18-2
【注】2011/6/23全面改稿しました。
2
信仰心がまったくないわけではないが、異界の乙女という存在にとりたてて関心があるわけではなかった。神官ならいざ知らず、騎士の家系に生まれた俺は、神に精神的な拠り所を求めこそすれ、実益を求めることに否定的でもあった。
たしかに、世界の渇きは深刻だった。もともと豊かではないイェド近在はさらに荒れ、水をあまり必要としないコメイをはじめとした作物も多く枯れて、たびたび城の備蓄を開放しても追いつかないほどだった。最南のアウスマや離国トゥーサでは、餓死者も出たと聞く。
伝説の三月の合に願をかけ、篝火の焚かれた神殿で読経が響く中、俺は騒ぎから逃れるようにコマを連れて荒野に出た。
策謀の渦巻く宮廷にあって、誤解を招くほど飾り気のない王子に仕えるのはさほど苦ではないが、城勤めはやはり窮屈だった。自分自身を戒めるためにも、俺はあの荒野に出掛けるのが日課になっていた。
一人コマを走らせ、岩と砂の広がる大地にたどり着く。ひとつに重なった月の浮かぶ空はやけに昏く、かつて血と叫び声で満たされた大地は静まりかえっていた。
かすかに声が聞こえる。俺はそちらへコマの首を向け、荒野にたたずむ人影を見つけた。
「誰だ?」
迷い子かと思って尋ねると、その人影はいきなりふらりと地面に倒れた。コマを降り、腕に抱き起こす。
――これは……。
俺の胸を不思議な想いがよぎる。
最初は子どもかと思っていた。髪も結っておらず、小柄で、服は足が見える短さ。だが、違った。
若い女性。やわらかく、それでいて芯の通った体は、吸い付くようなしなやかさだ。咲きはじめの花のような甘い香りは、彼女自身から匂うのだろうか。
重なり合っていた月が離れ、ゆっくりと辺りに光が戻る。明るい満月に照らされたその肌は白く、やわらかそうな茶色の髪が頬にかかっている。
俺は指先でその髪をそっと脇へ避け、息を確かめた。彼女の様子を確かめるというよりも、これが現実のものであることを確認したかった。
――あたたかい。
薄桃色の唇に触れ、はっと指を引っ込める。指先に走る熱が、彼女の吐息なのか自分の体温なのか分からなかった。
――本当に現実なのか……?
辺りを見回すが、乾ききった地面にコマや車輪の跡はなく、彼女自身の足跡も数歩先で途切れていた。持ち物らしきものも見当たらない。気を失ったままの彼女を腕に抱いて、俺は城へと戻った。
彼女が異界の乙女ではないかと思いはじめたのは、城の客室に寝かせたあとのことだ。俺が女性を連れ帰ったと知り、部下や女官たちは最初下世話な想像をしたようだが、彼女を見た途端、皆一様に凍りついたようになった。
肉体の造形は、俺たちと同じ。だがその顔立ち、肌、髪の色や服装は、明らかに異質だった。
「隊長、この方はまさか……」
「俺にも何とも言えん。たった一人で荒野にいたのだ。まさか盗賊の一味とも思えぬし、な」
「冗談言わないで下さいよ、隊長。こんなかわいらしい盗賊がいてたまるもんですか。それに、どちらかっていうと――」
部下のハーゲン・クルスが言いかけ、声を途切らせる。彼の視線を追い、俺も唇を引き締めた。
まだ目覚めぬ少女の閉じた瞼から、ひとすじの光るものが流れ落ちたのだ。聞きなれない言葉が洩れる。誰かを呼んでいるようだ。
――親か……兄弟か。
エイドスの明かりの下で見る顔は、思いの他あどけなく、穢れを知らぬ幼子のようでもあった。
「ハーゲン、この数日内に行方不明となった女性の情報を集めてくれ。年は十二才から十八才程度。イェドに限らず、周辺都市もあたって欲しい」
「はっ!」
「それから誰か別の者に命じ、彼女の居た辺りの捜索をしてくれ。身元に繋がる何かがあるかもしれない」
「了解です」
「女官長、信頼のおける侍女を一人貸してくれ。できるだけ口の堅いものがいい」
「シエナがよいでしょう。早速呼びます」
「ああ。その後で医師の手配も頼む」
「かしこまりました」
女官長とクルスが一礼して退ったのを確かめると、俺はもっとも話を聞きたい相手を呼び出した。
「――ジャム」
「はいよ、大将」
気軽に返事をして、窓辺にすとりと影が立つ。特異な素性と能力を持つ彼は、一人になりたいと言わない限り、必ず俺の傍にいた。
「中に入れ。ある人を視てほしい」
「ったく、オレに千里眼はないって言ってるだろうによー」
文句を言いつつも、ジャムは音もなく窓を開け、部屋にやってきた。燃えるような赤髪と金色の双眼をもったこの男は、実はあの[紅連鬼]の首魁(リーダー)だった男だ。
