第18章 荒野――タクの願い
【注】2011/6/23全面改稿しました。
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ヒューガラナからタキ=アチファへ至る道はたやすいものではないが、荒れ果てた大地に生まれ育った俺にとっては、さほど苦になるものではなかった。旅の同行者に女性二人がいるため荷物が多くなるのは仕方もないことで、それでも多く見積もって往復六日の野営道具一式は背負子ひとつで済む分量だ。
背負子の荷物のほかに使い慣れた長剣を腰に佩き、フード付きのマント、ブーツ。天都で支給された旅装は、あれだけ短い準備期間だったにも関わらず、ぴったりと俺に馴染んでいた。
問題は、荷が大きいことで動きが制限されることだ。タクダと呼ばれる荒野に向いた四足動物を荷馬として連れて行くことも検討されたが、二名の保護対象者に対して護衛も二名。荷馬に裂く人員はなく、その提案は却下された。
「どのみち先発隊も後続隊もいることだ。誰か補助者を頼んでも構わないように思うが?」
「〝乙女〟の同行者は二名だと、頭の固い神官たちが譲らないのさ」
俺の疑問に肩をすくめ、そうルイスが答える。
「聖地に着く人数が多いと、機嫌を損ねて水門が姿を現わさぬとでも思っているのだろうよ。〝乙女〟が二人現われた時点で前例は覆されているだろうにな」
水門の所在をめぐり、長年神官たちと論議を重ねているせいか、彼の伝説に対する見方は辛辣だ。
伝説どおり異界から渡り人が来るなどと思ってもみなかった百五十年前、異界の乙女はたった二人の騎士と共に聖地を訪れ、水門を開放した。だが今は、王の承認も得た総勢三十名ほどの協力の下、聖地への旅が見守られている。
不穏な動きもある中でそれは非常に心強いが、しかし一昨夜のように対応しきれない事態が起こるのが現実だ。ナアカからちらつくあの男の動きも気になる。
思いを巡らす俺に、ルイスが冷たく釘を刺した。
「タキトゥス。前のように一人で突っ走ったら、次は殴るだけでは済まないと思え」
「……分かっている」
ナアカを発つ直前、ジャムから行路上に襲撃者が潜伏していることを知らされた俺は、「態勢を整え、人数を集めて迎え撃つほうがいいのではないか」というルイスの意見を押し切り、先発隊を囮に仕立てて誘き寄せるほうを選んだ。
結果、戦力を分散させた形となった俺たちは、それぞれに襲撃を受け、守るべき少女たちを必要以上の恐怖に晒してしまったのだ。
襲撃者を一組しか確認していなかったなど、言い訳にもならない。彼女たちを狙うのは、あのフージェ・ハラン一族。狡猾な彼らが、功を競わせるために複数に依頼することは予測できたというのに。あとでルイスが腹に拳を一発入れる程度で済ませてくれたのは、軽すぎるほどだ。
万が一に備え、ルイスとの連絡手段は打ち合わせていたが、綱を切られ現われたコマを見たときの俺の驚愕は、言葉などでは表わし尽くせないものだった。
身も凍る恐怖――おのれの体の一部をもぎ取られたような感覚というのは、あのような気持ちを言うのだろうか。
――同じ過ちは二度とくり返さないと決めたはずなのに……。
拳になりきらぬ、いびつな右手に力が籠もる。
この傷が作られた二年前の戦闘で、俺は守るべき人を喪った。
――二度と喪ってはならない。
その想いが、俺をすべてに臆病にさせていた。
二年前、十九の俺はイェド憲兵隊に所属していた。東の都と称されるイェドでの勤務は誇るべきものだが、所詮は辺境の荒野。主な実務はイェド外周の警邏で、コマに乗って見回りをし、小さな揉め事が起こるたびに駆けつける仕事は、華やかさとは程遠いものだった。
