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To the Fate : optimization

作者: 幽明界メイ
掲載日:2026/10/17

 ジョッキの触れ合う音、互いに無言のひと時。金色の液体がのどを滑り落ちる時、人は真にくつろぐことができる。

「はあ~~~~、疲れた」

 長い溜息とともにサルタがジョッキを置いた。

「お前今日はサボってただろうが」

 俺は枝豆を口の中に射出し、咀嚼しながら答える。

「そりゃそうだ。四六時中モニターとにらめっこしてちゃ眠くて仕方ねえ。お前こそよく眠くならずにいられるよな」

「点検で歩き回るんだから眠くなる暇はないだろ」

「あんなの時間かかんねえから暇でしょうがねえよ」

「俺はよく畑の様子見てるけどな。育っていく様子が見えて楽しいぞ」

「そんなの家の窓から外見れば飽きるほど見れるぜ」

「森と畑じゃなんか違うだろ」

「同じじゃ、同じ」

 サルタは興味なさそうにビールを流し込んで会話を切る。しかし、すぐに別の話題を持ってきた。

「そんなことよかお前、今日はアクアちゃんとチーム同じだったじゃねえか。飲みには誘ったんか?」

 彼は最近こればかりだ。

「誘ったけど用事あるとさ」

 嘘だ。本当はこいつがうざいほど喜ぶ顔を見たくないだけだ。

「んだよ、無理やりにでも連れて来いよ。お前幼馴染だろ」

「ただの腐れ縁だ。多分お前らとの付き合いのほうが長い」

「しょうもねえな」

 それからしばらくつまみと酒がすすんだ。サルタが大学時代につきあっていた彼女がつまらない奴だったという話をする。

 耳にタコができるほど聞いたその話に俺はそれこそ口にタコができるほど繰り返してきた返しをする。頭を使わない楽な会話を俺たちは今日もしている。

 その話が終わったら今度は別の街に行った高校時代の友人の話だ。

「あいつは本当に面白い奴だったよな」

「心当たりがありすぎてわからん」

「ほら、ファミレスのドリンクバーで必ず全部混ぜて飲んでたじゃん」

「あれうまいのか?」

「いやまずいってよ」

「じゃあやめろよ」

「おまたせにゃー」

 そんな話をしていると会話に割り込む存在がふたり現れた。

「おお、遅かったじゃねえか」

 俺の隣には声をかけてきたアマミが、サルタの隣にはコトリが座る。高校の頃から驚くほど変わらない光景だ。

「悪いな、先にやってた」

「うにゃ、追いつくから大丈夫」

「アマミちゃん、競ってるわけじゃないんだよ?」

 二人は同じものを頼んだらしい。すぐに青色の飲み物が運ばれてくる。

『おつかれ~』

 二度目の乾杯とともに再び沈黙が流れる。先にジョッキを飲み干したサルタとアマミが話し始める。

「そういえばシフト変わったんか?」

「そそ、今日から五日間工場にゃ。農場が恋しいにゃ」

「あれはあれで何もすることなくてきついぜ?」

「それがいいんだにゃ」

 ふと俺が彼らから視線を外すと、ふたりの会話をそっちのけでコトリがじっと見つめていた。

「コトリ、俺の顔に何かついてるか?」

「シバケン君、工場の配管周りの点検ってちょっと面白くない?」

「本当に唐突だな。配管の点検って、冷却水にずっとつかってるところか? 発電設備の」

「そこもだし、天井から結露した水が降ってきてるところ」

「うーん、わからなくもない」

「だよね、アマミちゃん全然わかってくれないの」

「いやだにゃ。この前、首が濡れてめちゃくちゃ冷たくなったんだにゃ」

 そういってアマミは身体をプルプルと細かく震わせた。

「アマミ濡れるのマジで嫌がるよなあ」

「だって苦手なんだにゃあ」

「高校の頃にさ、海に行ったときアマミだけずっとパラソルの下で寝てたっけな」

「やることなかったし。みんな泳いだりしてたから暇だったにゃ」

「お前何しに来たんだよ」

 サルタがあきれた様子で突っ込む。

「夜寝れないからって俺のとこに電話来てたな」

「コトリちゃん寝てたから仕方なくにゃ」

「あれ、そうだっけ?」

 コトリはこともなげに言うといつの間にか運ばれてきた唐揚げを口に放り込む。

「なんだよオレのとこには一言もなかったじゃねえか」

「サルタも寝てたって言ってたにゃ」

「そうだっけか? わりぃわりぃ」

 いつもの会話を続けながら俺たちは杯を重ねていく。一番早く酔い始めるのは決まってコトリだ。

「今日は上司ガチャ外れだったんですよ。もっと早く動け、とかお前のせいで全員の作業遅れてる、とか。本当にうるさくって」

 事実、ぼんやりしていることが多い彼女のことだ。上司の言うことがただのパワハラでないことは確かだろう。それは横で微妙な表情で聞いているアマミを見ればわかる。

「まあまあ、今日は調子悪かったんだって。ほらもっと飲め」

 サルタがメニューを操作すると、コトリの前に同じものが提供される。

「ひどくないですか、サルタ君。しかも私のデバイスに直接じゃなくてスピーカーで全体に聞こえるように言ってきますからね」