ひょんななりゆきから身元を引き受けることになった彼は、それ以来、陰ながら俺の手助けをしてくれている。彼の存在は、城の中でもほとんど知る者はいない。
稀有な黄金の瞳が、ベッドで眠る少女を一瞥した。
「へえ……これが例の」
「まだ決まったわけじゃない」
「決まりだと思うぜ? 大将」
にやり、と意味深な微笑を口唇に含ませ、異能の男が告げる。
「オレにそれが訊きたかったんだろ?」
「おまえ今、自分に千里眼はないと言ったばかりだろう」
「千里眼はないね。けど、さすがにあれは分かったさ」
「あれ?」
「〝異界の扉〟」
「な……!」
咄嗟に俺は、あげそうになった声を抑えた。
「まさか、視えたのか?」
「視えたっつー範疇には入んねぇな、あれは。なんつーか……荒野の一箇所になにかが流れ込んだっつーか、変わったっつーか。初めての感覚だったぞ。まともに魔法士の訓練を受けてないオレでも、肌がざわざわしやがった。ま、すぐに消えたけどな」
「やはり彼女は異界から……?」
「今までにない何かが起きたかもしれない場所で、大将はこんな格好した子を拾ったんだろ? で、今日は三月の合の夜。となりゃ、答えはひとつっきゃねーだろ」
「あまりに符合しすぎではないか?」
「ま、どっかの馬鹿魔法士が、なにかやらかしたとも考えられなくもないけどな」
乱暴な口調で冗談めかすが、ジャムの顔は真剣だった。
「そもそも〝予言〟なんてものが怪しすぎるんだよ。異界の扉が開いて、そこから渡り人とやらが来たとして、それがこの世界を救ってくれるなんざ、オレは信じちゃいねえしな」
それは俺も同じ気持ちだ。世界の危機を救う聖女の存在は心の支えとなるだろうが、だからといって、それを信じきって運命を任せてしまうのは賛成できない。
第一、本当に神に人を救う意志があるならば、あのときロニの命を奪うことや、多くの子どもたちを盗賊団の犠牲にすることを止めるべきだったではないかと俺は思う。
渇きは、すべてのものに等しく降りかかる災厄だ。しかし、そこに飢える者と飢えない者の差異が現われるのは、人の社会のあり方の問題なのだ。
特異な外見と能力を持って生まれたジャムは、その底辺にいた男でもある。苦い声が続ける。
「この世界は循環してる。いつかどこかで必ず雨は降るだろうさ。だけど、それは人の祈りや神さまが引き起こすんじゃない。降るべくして降るもんだ。
異界は、この世界が在るように、どこかには在るだろうよ。どんなところかは知らねえが、オレたちと似た人も住んでいるだろうさ。けど……自分の意志で来たのでなけりゃ、オレたちゃただの人攫いだぜ」
一気に言うと、ジャムは右頬に大きな傷のある顔を、なんとも言えぬ表情に歪めた。
一番気にかかっていたことを彼に尋ねる。
「彼女は、人なのか?」
「人だ。魔法力はほとんどねえな」
強力な精霊加護者(マーレイン)の断言に、俺は大きく息を吐いて、手で顔を覆った。彼女が人であることを哀しみたいのか喜びたいのか――迷いを払うように髪に指を通す。
「彼女は今なにを……?」
「おいおい、大将。女の子の心を覗こうなんざ、紳士とは言えねえぜ?」
「ふざけるな。必要なことだ」
「泣いてる女の子の心を読むことが、か?」
鋭くジャムに睨まれ、俺は涙の跡の残る寝顔から一瞬目を外した。その目尻には、まだ銀色に光るものが滲んでいる。
「……大きな木造の家と老婆。三十代くらいの男女……たぶん家族だな。それにお香だ」
「お香?」
「神殿で焚くやつに似てたが、あとは知らねえ。もう訊くな。これ以上は、頼まれても読まねえぞ」
「すまん。無理を言ったな」
言動はがさつで見た目もいかつい男だが、女性と子どもに対しては俺以上に弱いのだ。初めて逢った二年前のあのとき、ロニの死に俺以上に憤りをみせた男だ。
黙って肩をすくめ、ジャムが立ち去ろうとする。
「ジャム、もうひとつ頼まれてくれないか。送心術の出来る女性魔法士を連れてきて欲しい」
「フージャイの監視班にそんなのがいると聞いたが……オレが動いていいのか?」
「構わない。隠密ではあるが、面倒なら王子の名を出せ。出来るだけ早いほうがいい」
「あの生意気なチビ王子に話すのか? それこそ面倒なことになるぞ」
「話さないわけにはいかないだろう。それに、どのみち城に連れてきてしまった以上、耳に入らないはずがない。王子もマーレインだ」
ち、とジャムが舌打ちをする。
「大ごとになるな。あんたも……その子も」
「――守るさ」
今度こそ、必ず。
告げなかった言葉は、赤い髪を持つ男には、だが伝わったようだった。