それでも、イェドよりさらに荒れたムシャズ領主の三男という立場には、そんな仕事でもありがたい。城で仕官する二人の兄とは比べものにならぬ地味な身分ながら、俺はその仕事に誇りを持っていた。
それが起こったのは、始季の終わりのいつにも増して蒸し暑い夕刻のことだった。俺は同僚と共に、いつものように見回りに出掛けた。
イェドの市街から遠く外れた小さな村。すぐ傍にムシャズとの境界となる荒れ果てた荒野が広がるその場所で、俺たちはターバンを被った男たちが足早に通り過ぎるのを目にした。
「あれは……」
「やめとけ、タキトゥス」
同僚が俺の動きを察して制す。
「だが、あの身のこなし……あいつらはただの村人じゃない。それに抱えていたあれは――」
「だから、止せと言うんだ。あいつらが見たままの人数だと思うのか? 絶対にデカイ奴らが近くに潜んでるさ。俺たち二人じゃ、手も足も出ねえよ。戻って上官に報告すればいい。俺たちの仕事はそこまでだ」
このところ郊外で、追いはぎや盗賊たちの横行が盛んなことは知っていた。それが徒党を集めて組織化し、憲兵程度では太刀打ちできない相手となっていることも。
そして、それを討伐するための話し合いが遅々として進んでいないことも。
――くそっ。
湧きあがる苛立ちに奥歯を噛みしめる。俺の目には間近に迫る夕闇ではなく、身を隠すようにして建物の陰へと消えた男たちの抱えていた、幼い子どもの姿だけが焼きついていた。
なにかに突き動かされるように、コマの拍車を駆る。
「レジー。悪いが、隊長に報告を頼む。俺はあいつらの後を追う」
「待て、タキトゥス!」
同僚の制止を振り切り、俺は彼らの後を追った。そして一軒のあばら家の前で、やつらの手から逃れようと走る、小さな人影と出くわしたのだ。迷うことなく、その体をコマの上へと掬いあげる。
クイ族の白い雷紋が浮かぶ衣服に包まれた、細く骨ばった体。両腕はロープできつく縛られ、短い黒髪に縁取られた顔は蒼ざめ、おびえきっていた。
「君を助けに来た。俺の名はタキトゥス。君は?」
「……ロニ」
「ロニ、君は俺が守る。君をもう一度、父さんと母さんに会わせるよ」
思いつきにも似た、だが本気の約束。しかしそれは、数刻ののち、あっけないほど簡単に破られた。
「――わあああああっ!!」
夜空を引き裂くほどに叫んだのは、俺自身だ。
二つの満月が、白々と荒野を照らす夜だった。
三つめの月、ミィカが空に現われる頃、俺はすべての運命が狂ったことを知った。
赤い月――赤に染めあげられた大地。
月の三神は、運命の女神たちだという。
その夜、女神たちは一人の小さな命を召し上げ、俺の運命を地獄へと突き落とした。
――なぜ、今頃こんなことを……。
俺は聖地への道を進みながら、脳裏にまざまざと甦る過去の出来事を打ち払うように、一瞬固く両眼を閉じた。
足を止め、背中の荷物を担ぎ直す。足音が途絶えたのに気づいたのか、前を行くリオコがふり返った。笑いかけると、安心したように笑顔を返してくる。ぎこちなく石の道を登る彼女を追い、俺もまた、ゆっくりと歩みを再開させた。
あの夜の光景を忘れたことはない。右手の傷が治り、日常に戻れるようになっても、つねにそれは胸の奥にしこりとなってわだかまり続けていた。
それでも、そのすべてを辿るように鮮明に思い起こしたのは、悪夢に魘されなくなったここ最近では、本当に久しぶりのことだった。
始祖神イシェンナとイシュナムの眠る聖地へと赴く気持ちがそうさせるのか。それとも、この星夜と荒れた岩山の寂しい光景が、脳裏の奥の記憶を刺激するのか。