「そりゃ厄介だな。まあ明日は別の人になるから気にすんなって」

「うぅ、もし明日も同じだったら呪いますよ~」

「なんでオレが?」

 今日のコトリは珍しくいつもの倍は愚痴をこぼしている。よっぽど堪えたらしい。

「呪いって言えば、最近面白い話を聞いたにゃ」

 呪いと面白いという全く関連しなさそうなワードでアマミが話し始めた。

「ほう、なんて話だ?」

 コトリをなだめながらサルタも彼女のほうに顔を向ける。

 彼女の話によると商業区画の一角で妙な音を聞くようになったらしい。今までに聞いたことがない音らしいが、どことなく嫌な気分や不安感を味わう音らしい。

 それは帰宅途中のこともあれば、飲んだ帰りの遅い時間帯のこともある。しかし、朝方やお昼時には全く聞こえない。

「この近くでそんな音聞いたことねえな」

「今日チーム一緒だった人に聞いた話にゃんだけど、音が聞こえる日もばらばらで場所も日によって違うらしいにゃ」

「なんか胡散臭えな」

「仕方ないにゃ。その人も別の人から聞いた話らしいにゃ」

 いまひとつ釈然としないのか、サルタは顔をしかめている。

「サルタ、こういうのは話半分に聞いて楽しむもんだろ」

「それいっちゃあおしまいよ」

「でもアマミ、その音が聞こえたからってそれがどうしたんだ?」

 俺の問いかけに彼女は得意げに胸を張る。

「よくぞ聞いてくれましたにゃ。その音を聞いた人は……」

「聞いた人は?」

「不幸な目に合うらしいにゃ」

 始まりがぼんやりとしていれば終わりもどこかピントがずれている。話半分に聞くのもばかげている。

「ああ! その顔は全く信じてないにゃ!」

「その通りだな」

「なんかインパクトがなあ。というか初めの部分からそんなたいした話してねえというか……ただの気のせいじゃねえかな」

「いやほんとその通りだな」

「ひどいにゃ。こんな与太話に辛口の評価なんて求めてないにゃ」

「アマミも大概だな」

「とにかく、階段で転んで頭を打って死んだり、街の外の森にさまよいこんだきり戻らなかったり、勤務中に冷凍室に閉じ込められて凍死したり……とにかく不幸な目に合うんだにゃ!」

 とにかく怖い雰囲気に持っていきたいのか、彼女から補足が入ったが、全く聞き覚えのない話ばかりだ。

「ケガした、とか近いことは聞いたけどよ、実際に死んだのは聞いたことねえな」

 サルタの言うとおり、誰かが死んだなら人口数百人のこの街で噂が広まらないわけがない。

 しかし、それほどインパクトのある話でなければ広がることはないだろう。俺たちは日々、自分に割り振られた役割をこなすことで精一杯で、基本的に他人に干渉しない。

 時々アマミのような噂話好きもいるがそれもごく一部であり、彼女たちによってもたらされた情報も自身が所属する集団で消費され、いつの間にか消えていく。

「じゃあ今からそれ見に行くってこと?」

 なんとなく帰る流れになっていた場にコトリが呟きを投げ込む。

「コトリ、話聞いてたかあ? ただの作り話だ。アマミだって信じてねえ」

「私は面白いかな、って思って話しただけにゃ」

「でも商業区画に何かいる、ってことじゃない? 火のないところに煙はたたないって言うじゃないの」

「お前話聞いてたのか聞いてなかったのかわかんねえな」

「とにかく何かあるなら見に行ってみるの、アリじゃない? ねえ、アマミちゃんもシバケン君もそう思うでしょ?」

「まあ、たまにはいいか」

 本当に何かいると信じているわけではないが、何か刺激を求めて行動することも悪くないだろう。俺は素直に彼女の思い付きに乗ることにした。

「なんでそんなガキみてえなことしなきゃなんねえんだよ」

「私も手伝おうかにゃ、本当にいたら面白そうだし」

「え、オレだけ仲間外れ?」

 サルタは舌打ちをひとつすると、渋々といった表情で探索に加わることを了承した。


 夜21時を回った商業区画の空は定時後の夕焼け空を濃紺一色に塗り替えていた。それでも飲み屋の明かりは大半が点き、明日が来ることへのわずかばかりの抵抗を見せている。

「で、どこらへん見るんだよ」

 サルタが若干の苛立ちを含ませながら俺たちを振り返る。

「場所がわからないからしらみつぶしかにゃあ?」

「まじかよ、さすがに付き合いきれねえ」

「じゃあGブロック方面に行きながら探すのはどうだ? そのほうが帰りながらできていいだろ」

「それだとシバケンが一番遠いにゃ?」

「酔い覚ましにはちょうどいいって」

 本当はこのまま別れたほうが家が近いが、サルタが理由をつけてさっさと帰る光景が目に浮かぶ。当の本人は嫌そうな顔でこちらを見ているが、素知らぬふりを決め込む。

「しょうがないにゃあ、私も付き合うにゃ」

 そうして俺たちは産業区画をぐるりと取り囲む商業区画を時計回りにめぐることにした。

 夜の、それも平日の商業区画は閑散としている。おまけに同じ造りのテナントが並ぶ光景はどこか異世界に迷い込んだかのような錯覚を起こさせる。入口に掲げられているロゴや店名がなければ自分の立ち位置すら認識できない。

