18-5
【注】2011/6/23 18章全面改稿しました。
5
異界の娘たちが聖地への旅に出立するにあたり、俺はヤーマトゥーロ神官長に呼び出された。
「楽になさい、タキトゥス・ムシャザ」
ひざまずき、拝礼をしようとする俺を、神官長が立ったまま制す。俺は軽く頭を垂れ、部屋の入り口付近に控えた。
マキやリオコは気軽に名を呼んでいるが、神官長は太政大臣と並ぶこの国の柱となる方だ。現在はそこまで神殿が隆盛を誇っているわけではないが、過去には王よりも神官長が権力を持っていた時期もあったと聞く。
若干二十七歳の彼がその地位にあるということは、適任者が他にいなかったというだけでなく、旧弊な老神官たちを御しこなせる技量が備わっているという実証でもあるのだが、異界の娘たちにそのことは詳しく告げていない。
これ以上の重圧は必要ないし、神殿側としても、個人として親しみを持ってくれるほうが懐柔しやすいというものだ。もっとも、まさかマキに怒鳴られたり、勉強を教えたりする羽目になろうとは思わなかっただろうが。
それでも、一人息子を抱える彼は、神官長という立場以外にも二人に親しみを感じているようにも見受けられる。
俺は、威厳のある黒銀の髪を長く伸ばしたその男を、まっすぐに見つめた。
「何の御用でしょうか、ヒジリ・アーダ」
「あなたに、ルイスとともに乙女たちの旅の同行を頼みたいのです」
俺は再度頭を下げ、了承を示した。
「光栄なことです」
「そこで確認をしたいのですが……タキトゥス・ムシャザ。貴方の主は誰です?」
その言葉に含まれたものに、俺は瞬時考え、口を開いた。
「私の騎士の誓いは、ただ一人リオコにだけ捧げています」
「王子は?」
「私に守られる気はないので、代わりに剣を教えろと言われました」
素直にそう答えると、神官長はわずかに目を見開いた。
「なるほど。では、ムシャザ。あなたはなにがあろうとリオコを守るということでよろしいのですね?」
「改めて申しあげるまでもございません。ただ」
「ただ?」
「これをご覧ください」
俺は右手の手袋を脱いで、彼に傷跡を見せた。腱や神経が切れ、最初はぴくりとも動かなかった指は、今は曲げ伸ばしに支障はないものの完全な拳を作ることはできない。使える指と手のひらを鍛えあげ、手袋に滑り止めをつけるなどして、ようやく前とほぼ同レベルの抜き打ちができるようになるまでに一年半以上かかってしまった。
「剣を遣うには支障ありません。ですが、私を兵力のひとつとするならば、真実を知っておいて頂いたほうがよろしいかと」
「剣を抜く手を見たものがいない〝風神〟と聞き及んでいたのですが」
「見る者が未熟なのでしょう」
「……恐ろしい男ですね。ですが、まあ剣に支障がないのであれば、それに問題はないでしょう。ルイスや乙女たちに打ち明けるのは任せます。それよりも――問題はこちらでしょうね」
神官長が、一抱えほどの黒い革の鞄を差し出す。
「これを、あなたからリオコへ返して下さい」
「しかし……これは」
リオコは失くしたと思っていたようだが、彼女の唯一の持ち物であるその鞄は、俺の部下が見つけたあとアルマン王子へと渡り、王に預けられていた。王が異界の乙女と断定した以上、一日も早く返すべきだと王子に訴えていたが、まさかこのタイミングで戻ってくるとは思ってもみなかった。
「私からでよろしいのでしょうか?」
「あなたが返すことに意味があるのです。一度信頼をおいた相手の別の面を知り、動揺するところにこそ乙女の真価が現われるだろうというのが、陛下の仰せです」
これにはさすがに驚いた。王位継承のことといい期限を二週間に区切ったことといい、王にはどうも乙女に対し、他の者とは異なる感情が潜んでいる気がしてならない。
それより不安なのは、この鞄を見てリオコがどう反応するかだ。出逢った当初の泣き顔を思い出し、俺は暗澹とした気分になった。
「もし私が警護の任を外されるようなことになれば――」
「心配はいりません。他の護衛も含め、別の者がツークスで手配します」
別の者、つまり神官以外という事だ。今回の件は神殿が主導ではないのだと俺は感じた。
リオコたちの部屋も王城にしつらえていたし、なにより旅の出立が性急すぎる。
――神殿側を強引に押さえ込んでいるのか……。
