18-4
【注】2011/6/23 18章全面改稿しました。
すみません…元「18-3」の内容と同じです。
4
「……ク。タク」
ずっと過去の記憶に浸っていた俺は、名前を呼ばれ、はっと我に返った。
目の前でマキが下から覗き込み、ひらひらと手を振っている。
「タク、くろいよ?」
〝暗い〟と言いたいのだろうか。つたないマフォーランド語で心配の声をかけてきた異界の少女に、俺は少々情けない気持ちで首を振った。
「いや、平気だ。心配をかけてすまない」
「ヘーき?」
何でもないのだと伝えたいが、いかんせんマーレインではない俺に送心術は使えない。感情表現が豊かなほうでもないので、身振りでもうまく伝えることができなかった。
悩んでいると、マキがにっと笑って、自分の両頬を指先で押し上げる。
「タク、くろい。わらって!」
たしかに日に焼けた地肌は白いとは言えないが、なんとなく可笑しくて苦笑する。それを見てマキは満足そうに頷くと、背を返して小さな歩幅で先を歩きはじめた。
タキ=アチファ、そして聖地アマグフォーラに辿り着く行路は、勾配が急な岩の道だ。体を鍛えていたというマキはわりと平気な顔をしているが、華奢なリオコには辛いらしく、弱音は吐かないものの徐々に歩みが遅れがちになっていた。
最初は道を知るルイスが先に立っていたが、魔法士でもある彼がリオコの近くにいた方がいいだろうと、今は最後尾を任せている。
ときおり彼に手をとられながら、懸命に階段状の岩を登る少女をしばしふり返り、俺は歩みを再開させた。
暑くなる前にできるだけ進もうと深夜に出発を決め、これまでに三度の休憩を挟んできたが、少し長めの休憩をとったほうがいいのかもしれない。暁闇の青さをかき消し、荒野に昇る白熱した光を仰ぎつつ、そんなことを考える。
先人が歩んだやや磨り減った岩ではなく、先の尖った大きめの石を踏みしめるように進むマキが、また俺をふり向いた。足を止め、左の拳を宙に突き出す。
「ひゅーがらな」
右拳をそのだいぶ上にかざして、
「あまぐふぉーら。……わたし、どこ?」
「ここくらいかな」
両拳の空間の下から三分の一辺りを指差すと、マキは眉を八の字にして不満を示した。
「え~。xxx」
言っている内容は分からないが、おそらく文句だろう。俺は笑って大股にマキに追いつくと、頭を一撫でして、荷物の後ろをぽんと叩いた。
「ほら、文句を言っていないで行くぞ。歩かないと着かない」
「タク、いじわる~」
教えたばかりの言葉を使って、マキが睨む。どうしてもマフォーランド語の悪口を教えてくれとねだるのに負けてしまったのだ。女性は外見も言葉遣いも品良くあって欲しいのだが、それは男の勝手な願いなのだろうか。
「いじわるじゃない。早く聖地に着きたいだろう?」
「つきたいだろう?」
「そうだ。がんばれ」
「タク、がんばれ?」
「……俺は君に言ったんだが」
「言ったんだが?」
鸚鵡返しの言葉は、微妙に会話になっているようでいて、相互理解には程遠い。またも考えこむ俺に、マキが首を傾げる。
「タク、くろい?」
どこまで俺を黒くすれば気が済むんだ。出会ったばかりの頃、リオコとも魔法話の指環なしで同じように会話をしていたはずだが、ラクエルの通訳があったせいか、もっと意思の疎通が出来ていた気がする。
「困ったな。思ったより難しい……くそ」
「くそ?」
思わず洩れた俺の独り言を、すかさず聞きとがめる。また女性に悪い言葉を教えてしまった。
「今のは忘れろ」
「わすれろ? ない。くそね。くーそー」
「くり返すな」
「くーそー」
分かってやっているのかと思うほど、悪ガキのような笑顔を浮かべて、マキが道を駆け出す。
「待て、マキ!」
「やーだ。くーそー」
「マキ!」
どう怒っても逆効果のようだ。俺は心中でやれやれと頭を抱え、同時にしばらく見ていなかったマキの曇りない笑顔に安堵を感じた。
リオコと違い、喜怒哀楽のはっきりしたマキは、この旅の全員の元気の源だ。ときどき突っ走りすぎるが周りの様子もよく見ていて、リオコを慰めたり、ときには俺も叱咤され、ずいぶんと助けられた。
呆れるくらい前向きなマキの様子がおかしいと感じたのは、ヒューガラナの街に着いてからだ。最初はあの襲撃のせいだろうと思っていたが、休養のためにスオウシャの姫と一緒に公衆浴場に行った後から、さらに口数が極端に減っていた。
「――話を聞いたほうがいいんじゃないのか、ルイス」
前夜、思い余ってそう言い出した俺に、彼女を最初から保護してきた男は冷静に否定した。
「話があるなら彼女のほうからするよ」
「自分からは言いにくいこともあるだろう」