 少しばかり歩いていると唐突に暗くなった。その一角はこの時間帯に営業している店が皆無のようだ。歩道に面した店の並びはシャッターが降り、月の明かりだけが上階を支える反対側の柱の間から零れている。ちらりと見える居住区の無機質なコンクリート壁からはどことなく圧迫感を感じる。

「うう、不気味だにゃ」

 後ろでアマミがつぶやく。サルタはあきれたようにため息をついた。

「ただ暗いだけだろ。こんなところに何もいるわけねえよ」

 彼は何も考えずにずんずんと先を行く。俺はアマミの手を引いて彼についていく。彼女の手を握るとわずかに震えている。それが彼女のものか、俺自身のものか。どちらのものかは不明だが、心臓の鼓動がいつもより早く感じられたのは確かだった。

「ちょ、ちょっと待つにゃ」

 急にアマミが声を上げる。数歩先を行くサルタが立ち止まり、面倒臭そうに振り返る。

「なんだよ、さっさと抜けようぜこんなところ」

「コ、コトリがいないにゃ」

「はあ!?」

 思わず振り返るとアマミの後ろにいると思っていた彼女の姿が見当たらない。

「マジどこ行った」

 サルタが携帯端末のライトをつけ、周囲を照らす。俺たちも彼に倣って探し始めた。

 歩いてきた道を戻りつつ、月明かりが届かない店側を照らす。灰色の石畳やコンクリートの地面やシャッター、色がいまいち判別できない看板やロゴ。明るい時間帯に通れば何の変哲もない、色を失った通りを俺たちは来た時の倍の時間をかけて戻る。

「まさかどこかの路地に迷い込んだのか?」

「そんな隙間に行くかにゃ?」

「いや、あいつなら何も考えずに行きそうだ。わりぃ、調子乗って飲ませすぎた」

 そんなことを話しながら俺たちは店の間の路地まで入って確認する。

 店の裏はコンクリートと配管、鉄パイプが複雑に絡み合う空間があり、人がひとり座り込むには十分な空間が広がる。普段覗き見ることのない世界は表よりも禍々しいまでの暗闇に閉ざされている。

 突然、音が鳴り響く。周囲を照らす光の輪が一瞬乱れ、ピタリと止まる。よく聞くと断続的に耳に突き刺さる電子音だ。ひとりが恐る恐る口を開く。

「ごめ、私にゃ……うん、うん。そっか、わかったにゃ。……うん、今から行くにゃ。はい、じゃあまた後でにゃ」

 アマミは携帯端末を操作し、再びライトをつける。

「コトリちゃん、家が近かったから先に帰っちゃったらしいにゃ。今から私行ってくるにゃ」

「マジかよあいつ……」

 サルタがひどく疲れたように口を開く。全員の口からため息が出る。彼女の突飛な行動は今に始まったばかりではないが、一声くらいかけてほしいものだ。

 店の表に戻り、アマミと別れる。

「次やるときはあいつの家の反対方向から見ていこうぜ」

 サルタは笑っているが、多分本気だ。飲み過ぎで記憶が飛んでなければやるだろう。

「ずいぶん乗り気じゃないか。やる前はあんなに嫌がってただろ」

「まあ、家帰っても特にやることねえからな。最近早く寝てたせいか、翌日頭痛くなんだよ」

 お酒のせいだと思うが、言っても聞いたためしがないので触れないでおくことにした。

 大した成果も得られないまま、それどころか提案者のコトリが帰宅したことでその日の探索は終了した。俺は来た道を引き返し、ひとり帰路に就いた。

 服を脱ぎ、湯船につかると今日の疲労が抜けていく。暗闇を歩いたことで予想以上に体力を消耗していたらしい。今日はよく眠れそうだ。

 それにしても肝試しというか、夜に散策するようなことはいつぶりだろうか。高校の時に心霊スポットに行ったきりだったか。あのときもコトリが言い始めた気がする。

 どこかの山に登っていた記憶がある。鬱蒼と茂る下草、頭上を覆う杉、ぬかるみ、湿った土を踏みしめる登山靴、耳元で存在感を主張する虫の羽音。時々聞こえる金属が触れ合う音と誰かの呼吸音。

(いつだっけな? たしか廃神社を探してた気がする)

 それにしては重装備な気がするし、ずいぶん山奥まで入った気がする。

(まあ、いいか)

 足を曲げたまま浴槽に頭を沈める。心地よいぬくもりが再び疲労をさらっていく。

 寝室に向かい、ベッドに身体を横たえる。かすかな音量で音楽が流れ始め、全身が軽くなった錯覚を覚える。酔いの回った頭がそうさせているに違いない。

 ふと、遠くからノイズが聞こえる。今までに聞いたことのない音だ。だが、どこか胸の奥がざわつく。

 入眠前の多幸感は消え、目が冴えてしまった。俺はベランダに出て周囲を見渡した。音はまだはっきりと聞こえる。だが、その正体は不明だ。発生源はそれほど離れていない。

(商業区画のほうからだな)

 つい先ほどまで彷徨っていたからだろうか。その方向からだという確信があった。

 ベランダからそのまま出て誰もいない、明かりすらついていない道を歩く。月明かりがまぶしいほどに周囲を照らすが、例の音以外は生物の気配すらない。

 突然月がひときわ強い光を発する。俺は何となく危険を感じ、建物の陰に隠れた。道を嘗めるように強い光が照らし、何かを探している。額を汗が流れ、顎から落ちる水滴が音を立てている。