そこにはやはり王の意志が絡んでいる気がする。だが、分からぬことを思い悩んでも仕方ない。俺は腹を括って鞄を受け取った。
「ところでヒジリ・アーダ。他の護衛という件ですが、私の部下も一人、その中に加えて頂きたいのですが」
動き出した歯車は、止まらないのだ。
「タク、くろいっ!」
香ばしい朝食の香りの漂う中、またも過去に想いを飛ばしていた俺に、マキが指を差して怒る。俺は一瞬手にしていたカップを落としかけ、隣でルイスが茶を喉に詰まらせた。ごほごほとむせる。
「なんだ、急に」
異界の言葉でまだぶつぶつ言うマキに、リオコが、簡易の竈(かまど)に貼りつけたパニを器用にヘラでひっくり返しながら手を伸ばした。途端、魔法の指環が威力を発揮する。
『だって、タクってば、ここんとこずっと暗い顔してるんだもん』
『マキちゃん、くろいって言ってたよ?』
『えっ!』
マキが、きょとんとした顔でリオコを見る。
『ほんとに? え、〝くろい(ニグル)〟って暗いって意味じゃないの?』
「暗いという意味もあるが、〝服の色が暗い〟というくらいにしか使わないぞ。〝暗い〟は〝オスキュロ〟だ」
ルイスに教えられ、マキが言いにくそうに「おすきゅろぅ」と呟いた。きっと俺を睨む。
『タク、違ってたんなら早く教えてよ!』
「なんとなく意味は通じたから、いいと思ったんだ」
ただ単に直すのが面倒だっただけだが、そう言うと、マキは子どもみたいに頬を膨らませて文句を続けた。焼きあがったパニを皿に移すのに、リオコが手を離してしまって意味はさっぱり分からないが、通じなくてもしゃべるのを止める気はないらしい。
しゃべりながら、火にかけた鍋の中でイーの干し肉と野菜を炒めたものをパニの上に盛りつけていく。二つのことを同時にするせいか、手元が狂って野菜が皿に零れた。
リオコが笑って、フォークで盛りつけを丁寧に直し、上からもう一枚パニを被せる。また顔を見合わせ、二人でなにやら笑った。
「二人とも、しゃべってばかりいるとお茶が冷めてしまうぞ」
俺の横ではルイスが、甘いものの好きな彼女たちのために、ブッセージュ茶に蜂蜜と干した果実を薄く切って加えている。
――不思議な光景だな。
談笑しつつ食事の支度をする二人は、異界から来た少女。ルイスは魔法士団[双月]の士団長。一介の騎士である普通の俺が、この場にいることが不思議でならない。さらにこれが、この世界の明暗を分けるかも知れない、聖地へ向かう旅の途中だというのだ。
――こんなに穏やかな気持ちで旅をするとは……。
それでも、この穏やかさがいつまでも続けばいいと願うのは、いろいろと過去をふり返って弱気になっているせいなのだろうか。
「あー、また、タクくろいっ」
「〝暗い〟だと言っているだろう」
『いいんだよ、もう。タクは〝黒い〟で』
途中から指環の力を借りてルイスの言葉を聞き取ったマキが、勝手に決めつける。
「断定されると、まるで俺が腹黒いみたいだな」
『似たようなもんじゃん』
『マキちゃん、そういう言い方はないんじゃない? ……はい、タクの分』
リオコが〝サンドイッチ〟とやらを盛りつけた皿を手渡してくれる。薬味として最後に絞ったコジの香りが食欲をそそった。こちらの料理を異界風に仕立てたそれは、当然リオコの創作で、ヒューガラナの宿ではかなりの評判だったらしい。
「――護衛のくせにお嬢ちゃんの手料理付きとは、待遇が良すぎねえか、大将」
とジャムに皮肉を言われたが、旅のはじめは体調を崩しがちだったリオコが、生き生きと自分から積極的になにかをしようとしているのだから、俺にそれを止める気はない。
今は、料理にくわえてヒューガラナで買った神話の絵本に夢中のようだ。俺たちに尋ねることなく、二人だけで頭をつき合わせて少しずつ読んでいく様は、端から見ても微笑ましかった。
朝食の片付けを終え、さすがに徒歩の旅の疲れが出たのか、肩を寄せ合ううちに居眠りをはじめた二人に気付き、俺はその傍に簡易の日除けを立てた。
今はまだ二人のいる場所は岩陰になっているが、じきに日が天頂から差す。地上より強烈なその光に、彼女たちを晒すのはしのびなかった。
「相変わらず気のつく男だ」
別の岩陰に座り込んだまま、ルイスが褒め言葉にもならぬ口ぶりで言う。
「それだけ気が回るのに、なぜ君はリオコの気持ちを無視するんだ?」
