外な行動に、オズは張り出た額の下の目を大きく見開いた。
「あなたに言われてするくらいなら自分からした方がいいと、快く承諾して下さいましたよ?」
「そいつは結構なことだ。あいつの手綱の取り方が上手くなったな」
「魔法士長どののお褒めに預かり、光栄です」
「あとで借りを作ったと言われないように気をつけろ。あいつは根に持つからな。じゃあ、乙女の護衛はルイスか……当然だな」
珍しい金髪の魔法士は、乙女の発見者というだけでなく、前回の乙女の護衛をしたキリアンの直系でもある。
「で、本物くさいのか?」
「それを私は真っ先に君に聞きたかったんだがね。君がなかなか旅から戻らないから、機会を失ってしまった。まあ今回は神殿が主導だから、私は口を出す気はないがね」
シャルルが骨ばった広い肩をひょいと竦めた。わざと染め分けたように左が白、右が黒の二色の髪をきっちり纏めあげ、オズをもしのぐ身長は痩せぎすで、太政大臣の墨色の礼服に身を包んだ姿は〝死神〟と称されるほど威圧的で表情に欠ける。が、今の彼は気心の知れたものばかりが集うせいか、いつになく和やかだった。見るものが見れば、という程度ではあるが。
王立学院の後輩というヘクターが、彼に教える。
「一応レスの紹介で、アマラリーヴァを派遣しています」
「スオウシャの姫の千里眼は未来視だろう。役に立つのかね?」
「未来視は、特定の未来が見えるわけではない。制御も不可能だが、これまで外れたことはない。ただし、未来視で視た映像の解釈を間違うと悲劇に繋がりかねん危険はある。両刃の剱(つるぎ)だな」
「で、間違った解釈もまた未来の一部というわけか……笑えんな」
「人生は悲劇の皮をまとった喜劇さ」
シャルルの独白にオズは皮肉に答え、書類と共にテーブルに置かれたコメイの鞘を手に取った。調査より自身が持ち帰ったそれは乾ききり、中身などないほどに痩せている。指で押せば、ぱりりと音をたて、呆気なく砕け散った。
「ひとつ質問なのだが、神官長どの。この旱魃が神の意志ならば、なにゆえ神は異界の乙女を遣わされたのだろうな。まるで……神が、御自身の意志をみずから覆しているようではないか」
はっと息を呑みたくなるほどの厳しい問いに、ヘクトヴィーンはしばし黙り、口を開いた。
「魔法士長どの。神の意志とは、計り知れぬものです。例えるならそう……あなたの着ている服の布地と同じく幾つもの糸が絡み重なり、織り合わされることによって初めて紋様の形を成す、壮大な織物のごときものと言えるでしょう」
テーブルの向こうの鮮やかな錦を眼差しで示し、謡うように続ける。
「旱魃も異界の乙女も無論われわれも、その糸の一連(ひとつら)に過ぎないのです。すべては大いなるひとつの意志――なれど、それが一体いかなる形を織り上げるのか、同じ織物のささやかな糸であるわれわれには推測することしか出来ません」
「……織物、か。上手いことを言う」
からかうように言うオズの目は、だが昏く静かだった。
「卑小な人の身で神の意志を語ろうというのですから、口先くらいは上手くもなります。
ただひとつ、われわれがはっきりと理解しているのは、神はすべてのものに〝在れ〟と……生も死も苦も楽も等しくこの世界に存在することを赦して下さるということのみ。それを試練ととるか奇跡ととるか、これはすべて人の心なのです」
「人の心……か」
「ええ。わが主神アーミテュースは太陽神ゆえ、日照りのたびに、かつては怒りを鎮める血生臭い儀式が捧げられたこともあります。それでも太陽がわれわれの生活になくてはならぬことは、誰しも認めるところでしょう。そこに善悪も正邪も、ましてや矛盾など存在しません。どちらも真実だからです」
説法に慣れた声は、大河のさざめきのようにどこまでも漂い、陽光の差し込む室内を不思議な温度で満たした。
「光も闇も水も大地も人も、そして異界の乙女ですら、善なるものでありまた害悪にも成り得るもの。どちらであるか――それは神が定めるのではなく、われわれ自身が選びとらねばならぬものなのです」
ヘクターの低声が語り終えてなお、室内は水を打ったような静寂に包まれていた。
ふいに手を打つ乾いた音が、部屋の奥から響く。内宮に続く裏戸から衣ずれとともに現われたのは、薄紅色の衣装をまとった第一妃ミア=コラーユ・ジェニア・エメリア・スゥーマだ。
波打つ栗色の髪をやわらかく結い上げ、聡明な光を宿す新緑の瞳。三人の子を産んだと思えぬしなやかな肢体を包んだドレスは、襞(ひだ)を詰めただけの簡素な仕立てで、宝石は指環のみ。
それでも、けして暗くはない室内がさらに輝きに満ちるように思えるほど、彼女の放つ気品は惜しみなく周囲を照らしていた。
「素晴らしいお説教でございました、ヒジリ・アーダ」
「ありがたきお言葉にございます。ミア=コラーユ妃殿下」
立ち上がり、ヘクターが腰を折って彼女の右手を手のひらに取る。
「会談の場で説法など、少々無粋でございました。習い性というのは困ったものです」
「そんなことはございませんわ。どうせ魔法士長の愚痴に太政大臣どのが茶々を入れてごまかしていたのでしょう? 政治のことで頭がいっぱいな殿方に、少しは世の中の真理を考えるお時間を差し上げるというのも、有意義なものですわ」
鈴の音を振るように軽やかにそう告げると、第一妃は童女のごとくあどけなく微笑んだ。
つい、と私の元に寄り、読みかけていた古書の縁を指先で押さえる。
「せっかくヘクターが良い話を聞かせてくれたというのに、いささか品位に欠けましてよ?」
「――話は聞いていた」
「話を聞く時は、きちんと人の目を見るようにと習いませんでしたこと? 国民の鑑(かがみ)がこのようなことでは困りますわ」
するりと古書を持ち上げる。取り返そうとした私の手が空を切った。
「おい、それは私の仕事だぞ」
「顰め面をして本とにらめっこをするくらいならば、他の皆の智慧を借りればよいではありませんか。幸いここには、国でそれと知られた賢者がお揃いあそばされましてよ?」
その本を後ろに控える若い男に手渡す。侍従かと思って睨めば、驚いたことにそれは、艶やかな黒髪を背に流し、彼女と同じ緑の瞳を持った若き王子であった。
私の視線に気付き、わずかに口元を曲げる。
「私は単なる母の付き添いです。ただし、乙女に関わる問題を解き明かすというのなら、是非お手伝いさせていただきましょう。このたびの乙女の一人を保護した者として、私にも責任がございますゆえ」
「殿下、私にもそれ見せて下さいよ。――あ、私はこれを持って来ておりましてね? 謎解きのお役に立てましたらと」
銀色の見慣れぬ四角い物体を手の内で振り、そう言って横から顔を出したのは、かつて神童の名をほしいままにしたツークス領主だ。丸眼鏡をかけた顔を剽軽に崩す。
困惑しきった私を眺め、シャルルが小さく笑いを零した。
「太政大臣の私に神官長、魔法士長、第一王子、学院の元神童、それに妃殿下まで揃われては、お一人で解決に臨まれるわけには参りませぬようですよ? 陛下」
賛同するのか、オズとヘクターまでが微笑を浮かべている。私はますます表情を顰め、そして諦めたように溜め込んでいた息を吐き出した。
これで出揃いました~。