 気が付けば光は去っていた。先ほどより弱く感じる月明かりを頼りに俺は商業区画に足を踏み入れる。

 通り沿いの店は明かりがついておらず、シンと静まり返った廃墟を思わせる。音は相変わらず聞こえるが、どこが発生源なのか自信が持てない。通りを遠巻きに眺めていたが、見当がつかない。俺は意を決して階段をのぼり、階上に上がる。

 すぐ上の階だというのにほとんどの店が明かりをつけていた。ネオンサインやスポットライトが過剰なほど存在感を主張し、わずかに眩暈を覚える。だが、外観の喧騒に対して人の気配は皆無だった。

(まだやっている店、あるんだな)

 今が何時か定かではないが、寝入った後でも開いているとは思っていなかった。俺はふらりと目についた店に入る。自動でないドアに重厚な木製のカウンター、レバーのついたビールサーバ。最近全く見なくなった景色になぜか懐かしさを感じる。

「いらっしゃい」

 背の高いスタンドチェアに座ると、カウンターの奥から女性が出てきた。白いワイシャツに黒いベストが印象的だ。どことなくアマミに似ているが、目つきが鋭い。

「あー、メニューはどこですか?」

 携帯端末を家に忘れたらしい。それに店内を見渡しても注文用のタブレットらしき物は見当たらない。彼女は怪訝な顔をしている。

「……ではいつも頼んでいるものをお出ししますね」

 そう言って彼女はコップに丸い氷を入れ、琥珀色の液体を注いだ。炭と煙の香ばしさの奥に薫る甘さ。何のことはない、ウイスキーだった。

「すまん、俺はここに来たのは初めてだと思ったんだが」

 一口含み、のどを滑り落ちる冷たい熱湯を楽しみながら独り言のようにつぶやく。

「ええ、そうですね。しかし実際にここに来るのは数えきれないほどですよ」

「そうか、まったく覚えがない」

「それほど他のことに熱中しているのでしょうね」

「まさか。それだけのことで自分が入った店のことを覚えていないはずはないだろう」

 彼女はおもむろにグラスに液体を注ぎ、誰も座っていない席の前に出す。オリーブが透明なカクテルを薄緑色に染めている。

「なら今日の夕方入った店の名前、覚えてるの?」

「それは当然。えっと……」

 思いの外、言い淀む。隣で彼女はうっすら笑いを浮かべてグラスを傾ける。

「待ってくれ。喉の奥には確かにあるんだ」

「出てくるのに時間がかかりそうだね」

 ドレスの黒い生地から覗く肩がほんのり赤い。今日はずいぶんと飲んでしまった。意識があるうちに家に帰りたいが、立ち上がるのも億劫になってきた。

「はあ~あ、明日仕事行きたくないなあ」

「そうだな、帰るのも面倒だ」

「今日はもうどっかにとまろ?」

「着替え持ってないんだ。仕事いけなくなるぞ」

「始発で帰ればなんとかなるって」

「それやろうとして起きれたことあったか?」

「えぇー、じゃあ仕事休むのは?」

「有休貯めてるからダメだ。この前来年こそ年末に海外行くって約束したばかりじゃないか」

 ひと通り答えてグラスを傾ける。もはやお酒は残っておらず、溶けた氷が喉を滑り落ちる。

「ほら、帰るぞ」

「……」

 返事は返ってこない。彼女はすでに無意識の世界に飛び立ってしまったようだ。家に帰れば起きて最低限のことはやってくれるだろう。だが、そのためにはこの飲んだくれを運ぶ必要がある。

「はあ……」

 慣れたとはいえ、重たいことには変わりない。ピクリともしない彼女は背中で静かに寝息を立てている。

 道路を歩く。湿っぽい夜風と虫の声が夜の闇を支配している中、俺は一言も発することなく歩く。こんなに静かな夜は初めてかもしれない。いつもは四人で飲み歩いているから。

 徐々にずれていく背中のものを担ぎなおす。ふと、聞きなれない音が耳に入る。自室で聞いたものと同じものではないだろうか。すぐ近くの路地に入る。

 先ほどよりも明るいが、はっきりとはしない暗闇の中をかき分けていく。コンクリートの地面にできた水たまりがくぐもった足音をよこしてくる。前日降った雨でできたそれはまだ完全に乾ききっていないらしい。