「気持ち?」
「私に言わせる気か? 彼女の目や態度を見れば分かるだろう。リオコは君に好意を寄せている」
言われなくとも、それは分かってはいた。不安からすがるように向けられていた視線が、次第にその奥に熾火(おきび)のように熱いものが湛えられはじめたことに、胸が騒がなかったわけではない。
しかし、彼女は異界の人間。彼女を守り、元の世界に帰すことこそが俺の役目なのだと言い聞かせてこれまで過ごしてきた。
「スオウシャの姫も言っていただろう。渡り人はいずれ帰ると」
「そんなことにこだわっているのか? くだらない」
「だが、姫の未来視は外れないと、おまえも知っているのだろう?」
「未来視は〝泣いている〟だ。〝帰る〟わけじゃない」
冷静な青の瞳が、すっと俺に突きつけられる。
「いずれ離れ離れになるかもしれないから、恋愛の対象にはならないと? 馬鹿げた信条だ。それだったら、誰とも恋など出来ないぞ? この世界にいるものでさえ、ずっと共にいる保証などない。だいたい、どのみち死ぬときはばらばらだろうからな」
かつてスオウシャの姫と婚約し、破談となった彼の言葉は軽いものではない。
それでも、俺は頷くことができなかった。ルイスが呆れたように肩をすくめる。
「第一発見者という好条件があり、かつ相手も好意を寄せているというのに、なにをためらっているんだ。私だったら、すぐに応えるのにな」
思わず彼を睨んだ。なにを考えているのだ、この男は。しかも第一発見者という好条件だと?
「そう睨むな。リオコには手を出さないよ。妹みたいなものだし、応援すると約束したしね」
「……本当に、あのときマキに手は出していないのだろうな?」
「出していないよ。第一これだけ見張られているというのに、どう手の出しようがあるというんだ。でもまあ……マキがリオコみたいな目で見てきたら、どうなるか分からないな」
左手が自然と剣の鯉口に触れる。
「冗談だよ。怖い男だな」
「おまえこそ本気で言っているのか、ルイス。異界の乙女ということを差し引いても、相手はまだ十六。しかも、知り合ってまだ二週間だぞ」
「図体だけでなく、頭まで固い男だな、君は。お互いの気持ちさえあれば、些細な障害など問題にならないよ」
「道徳の問題だ。旅の最中に絶対に手を出すなよ」
「……私の侍従のようなことを言うんだな」
ルイスの身近に常識を備えた人がいると分かって、少し安心だ。剣から手を離す。
「前の乙女のことだが――」
唐突にルイスが話を切り替える。
「いろいろと調べてみたが、どうも不可解だ。不明な点が多すぎる」
「乙女の行方のことか?」
「それだけじゃない。どこから来たかもさ。読んでみろ」
小さな冊子を差し出す。最初のページをめくってみて、俺は驚いた。
「これは……」
「わがご先祖の手記さ。だが、肝心なことは一切書いていない。異界の乙女とどこで出逢ったのか、その後どうなったのか――いや」
語を切り、ルイスは束の間目を閉じた。
「書いていないことはそれだけではない。共に聖地に行ったという、もう一人の騎士についてもほとんど触れられていないんだ」
俺は手記をめくってみた。内容の多くに乙女である〝ユリア〟の名が出てくるが、時折〝彼〟という表記が垣間見える。
「もう一人については、著者のキリアンと親しいということ、カーヅォ以上の出自であること。それに男であるということ以外、分からない。関心がなかったわけではないだろう。好意を寄せる女性との旅に、男二人で付き従うんだ。だが、巧妙なまでに彼の描写が省かれている」
「つまり、意図的に隠されているということか?」
「そう。それらすべては、何者かの意志によってわざと空白にされた。ここまでの影響力をもつものは、ただひとり――当時の王ディーノ=オルフェイド・マキアス・サーブル・マフォーラス、その人さ」
王。鍵とも思えるその語句に、俺は出立前によぎった考えを思い出した。
ルイスにリオコの鞄を託された経緯と、そのとき感じたことを話すと、思い至るように幾度か頷く。
「ひょっとしたら、王は乙女について何かご存知であらせられるのかも知れぬな……」
「王が?」
「現王ディーノ=サルディン陛下は、ああ見えて努力家でね。歴史に深い造詣をもち、特に雷王ディーノ=オルフェイド陛下を規範のように考えていらっしゃるそうだ。ちょうど最初の乙女の訪れた治世の王であると同時に、様々な事業を起こした方だからな」