「マキは子どもじゃない。私たちに話して解決することなら、きちんと話すさ。まあ変な方向に考えていないとも限らないが……自分から話さない以上、無理に聞く気はないよ」
「自分に心当たりがあるとは思わないのか」
「あの夜は何もなかったと言っているだろう。無理を強いられたのはこちらのほうだというのに。忍耐がもってくれて良かったよ」
まったくだ。俺とリオコを二人きりにさせた後で、マキがルイスの部屋を訪ねたのは予想していたが、まさかあんな薄着でいるとは思ってもみなかった。ベッドに二人でいるのを見た時は、反射的に剣を抜いてしまうところだった。
ただでさえ王子からマキを頼むと言いつかっているというのに、守るべきものが〝乙女〟を穢してどうするというのだ。彼が一時の衝動に負ける男だとは思わないが。
「女性が本気で弱っている時に付け入る気はないよ。君が部屋に来てくれて助かった」
状況が違えばどうなっていたか分からないような口振りでルイスは言い、朝よりは良くなった顔色で淡い金の髪をかきあげた。
「だが君に言われなくとも、マキの様子は私も気にはしていたよ。心当たりも、ないでもない。――アマラリーヴァ」
廊下にいた、先発隊の一人である魔法士の女性に呼びかける。かつて彼と同じ[双月]に所属していたという彼女は、すでに旅装束に身を包んでいた。
「どうしたの?」
「君は、マキに何を言ったんだ?」
「突然なんの話?」
緩やかな弧を描いた蛾眉が、胡乱げにひそめられる。ルイスは眉ひとすじ動かさず、もう一度尋ねた。
「君と出掛けた後からマキの様子がおかしい。なぜだ?」
「女心は浮き沈みが激しいものよ。そっとしておいてあげなさい」
「アマラリーヴァ・ラキス・スオウシア。君はいつから私に命令できる立場になった? 彼女たちに関する一切は、私に権限がある。話したまえ」
昼間見せていた親しさとはまるで違う態度に、姫の美しい顔が歪んだ。結んだ歯の隙間から、絞るように言葉が吐き出される。
「……あなたのせいだわ」
「なに?」
「あなたのせいだと言っているのよ、ルイセリオ。あなたがあの子を好きになったから――」
元婚約者だという女性の言葉に俺はどきりとしたが、ルイスの表情は変わらない。いや、マキたち以外のことで彼の顔色が変わったのを見たことがなかった。
「私情で彼女の心をかき乱したと言うのか」
「自惚れないで! あなたがあの子を好きになることなんて分かっていたわ。そういうことじゃない、いつまでもわたしに恋愛感情があるなんて思わないで」
「確かに、あの時も別れを切り出したのは君のほうだったな、アマラリーヴァ。ではなんだ?」
「私情でかき乱しているのはあなたのほうだというのよ、ルイセリオ。あなた、あの子をこちらに引き止めようとしてるわね? 卑怯な男」
「……なにが言いたい」
「わたしの力を忘れた? わたしは〝視える〟のよ。あの子たちは、ここにいてはいけないの」
「アマラ、もう一度だけ訊く。マキになんと言った?」
「たいしたことじゃないわ。わたしたちの過去を少し話して、〝あなたは嫌いだ〟と言ってあげただけ」
その瞬間、俺が止める間もなくルイスが姫の両肩を掴んだ。突然の苦痛に悲鳴があがる。
「家族とも住んでいたところからも切り離され、命を狙われ、この国の勝手な命運を背負わされた十六の少女に、君はそんな言葉を吐いたのか」
「たいした思い入れね、[双月]士団長どの。だけど彼女は異界の人間よ。渡り人なの」
「だから――」
「分かっていないのね。渡り人は、元いたところへ帰るからこそ〝渡り人〟なのよ」
大きくはない彼女の一言は、俺の胃の腑に鈍い衝撃をもたらした。
〝元いたところへ帰る〟――そうあるべきだと頭では分かっていても、共に居るうち知らず知らずに目を背けていたその事実が、急に大きく目の前に横たわって感じた。
ルイスも同じだったに違いない。わずかに顔色を変える。
「だが伝説では――」
「ええ、乙女の行方は分かっていないわね。聖地でなにが起こるのかなんて、誰も予測がつかないことだわ。だけど、もし帰る道があった場合、あなたはあの子にどちらかの世界を選ぶように迫ることになるの。それができる? あの子の心を二つに引き裂くことが」
肩を掴まれたままスオウシャの姫は、むしろ労わるように、ルイスの頬に手のひらを触れる。
「あなたが、あの子を好きになるのは分かってた。あなたが本当に心許せる相手だということも。でも本気で大切に思うなら、あの子を突き放すべきだわ。向こうの世界へ未練なく帰れるように」
「アマラ、君は――」
