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夜明け前、ルイスがマキのいるテントから出てきた。小さくなった火の傍で、リオコは俺が持ってきた毛布に包まり、眠っている。
疲れた様子の彼にブッセージュ茶を差し出せば、軽く礼を言って受け取った。
「マキの様子は?」
「とりあえず熱は下がった。後は本人の体力次第だな」
持続的に長時間魔法力を行使したせいか、ルイスの顔色は白いというより灰色だった。
「大丈夫か?」
「いろいろと疲れたよ。それより君は? なんだかこの世の終わりみたいな顔しているが」
あっさりと看破され、俺は話そうとしてためらった。リオコが寝ている傍では言い出しにくい。
俺の視線に気付き、ルイスが無言でリオコを抱き上げて、マキのテントに連れて行く。戻って元の位置に座るや、「で?」と俺をうながしてきた。
「その、二人を一緒に寝かせて大丈夫なのか?」
「うつる病気じゃない。喉の辺りにある腺が炎症を起こしかけて、熱が出ているだけだ。――で、はぐらかすなよ? こっちは疲れてるんだ」
「ああ……」
うながされるままに、俺はリオコに告白されたことを話した。ルイスは驚きもなく、青い目を興味深そうにまたたかせる。
「彼女もずいぶん思い切ったものだ。悪い男だな、君は」
「そ……そうか? はっきり断ったんだが」
「自覚がないときていれば世話はない。それで? 君が死にそうな顔をしている原因は、それだけじゃないんだろう?」
「……付き合っている人が、いたらしい」
はあ?とルイスが素っ頓狂な声をあげる。慌てて制した。
「二人が起きたらどうする!」
「起きないように細工はしてある。一、二時間は平気だよ」
万能の魔法士はけろりとして言い、呆れたように俺を見た。
「おめでたい男だな、君は。彼女の過去に異性の影がないとでも思っていたのか? リオコは女性として充分魅力的だよ。他の男が放っておくはずがないだろう」
確かにツークス領主のような不届き者が他にいたとしてもおかしくはないのだが。
「その……リオコは付き合っていた相手と、わりと、深い仲……だったらしい」
「ふうん?」
「お……乙女じゃ、ないと、言っていた」
断崖絶壁から飛び降りたつもりでそう告げたのに、ルイスは目を丸くすると、肩を震わせて笑いはじめた。俺の眉間に縦皺が増す。
「なにが可笑しい」
「いや……先を越されたと思って」
「なに!!!」
反射的に剣の柄に手をかける。ルイスは笑いながら、首を横に振った。
「違う違う。リオコに手を出そうというんじゃないさ。あー……まったく、言い寄る男はいただろうと思っていたが、まさか……ね。リオコには完敗だな」
笑いをおさめ、ルイスがなんとも複雑な表情で俺を見る。
「怒らないで聞けよ、タキトゥス。実際のところ〝異界の乙女〟は二人もいらないだろう?」
「いきなり何を言い出すんだ、ルイス」
「まあ聞けよ。私はね、もし聖地が本当に〝異界の乙女〟の犠牲を求めるようなら、彼女を〝乙女〟でなくしてしまえばいいと思っていたんだ」
乙女デナクシテシマエバイイ。奇妙な記号のように聞こえたそれが、はっきりと脳に刻み込まれた瞬間、俺は叫びだしそうになった。片手で口を押さえるが、代わりに耳まで熱くなる。
「おまえ……それ、本気で言ってるんじゃないだろうな?」
「本気だったよ、わりとね。だけど、どこまで純潔が重要視されるかはさておき、さすがに二人とも〝乙女〟じゃないとなると水門の神に申し開きができないからね。この計画は白紙だな、残念ながら」
飄々と言ってのけるが、この男は、リオコを犠牲にしてでもマキの安全を優先させる気だったのだと悟り、俺の肌がぞわりと粟立った。拳を握り締める。
「おまえ、本当に一体なにを考えている?」
「マキの幸せ」
「リオコを犠牲にして、マキが喜ぶとでも思っているのか?」
次第に激昂する俺に、氷の冷たさを纏った青い目が向けられる。
「だから言っただろう。私の想いは執着だと」
「間違っているぞ、おまえ……」
「分かっている。だけど……もうどうしようもないんだ」
俺は握った拳の行き場を失った。
ああ、この男もどうしようもない想いの闇にいるのだと思った。恋をしているのだと。
「恋愛などいくらでもできると言うだろう? だけど、私は違う。マキを失ったら、同じように他人を欲することはもう二度とないと思うんだ。それくらい、替えようがない」
俺は拳を開いて、弱まってきた焚火に小枝を投げ入れた。
「そこまで言い切れるのか。羨ましいくらいだな。俺は……迷ってばかりだ。リオコをきちんと両親の元へ帰してやりたいのに、踏ん切りがつかない」
「私も迷うさ」
ルイスは、ほどけた金色の髪を手ぐしでかきあげた。憂いを含んだ、彫像のような横顔。わずかにはだけた胸元に輝く金糸の髪が舞い落ち、男でさえどきっとするような色香だ。
なぜこれを見て、マキが普通でいられるかが不思議でならない。
「マキは恋愛には疎そうだが、一度気づいたら一気に傾きそうじゃないか?」
「気がつくまで保護者でい続けろと? 完全に安心できる相手と認識されて、他の男の名を口にされると、さすがにどうでもよくなってくるよ」
「マキが?」
「……さっき夢うつつで、私を誰かと間違えた」
吐き捨てるようにぼそりと告げられれば、さすがにあり得ないと笑い飛ばせなくなる。
――マキが……他の男の名を?