 三方が壁に囲まれた場所にたどり着く。そこに誰かがうずくまっていた。音はそこから発せられているようだ。耳をつんざく、金属を切るときのような音に近い。

 ふと、背中がいっそう重たく感じた。思わず倒れ込むが、這って進めないか試みる。なんとなく音を発する正体を確かめなければならない気がしたからだ。

 後ろで虫の音がする。背中にとりついていたそれは羽根を震わせ、手足を金属のゼンマイとバネの作動音を響かせて蠢かしている。

 暗い光が視界の端に見え、反射的に振り返ってしまう。

 わずかに発光する眼、鈍色に光る義肢、等間隔に赤く点滅するランプ。手で払いのけようとする瞬間、すさまじい光と熱が視界を塗りつぶした。


 ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ……

 振り上げた手を枕元に下ろす。やや眩しさを感じながら起き上がる。夢を見ていた気がしたが、詳細は急速に頭の中から消えていく。

 ベッドの縁に腰掛け、立ち上がろうとすると僅かに頭痛がする。少しのふらつきに耐えながらリビングに向かう。キッチンに立ち、メニューを選択する。

 今日は「パン」か「ごはん」の献立から選ぶようだ。迷わず「ごはん」を選択する。用意が完了するまでのあいだ、歯磨きと洗顔のため洗面所に向かう。

 食事を終え、食器をキッチンに流し込む。グレーの制服に着替え、ネイビーのネクタイを締める。そしていつもと同じ場所へ仕事に向かう。

 変わり映えしないいつもの職場。計測器が並んだシステム室、快適な室温に保たれた農場で微風に揺れる米、すこし匂いのする鶏のケージが並んだ部屋、屋根を覆うブドウの蔓、巨大な水槽を泳ぎ銀色に輝く魚。

 サルタにはサボっていると指摘したが、俺も真面目に仕事してはいない。計測器なんてよほどのことがない限り異常値を示さないし、点検で各部屋を回るときも半分くらいの時間は部屋をぼんやりと眺めている。うまくいっているシステムを監視する仕事ほどつまらないものはない。

 一応チームという名目で数人体制を組まされているが、時々施設の点検で協力すること以外はおしゃべりばかりしている。

 何よりこの仕事は上司がいない。

 定時で形式的な作業を終え、俺はサルタといつもの居酒屋に足を運ぶ。

 ジョッキが触れ合い、喉を白い泡をまとった黄金の液体が滑り落ちる。互いに無言の時間は再び破られる。

「で、今日も探しに行くよな?」

 だが彼の口からはいつもとは違う言葉が飛び出てきた。

「やっぱりやる気じゃねえか」

「昨日も言っただろ。家に帰ってもやることなんてねえんだ。オレは暇つぶししたいんだよ」

 あの空中分解ぶりを鑑みると"正体"を果たして確認できるのか、できたとしていつになるのか。それまでにこの男のやる気は持つのか。様々な疑問が浮かんでしまう。

「昨日とは反対側から見ていくのがいいんじゃないか」

「そうだな。二人が来たら早めに行くとするか」

 すぐにいつもの会話に戻る。高校の頃にファミレスでドリンクバーを全部混ぜて飲んでいた友人の話、大学の頃に初めて行ったバーで騒ぎすぎて出禁になった話、居酒屋の飲み放題のメニューを全制覇すると豪語しながら一杯目の芋焼酎ソーダ割で撃沈した友人の話。

 そんなくだらない話をしているとアマミとコトリもやってきた。そして先ほどの宣言通りいつもよりも早めに切り上げられ……ることはなく、昨日とほとんど同じ時間まで談笑した。

「よし、じゃあ昨日とは反対側から回るからな」

 店を出たサルタが唐突に言った。

「一番やる気のなかったやつが張り切ってるにゃ」

 アマミは半分呆れた様子だ。その横でコトリが首をかしげている。

「何かするの?」

 その発言にアマミの呆れ具合に拍車がかかる。

「おいそりゃないぜ。言い出したのコトリだろ、しっかりしてくれ」

「うーん、覚えてない」

「商業区画で謎の音が聞こえるから探しに行こうぜ、って話」

「あぁ……したかも」

 本当に忘れているようだ。返答もいまいち釈然としない雰囲気が残っている。昨日はお酒を飲み過ぎたのだと思う。

 昨日とは対照的に通りは明るい。まだほとんどの店が閉まっておらず、喧騒と食器の触れ合う音が響く。階を変えてもそれはあまり変わらず、とてもではないが音を聞くことは困難に思える。

「うるさすぎるにゃ。こんなところにいるわけないにゃ」

 サルタの先導にアマミが不満を漏らす。

 アマミの直感は正しいように思える。人がたくさんいるところに謎があるようには思えない。仮にあったとすると噂はもっと広がるだろうし、既に見つかっていそうな気もする。

「いいや、逆にあるかもしれねえぜ? それに昨日は範囲を広げ過ぎたと思うんだ」

「どこから聞こえるのかわからないんだにゃ。範囲はある程度広くないと見つからないと思うにゃ」

「場所がランダムなら回数重ねないと見つからねえだろ」

「場所もだけど、いつ音がするかも分からないから回数だけじゃなくて範囲も大事にゃ」

「疲れるから範囲は犠牲にするしかねえだろ」

「疲れるって言った! やる気ないんだにゃ!」

 二人の議論が平行線をたどるなか、俺は周囲を見渡す。様々にネオンサインやライトアップされた店頭の看板、上階を支える柱の隙間から見える月は昨日より存在感が控えめだ。

 遠くまで見える店の並びには労働の疲れを忘れようとする人々が次の店を探したり、帰路につく様子が見える。その波間にコトリが周囲をキョロキョロと見渡しながら飲み込まれていく様子が見えた。

 周囲を見渡すと、彼女はいなくなっていた。いつのまにかひとりだけで歩いて行ったらしい。

「ふたりとも、コトリが先に行ったぞ。追いかけよう」

 ちらりと見えた上階へ向かう彼女の姿を追いかける。通りを歩く人々はいつもより多く、自然と小走りで波をかき分けるように進んだ。

 商業区画の二階はずいぶんと人影が減り、彼女の姿を見つけることは簡単だった。ちょうど店と店の間の路地に入る様子が見え、俺たちは急いでその後を追う。

「あいつ何考えてんだ」

 サルタが苛立ちを口にする。彼女がいつのまにか単独行動するのは今回が初めてではないが、いつもとは違う雰囲気を感じる。

「コトリちゃん……」

 アマミは心配そうだが、それ以上は何も言わなかった。

 コトリを追って俺たちは路地に入る。そこは薄暗く、コンクリートの床や壁に大小さまざまな配管が張り巡らされている。昨日と同じような光景にどこかめまいを感じる。

 そして最奥に彼女の背中が見えた。なぜかしゃがんでいる。歩き疲れたのだろうか?