「では、オルフェイド王の遺した何かを見習って、このようなことを?」
「ないとは言い切れん。もしやすると、もう一人の騎士は王家に連なる者かもしれんな」
だとすれば、王家に都合の悪いことを隠蔽されているのだとも思える。
――都合の悪いこと……オルフェイド王は乙女になにをしたのだ……。
昏い考えが胸中を渦巻く。ぽつり、とまたルイスが言い出した。
「タキトゥス。タキ=アチファのかつての役割を知っているか」
「……ああ」
重い気持ちで俺は頷いた。アチファは、聖地タキ=アマグフォーラに至る高地の名であるが、同時に聖地の入り口の村の名でもある。
その村はかつて〝供犠の村〟と呼ばれた。供犠つまり、生贄のことだ。
死の山アッスズの一脈である当地は、地盤が固く、また降り積もる灰と岩で作物など受け付けぬ荒れ地であった。そこに居を構えた人たちの生きていく術は、聖地を管理し、訪れる者から寄進を受けることだった。
聖地の管理とは、訪れた者たちの願いが聞き届けられるよう、手助けする意味も含まれる。今でこそ厳重に禁じられているが、過去には供物となる動物を世話し、請われれば村の娘や子どもを差し出すこともあったという。
そう――聖地におわす始祖神は、血を求める神なのだ。
だからこそ、最初の乙女の伝説も、悲惨な結末がまことしやかに伝えられるのだ。
――事実であってたまるものか。
決意にも似た気持ちで俺は思う。それは知らずに言葉として出ていた。
「……犠牲になどさせない」
「君ならそう言ってくれると思っていたよ、タキトゥス・ムシャザ」
ふっと口唇に笑みを湛え、ルイスが俺を見る。
「なんだ。やっぱり君もリオコが好きなんじゃないか」
「そういう問題ではない。俺は彼女を守ると誓った。それは絶対に果たす。それだけだ」
「まあ……そういうことにしてもいいが」
皮肉にルイスは肩をすくめる。
「私の想いはね――恋ではないのだよ、おそらく。これは、執着だ」
「……」
「たぶん私には、恋愛感情は存在できないんだ。アマラとの婚約も、彼女が私を望んだというだけだったしね。私のような者を求める女性など、他にいないと思っていたから」
異なる色とずば抜けたマーレインの力を持つ彼。貴族として産まれたことで天都で高位に登り詰めたが、貴族とは元来保守的なものだ。彼の受けてきた扱いは、社会の下層を生きてきたジャムと同じ峻烈さであったことは想像に難くない。
「だが、この私が、生まれて初めて自分から欲しいと思った相手に出逢った。私はね……これを手放す気など、これっぽっちもないよ」
それは宣言だ。俺とは真逆の、掴み取る激しさを秘めた誓い。青い瞳が、妖しい炎を灯す。
「母親だと名乗る女が、子どもの両手を引っ張って奪い合う逸話があるだろう? 審判は、痛がる子どもの手を離した女を母親だと認めるが、私は愚かだと思うね。真に求める相手ならば、腕が裂けようが、私なら離さない。
すでに彼女はこの世界を知ってしまった。どちらの世界を選んでも、必ずその選択を悔いるのであれば、私はこちらに引きとどめることに力を惜しむ気はないよ」
俺の胸をいささかの不安がよぎった。
「なにをする気だ?」
「なにも。彼女を庇護し続けるだけさ。なにしろ最初から彼女の傍にいたのは、この私だからね。彼女にとって、この世界の基準となるものは私だ。幸いにも、彼女は私をすごく信頼してくれているようだし、ね……」
俺は呻いて、片手で頭を押さえた。執着どころではない。これが好意が原点だからまだよいものの、ひとつ間違えば犯罪に近い。
決めていたはずの俺の覚悟が、なんと甘っちょろく感じることか。俺は深くため息をついた。
――マキ、おまえを守る男はとんでもないやつだぞ。
警告をしたいが、かといって聖地に辿り着く直前の今、不安にさせるのも気が進まない。第一、彼女を傷つけるどころか守ろうとしているのだ。
――人の想いとはままならぬものだな……。
もう一度息をつき、次第に中天へと昇る日輪を眺める。荒れた岩肌のその先に、天へと突き立つ数本の鋭い岩山が小さく望めた。
あれこそが、聖地だ。
推敲しているうちに日付マワタ…。長くてすみません。ひょっとしたら後日切るかも。。。