「友人や家族ではなく?」
「寝床で寄り添っている相手を、どう間違うんだ? 〝しーくん〟が女の名であれば、問題はないがな」
それはどう聞いても、男性の愛称のような気がしてならないが。いや、だがまさかマキが?
「……異界で決闘するなら援護するぞ」
「ありがたい申し出だが、自分の敵は自分の手で捻り潰すのが私の信条でね。だが……そうだな。決闘の立ち会い人はお互い交替で、というくらいはお願いしようかな」
かすかに笑みを取り戻すと、ルイスはカップに残った茶を一気に飲み干し、休息のためにテントへ去っていった。
日が昇りはじめた頃、マキとリオコが起きてきた。もう少し寝ていてもいいのだが、日が昇ると起きる習慣がついてしまったらしい。
『おはよう』
「……おはよう」
あれ以降初めてのリオコとの会話は、だが目を合わせることはできなかった。無言で薬缶を火にかける俺に、マキがリオコの左手を掴んだまま、そっと話しかけてきた。少し声が掠れている。
『ルイスは?』
「寝ている。先に朝食を作るよ。できてから起こせばいい」
『あの……大丈夫、なの?』
確かにいろいろと大丈夫ではないのだが、俺は笑ってマキの頭をぽんと撫でた。
「心配するな。彼は強い」
『でも、一晩中治癒術使ってたんでしょ? あたしのせいで』
大丈夫でないのはそのせいではないのだが、それを俺の口から言うわけにもいかない。
「君が元気な顔でいれば、彼の苦労も報われる。心配なら、あとできちんと自分でお礼を言うといい」
『うん。ありがと、タク』
嬉しそうに笑う顔は、いつもと同じだ。裏表どころか表しかないような屈託ないその態度は、どう見ても想い人を胸に秘めているようではない。
――女性は最大の謎だ、と言ったのは誰だったかな。
軽いため息が洩れる。やや離れたところで、何気なく朝食用のパニを作るリオコをちらりと見、俺はパニを焼く小さな石窯を積みはじめた。
起きてきたルイスは、顔色こそ良くなっていたが、いつもと様子が違うようだった。それに気付いてか、マキの態度もぎこちない。
俺はまだリオコと目が合わせられない状態だし、これまでにないほど旅の雰囲気は固いものになっていた。
朝食を終えて荷造りを済ませた後、マキがお手洗いに行きたいと言い出す。
「近くにいろよ」
『近くでトイレ済ませるなんてありえないし!』
『じゃあマキちゃん、指環持って行っといて?』
リオコが魔法話の指環を外して差し出す。紅い石を嵌めたそれを右手につけ、マキは俺たちがついて来ていないことを確認するように、幾度か振り返りつつ、岩陰へと入っていった。
女性の品位を傷つける行為はしたくないが、一人になる今が一番危険だ。俺はルイスと目で会話し、少し遅れてその後を追った。幸い身長があるので、斜面にいるマキの姿は容易に視界に入る。
俺が見ていると知ったら烈火のごとく怒りそうなので、数ケーン手前で足を止めた。
ふいに、風が踊った。
――なんだ?
緊張を漲らせた俺の脳裏に、それを裏づけるように、ジャムの〝声〟が響き渡る。
『大将! まずいぞ、やつらが来る!』
肉声ではないその声を同時に感知し、ルイスがこちらへ向かって叫んだ。
「マキ!」
刹那、ルイスと俺の体が青白い光に包まれる。ただの光ではない。
突然現われたその光は、蛇のように細長く、自在に動いて胴、手足、頭と絡んだ。動こうとすると強く締めつけ、まるで金縛りのごとくまばたきまで固定される。
電光の檻の向こうで、マキに近づく背の高い男の姿が垣間見えた。
――マキ……!
鉄色の長髪を首の後ろでくくり、宵闇を思わせる藍摺(あいずり)の服、特徴的な銀の格子紋。
闇の女神スザナを祀る神官一族の証であるそれを睨み据え、俺は喉の奥で苦く吐き捨てた。
「……ファリマめ」
肩越しに、青白い閃光が大きく炸裂して消える。背後でルイスが呪縛を解いたのだと察する間もなく、俺は歯を食い縛って強引に体を動かすや、剣を掴み、縦横にそれを揮った。
キイイィ…ン、と澄んだ金属音をたて、拘束が解ける。粉々になった光の蛇は、きらきらと輝く塵を舞い散らせ、ふっと朝の空気に溶けて消えた。
その隙に、やつはマキを片腕に抱いて岩の高みへと逃げていた。
「待て!」
追う俺の前に、やつと同じ藍摺の装束と覆面に身を包んだ一群が現われる。手には細身の白刃。迷うことなく俺はそれらを斬って捨て、一気に跳躍すると、やつの頭上へ切っ先を振り下ろした。
鈍い衝撃。光、そして遅れて爆発音が俺を襲う。
まるで目に見えぬ巨大な砲弾に打ち抜かれたように、周囲の岩ごと吹き飛んだ俺は、勢いよく下の斜面に突き落とされる。
『タクッ!』
マキの悲鳴。耳でそれを捉えながら、俺は体を丸め、砂煙と共に足から岩の上に降り立った。
俺を吹き飛ばした男が、掠れた低声を皮肉に響かせる。
「さすがは風神。図体のわりに身軽なことだ。が……こちらはどうかな?」
告げるや、まるで朝陽をかき消すように、やつの周りに数十もの鈍い灰色の光球が出現する。
その不気味な光の雨を撃ち下ろす瞬間、闇の女神の加護を受けた魔法士――ヴェルギウス・アスペル・ファリムスは、はっきりと不敵な微笑を唇に刻んでいた。
こんなところですが、タクの章はおしまいです。
次章は閑話予定。