「おーい、コトリ。何か見つけたのか?」

 サルタが声をかけるが、反応はない。アマミが携帯端末のライトで彼女の姿を照らす。彼女はただしゃがんでいるだけでなく、耳をふさいでいる。

「おい、どうした」

「聞こえるの」

 サルタの呼びかけに対してか細い声で答えが返ってきた。だが耳をすましても何も聞こえない。

「何も聞こえないが?」

「嫌な音が、どこに行っても聞こえるの」

「疲れたか? 今日はもう帰ろうか。途中まで送ってくから」

 サルタが彼女を立たせようとするが、首を激しく振って拒絶する。アマミも俺も声をかけるが、彼女は一向に言葉を聞き入れてくれない。

 その後は小一時間ほど、薄暗い中で彼女に声をかけて励ます羽目になった。結局、探索はそこで打ち切りになり、サルタがコトリを背負い、アマミがそれに付き添う形で解散した。

 三人を見送った後、俺は周辺をぶらつくことにした。家に帰って眠るには出来事が大きすぎる。ひとりで飲んでいれば多少は紛れるはずだと思い、近くの店に入る。

 そこは狭いバーだった。どこか既視感を覚えながら注文をする。コップを満たす琥珀色の液体で喉が灼ける。

 さきほどの光景がぼんやりと浮かんでくる。強いアルコールの効いた頭に彼女の声が幾重にも増幅して聞こえる。

 どこに行っても聞こえるの

 彼女はたしかにそう言った。ひょっとして今日の探索以前から音を聞いていたのではないだろうか。そして勝手に歩いて行ったのはいつもの単独行動ではなく、何か原因となるものを見たのではないだろうか。

 もしかしたら昨日から音は聞いていたのだろうか。明日様子を見て聞いてみようか。グラスを傾けようとすると、携帯端末が震えた。画面を見ると、アマミからだった。

『今どこ?』

 コトリを送って帰るところだろうか。

『G7-2で飲んでる』

『行く』

 グラスを空けるころ、アマミがちょうど店に入ってきた。

「コトリは大丈夫か?」

「今は落ち着いてるにゃ」

 彼女はカクテルを頼み、俺はもう一杯同じものを頼む。彼女の前におかれたグラスは透明な液体で満たされ、オリーブが薄い緑色で染めている。

「サルタはもう帰ったのか?」

「うん、疲れたって帰ったにゃ」

「そうか。アマミも今日は早く帰ったほうがいい。俺もこれ飲み終わったら帰るから」

「そう、するにゃ……」

 アマミは何か言いたげだったが、言葉を続けることはなかった。

 コトリは音が聞こえると言った。だが俺達には聞き取れなかった。噂はこのことを指しているのだろうか。それが本当ならコトリも死んでしまうのだろうか。

 死ぬ運命にある人にしか聞こえない音。誰にでも聞こえるわけではない音。

 では誰がそんな噂を流したのだろうか。しかも場所は自宅でも職場でもなく商業区のどこか、と指定している。

 コトリが聞いた音と商業区のどこかで聞こえる音が違うことを確かめたい。そのためには商業区で聞こえる音の発生源を探し当てなければならない。

「アマミ」

 グラスが空になるころ、俺は彼女に言葉をかける。

「また明日な」

 彼女は何も言わなかった。


 仕事終わりの飲みはいつもと異なる空気に包まれていた。一口だけ飲んだビールは泡が消え、ジョッキの底に落ちた水滴がカルデラ湖を形成しつつある。最初に頼んだはずの枝豆も空になったさやが数個、殻入れの皿に入っているのみ。そして席には三人しかいない。俺、サルタ、アマミだけ。