「〝乙女〟の真贋に関わらず、あの子たちを大切にしたいという気持ちは分からなくもないわ。もし帰るのだとしても、出来る限りのことをしてあげたいという態度も理解できる。だけど、あの子たちはやさしすぎるわ。帰りたい気持ちとあなたたちの好意との間で板ばさみになるでしょう――いえ、もうなっているのかもしれないわね?」
姫の黒紅色の大きな瞳が、ちらりと俺を見た。
「あの子たちは若すぎる。家族のもとで暮らすことが幸せなのよ。ルイス、あなたにはなかなか難しい決断でしょうけど」
「……なにを視たんだ、アマラリーヴァ。彼女たちの未来に」
俺の胸がどきりと跳ねた。スオウシャの姫の千里眼は有名だが、未来視をもっていたのか。
未来視とは、文字通り未来を視る力だ。とはいえ具体的な内容ではなく、未来のある瞬間や切り取られたイメージであることが多い。当たる確率もまちまちだという。
「泣いていたのよ」
「泣いていた?」
「そう。見たこともない場所で、あの子たちは泣いていた。二人で抱き合って、どうしようもなく哀しそうに泣いていたわ。まるで――運命のすべてを恨むように」
息の詰まる言葉だった。ふら、とルイスが姫から手を離して後ろへ退る。
「……嘘だ」
「いいえ。わたしの未来視が外れないことは、あなたが良く知っているはずよ」
「姫。その場所というのは、聖地なのか?」
俺の問いに、スオウシャの姫は未来を視る瞳をこちらへ向けた。淡い赤を含んだ双眸が翳る。
「分からないわ。わたしが知る限りでは、聖地にあんな場所はなかった。なにかの建物の中のような……あれが水門と言われれば、そうなのだろうと答えるしかないわね。それくらい、見たこともない不思議な空間だったわ。すべてが淡く輝いていて――」
「他には?」
「ごめんなさい。未来視は制御できる力ではないの。その人を視て、飛び込んでくる映像の断片がすべて。わたしにこれ以上の力はないわ」
「いや……いいんだ。ありがとう」
「アマラ。では君は、彼女たちがこの世界に来たことを後悔するから、心を傷つけても構わないとでも思ったと?」
「違うわ。この世界に決別する理由のひとつになればいいと思っただけ。あまり居心地がいいと、恨む気持ちも半減するでしょう? 嫌いだと言ってやれば、反発する力も強くなるもの」
「まさかリオコにも?」
「失敗しちゃったけどね。なかなか根性が座ってるのね、あの子」
ひょいと肩をすくめて明るく言われれば、今さら責める気も起こらない。
なるほど、リオコがいきなり厨房に立っていた理由がこれで少し見えた。
――不快な想いをしていなければいいが……。
「悪女としてはあまり上手いほうではないな、スオウシャの姫」
「あなたも騎士としてはなかなかだけど、男としてはいまひとつなのね。ムシャザ将軍」
魔法士という男社会で生き抜いてきたせいか、姫から毒のある言葉がさらりと洩れる。
「わざとかと思ったら、わりと無意識なんだもの。一瞬、彼女の応援に回ろうかと思ったわ」
「他は納得できないが、その言葉にだけは賛成だな」
「見解の相違ね。理解してもらえなくて残念だわ、ルイス」
「二度と彼女たちに変なことは吹き込むな」
「……与えられた仕事は果たす、とだけ約束しておくわ。じゃ、先に行くわね。士団長どの、ムシャザ将軍」
スオウシャの姫はにこりと笑うと、束ねた髪をひるがえして部屋を出て行った。
その後、姫の残した未来視の内容についてルイスと話すことはなかった。だが言わなくとも、お互い苦い薬を含んだようにそれが心にわだかまっていることは分かった。
――運命のすべてを恨む、か……。
夜を洗い流すごとく急速に明ける、朝空に向かって歩く少女の後姿を目で追う。
そして、交錯する過去との思い出を封じ込めるように、俺は瞼を伏せた。
――あのとき未来を知っていれば、俺はロニを助けようとはしなかっただろうか。
血塗られた過去。しかし、すでに過ぎ去った時間を変えることはできないのだ。
大地の稜線がくっきりと空から切り離され、ふたたびの朝が――だが、確実に昨日とは違う朝が訪れる。
俺は足を止め、後ろから遅れてくる二人を待った。俺の姿に気づき、リオコが桃色に染まった顔をほころばせる。
――いつか、この出逢いを後悔する日がくるのかもしれない。
俺に未来を視る力はない。見えるのは、今だけだ。
今、俺は君を守りたいと願う。それだけが唯一分かることだ。
だから。
「休憩にしないか。少し腹が減ってきた。朝食にしよう」
『じゃあ、わたしまたサンドイッチ作るね』
差し伸べられた小さな手をとる。出逢った最初から、そうであるように。
俺は、この手を振り払うことなどできない。