――すべては巡り合わせというが……本当に不思議なものだ。
ロニを喪ったあの荒野で、異界の乙女たる少女に出逢ったことも。
そして今、その少女らと共に旅をしているということも。
これらすべてが運命の歯車のひとつだというのなら、人生とはなんと残酷なものだろうと思う。
俺の心が、また過去を彷徨う。
あのときクイ族の子・ロニを連れて逃げた俺は、荒野に誘い込まれ、最終的に一個小隊ほどの盗賊たちを相手取ることになった。同僚の危惧したとおり、やつらは東方最大の盗賊団[紅連鬼(ぐれんき)]の一味だったのだ。
弓矢と剣戟の鳴り響く中、俺は夢中で戦いつづけ――ふと振り返った俺の目に、隠れていたはずのロニが、折れた剣の刃を受けて倒れる姿が飛び込んできた。
俺の口から絶叫が迸る。俺は手のひらが裂けるのも構わずに、素手でその刃を掴んで引き抜いた。背後に迫る、いくつもの盗賊たちの影。
雲間に隠れた二つの月を追いかけ、最後の月が地平から真紅の顔を覗かせたその時、俺は、これまで知ることもなかった俺自身の深い闇の中へと堕ち込んでいった。
その先のことは、ほとんど記憶にない。気がつくと俺は一人荒野を彷徨い、ガウルを連れた男に助けられて生き延びていた――生き延びてしまったのだ。
同僚の知らせを聞いて駆けつけたイェド騎兵隊によると、荒野に倒れていた盗賊の数は二十七。逃げ出して捕えられたものが十八だという。
その地に広がる光景の凄まじさに、まるで死と戦いの神ヴォードの神風が吹き荒れたようだとクイ族の長老が語ったことから、俺は〝風神〟の異名を呼ばれるようになった。
――なにが〝神〟なものか。
たったひとりの命さえ守れなかった俺には、賞賛の声すら罪を糾弾しているように思えてならない。周囲から称えられれば称えられるほどに、俺の闇は深くなっていった。
右手を負傷し、憲兵としての職も気力も、すべてを失ったその俺に声をかけてきたのは、イェド城主ミア=ヴェール・アルマン王子その人だった。
「俺に仕えろ」
近衛に引き立て、さらに将軍の号を与えるという申し出に、俺は戸惑いを隠せなかった。
あの夜の出来事を包み隠さず打ち明け、固辞しようとする俺に、王子はむしろ淡々と言葉を続ける。
「これは、おまえのためではない。長年手をこまねいていた盗賊団をたった一人で討伐した者に対し、何の褒章も栄誉も与えぬでは俺の名が堕ちる。イェドのためだ。拝命しろ」
「ですが、私には過分にすぎます」
「どのような理由であれ、おまえの成したことは事実だ。鬼退治をした風神の申し子が城にいるとなれば、魔除けくらいにはなろう?
それに、俺はおまえに守られてやるつもりなどないぞ。代わりにおまえは、俺に剣を教えろ。どのみちその傷では、おまえも一から修行をやり直さねばならぬのだろう?」
十三とは思えぬ風格を漂わせ、緑の瞳を細めて王子が笑う。
「俺に仕えろ、タキトゥス・アルディ・ムシャザ。おまえは俺の傍で、おまえ自身が真に守るべきものを探すがいい」
そうしてその言葉通り俺は近衛となり、二年後の満月の夜、一人の少女と出逢ったのだ――ふたたび守るべき存在に。
赤い幻月ミィカ。淡いヴェールをまとった月の末姫は、素顔を見た者に来るべき未来を教えてくれるという。
あの日、真紅の月に照らし出された先には、血と闇に彩られた絶望しか広がっていなかった。
だが今は。
――すべてはここに繋がっていたというのか……ミィカよ。
あの夜の未来が、彼女に巡り合うための道であったというのならば。
――ミィカよ。この醜く歪んだ俺の手に、今度こそ守るべき未来を――
掴ませてくれ。