「オレさ、ここに来る前にコトリの家行ったんだよ」

 サルタが店に来てようやく口を開いた。珍しく一番遅くに来たのはそれが理由らしい。そしていつもの昔話からではなく、他のことから話し始めるのも珍しい。

「だけどアイツいなかったんだよ」

「私も職場でコトリちゃん見かけなかったけど、そっか……」

「メールは今のところできるみたいでよ」

 彼は携帯端末の画面を開き、そのやりとりを見せてくれた。どうやら病院で治療する必要があり、数日間会えないらしい。

「『病院』か。早く快復するといいが」

 病院はこの街にはない。隣町にあると聞いたことがあるが、行く機会はないのでうろ覚えだ。

「しばらく集まるのもやめようと思う」

 サルタの提案に驚いたが、同時に仕方のないことだとも思う。ひとり欠けているとやはり盛り上がりがいまひとつに感じる。

「お見舞い行きたいけど面会できないからにゃあ」

「探索はこの三人で続けるしかないか」

「……シバケン、お前ふざけてんのか」

 視線を上げると対面のサルタがこちらをにらんでいる。喧嘩は数えきれないほどした仲だが、そのどれとも違うように感じた。

「すまん、何が?」

「そもそもコトリが病院送りになったのはそれが原因だろうが。オレはもう誰にも同じ目にあってほしくねえんだよ」

「探索が原因なら俺たちも同じようになっててもおかしくないはずだ。で、そうなってるか? コトリ以外はまだ元気だろ。だから関係ない」

「わかんねえだろ。そこに個人差があってオレたちも同じ状態になるかもしれねえ」

「それを確かめるために俺は探索を続けたいと思ってる」

「なんでそうなんだよ。どう考えても探索で路地裏とか普段行かない場所に入り込んだりしたからじゃねえの」

 徐々に声を荒げるサルタ。アマミはうつむいている。

「それならコトリは一昨日は家に帰ったから関係ないじゃないか。昨日は自分から入っていったからわからないが」

「そうだけどそうじゃねえよ。とにかくオレはもうやめた」

「……なんだ、お前そんなビビりだったのか」

 彼はため息をつき、席を立つと店から出ていった。俺はジョッキの中身を飲み干し、店を出る。アマミが追いかけてきたが、無言のまま俺は周囲の探索を始めた。

 昨日の足跡をたどってみる。コトリが迷い込んだ二階のフロア、裏路地を見て回るが、おかしな物や音は発見できなかった。そのさらに上、五階まで上ったが異常は見当たらない。俺とアマミは手近なダーツバーに入り、その日の探索を終えることにした。

 悉く外れた矢が消えるのを見送り、ショットグラスに入った黒い液体を一気に飲むと独特なハーブの香りが押し寄せてくる。アマミは20のトリプルを狙っているが、隣に吸い込まれている。俺たちは互いに一手無駄にしていた。

「次はどこ行くにゃ?」

 最後の一本を外し、19を取り切れなかった俺にアマミがそんなことを尋ねた。

「そうだな、まだ行ってないうちのどちらか、かな」

 商業区は職場のある産業区画を取り囲むように位置している。そのうちの二つはこの三日間で探索した。明日は残りの二辺だ。

「明日はどちらも探索してみようにゃ。ご飯は適当に済ませてにゃ」

「ああ、そうするか」

 スローラインに立ち、矢を構える。ふと、昨日サルタとアマミが言い合っていた様子をぼんやりと思い出す。探す範囲のことで意見が食い違っていた。19をオープンし、トリプル、シングルと点数を重ねていく。

「私、実は探索をし始める前にコトリから体調が悪いって聞かされてたにゃ」

 アマミは20をオープンしたが、点数はまだ入れていない。俺はテーブルで彼女の話を聞くことにした。

「ずっと頭痛がする、って言ってて。あの子の反応が鈍いのは前からだけど、仕事中もずっと辛そうにしてたにゃ。けど四人で飲むのは楽しいから言わないで、って頼まれてたにゃ」

「あのとき早く帰って行ったのも」

「うん、家に行ったときかなり具合悪そうだったにゃ。昨日もコトリだけ先に帰ってもらって三人で探索するって言ったんだけど、行くって聞かなくて……あの子がああなったの、私のせいにゃ」

 様子がおかしかったのは気のせいではなかったようだ。

「アマミ、決して君のせいじゃない。コトリが早く帰ったのも俺とサルタはいつものことだ、って考えて全く気を遣えてなかったと思う。しかしそうだったか……コトリ、早く良くなるといいが」

「私が悪いのにゃ。コトリが探してみよう、って言い始めた時ちゃんと止めればよかったにゃ」

 しばらく沈黙が続いた。

「やっぱやめよう、探索」

 口から言葉が出てくる。

「噂話は本当なのかもしれないな。実際に音を聞いてないが、俺たちはばらばらになった。不幸をもたらすことは十分証明できたじゃないか」

 沈黙を続けるアマミをよそに矢を投げる。三本ともすべて外れた。

「やめよう、こんなこと」

 彼女は力なく肯定した。

 俺たちはダーツバーを出ると、別れて帰路についた。

 住宅街に消えていく彼女の後姿を見送り、俺も家の方角に足を向ける。しかし、腹の音が鳴っていることに気が付いた。思えば居酒屋ではほとんど食べてなかったし、ダーツバーでもお酒しか頼まなかった。

(親子丼の気分だな)

 手軽にかき込めるものが欲しい。足は家とは逆の方角に向いた。

 通りを進み、階段を上る。人がいないフロアを通り過ぎようとしたその時、遠くから聞き覚えのない音が流れてきた。金属を電動カッターで切断しているような音だ。

 急に激しい頭痛に襲われ、しゃがみ込む。この音の正体を知っているような、そんな予感がした。吐き気を覚えながら、俺は階段を駆け降りる。途中何度も躓きながら、道行く人にぶつかりながら家に戻った。キッチンには湯気を立てている食器が用意されていたが、俺は無視してベッドに飛び込み、頭痛が過ぎ去るのを待った。

 眠れない数時間を耐え抜き、俺はようやく起き上がることができた。ふらつく頭のまま風呂に入ると多少は気分が和らいだ。キッチンに用意されたままの冷めたお茶漬けを流し込み、ベッドに再び入る。

 睡魔がすぐに訪れ、心地よい睡眠が全てをかき消していく。


 気付けば、昨日の最後に足を運んだエリアに立っていた。今日はひとりだ。職場でサルタに声をかけたが、無視された。アマミにも仕事終わりの食事に誘ってみたが、今日は気分が乗らないといって断られた。

 音が聞こえた方向に一歩踏み出そうとして足がすくんでいることに気が付いた。寝る前までのことを思い出す。見てはいけないものから必死に遠ざかろうとしている気がする。

 悩んだ末に俺は近くのレストランに入った。

(俺は何をしているんだ)

 シチューにパンを浸しながら自分の行動にあきれ返る。昨日探索をやめようと話したばかりなのに。しかしあの音の正体を確かめたいと思う気持ちには抗いがたい。不安をかき立てるあの音をどこかで聞いたことがある。

 炭酸水の独特な酸味と苦味で口の中を胃に流し込みつつ、外に目をやる。店内の明かりが暗いコンクリートの廊下をわずかに照らしている。人は見当たらず、ただゆったりと流れるBGMが心地よい。

 なかなか店を出る決心がつかないまま外を見続ける。一瞬、窓の外を見覚えのある姿が横切った気がした。アマミに似ているが、雰囲気が違う女性だった。服もグレーの制服ではなく、緑と黒が全体にちりばめられた見たことのない服だ。

 俺は急いで立ち上がり、店を出た。

 彼女の姿はどこに消えたのか、廊下には誰一人いなかった。ただの人違いだと思いながらも周囲を探してみる。ただ動く理由がほしかったのかもしれない。

 同じ通りの店をのぞいてみたが、それらしき人物はいなかった。下の階か、もしかしたら上の階に行ったのか? 踵を返そうとしたとき、例の音が聞こえた。それと同時に頭が割れるような痛みに襲われ、壁に手をつく。

 呼吸もままならない痛みが続き、だがそれにも慣れ、俺はふらつきながらも両足で立った。頭痛はまだ続いているが、俺は音の発生源を探すことにした。そこに彼女もいる気がした。

 ぼやけた視界でも廊下には誰もいないことがわかる。音が聞こえる方角に歩きながら店と店の間の路地を覗く。やがて携帯端末のライトが奥を照らし、突き当りに何か黒い塊が見えた。配管をまたぎ、もしくはかがんで前進する。

 頭上以外をコンクリートに囲まれた空間で奇妙な物体がうずくまっていた。うずくまっていたとわかるのはその物体に手足があり、顔らしき突起物もあったからだ。

 だが全身が金属の部品と様々な配線に覆われ、場合によっては向こう側が見える存在をなんと呼べばいいのか。

「大丈夫か」

 俺は戸惑いつつも声をかける。顔らしきものがこちらを向く。音はその顔についている丸い部品から出ている。そいつは腕に抱えていたものをこちらに差し出してきた。白い布にくるまれたそれをライトで照らすと、同じく金属と配線の塊が見えた。

「これをどうしろと?」

 俺が受け取った瞬間、音を発しなくなった謎の存在に尋ねる。しかし、そいつは何も言わなかった。受け取った物は彼にとって大事なものではないのだろうか。それを俺が受け取ってしまっていいのだろうか。返そうとするが、身動きひとつしなくなった彼の腕を動かそうとしてもびくともしない。その場に置き去ることも考えたが、どうにも気が引ける。俺はあきらめて布にくるまれた金属の塊をそのまま持ち帰ることにした。

 家に帰り、入浴を済ませてベッドに入る。月明かりに照らされた、しわくちゃな表面を見ていると醜さと同時になぜか愛らしさも感じる。いつのまにか頭痛も治まっていた。ゆっくりと目を閉じる。

 彼女はベッドにいた。身体を起こし、微笑んでいる。柔らかい日差しを受けてその腕に小さな何かを抱いている。

 世界の色がどこか見慣れないものに映る。

 彼女は俺をちらりと見上げ、その腕にある物を差し出してきた。

 視界が徐々に赤くなっていく。

 その腕には小さな存在があった。

 自分で発したはずの声も不明瞭にくぐもっていく。

 俺はぐっすりと眠るその子を抱き、ゆっくりと揺らす。

 世界がぼやけ、かき消えていく。

 立ち上がった俺の背中に何かがしがみついてきた。

 泣き声が聞こえる。

 胸には先ほどよりもはるかに重たい黒い金属の塊。敵を殺すための道具。

 振り返る。

 爆発音が聞こえる。

 視界の端に点灯する赤いライト。

 視界が一気に白く塗りつぶされ、全身に痛みが走る。

 目を開けると空が割れていた。点滅するパネルのようなものが割れ、もしくは剝がれ落ちている。眩い朝陽が見える書割の向こうには分厚い雲が空を覆っている。

 身体を動かそうとするが、痛みで全く動かない。眼だけ動かして周囲を見渡すとコンクリートや配線、機械部品の類が周囲に散乱し、俺の身体を埋めている。

 数人分の足音が近くで聞こえた。どこかで見覚えのある黒と緑が全体にちりばめられた柄の服装と金属の棒を持っている。ひとりが俺に気が付き、聞きなれない言葉を傍にいる者にかける。声をかけられた方が短く応答し、手に持っている金属の棒を静かに俺の頭に向ける。

 視界が白く塗りつぶされ、徐々に暗転する。

 

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