初めての舞踏会から帰ってきた娘が『王子殿下に求婚されました』と言ってきたので、親バカな夫が婚約破棄されたりザマァされたりしないか心配しているそうで
アリシア・クライゼンは、最近少しだけ困っていることがあった。
それは夫が、娘のことになると少々おかしくなることである。
北国の領主である夫のローゼン・クライゼンは、普段はとても落ち着いた人だった。領地の問題が起きればすぐに判断を下し、国境で不穏な動きがあれば兵を動かし、冬の備蓄に不足があれば誰より早く手を打つ。若い頃から戦場を知り、多くの困難を越えてきた彼は、領民からも使用人たちからも厚く信頼されていた。
それは、今でも変わらない。執務室にいるローゼンは、昔と同じである。
ただ、一つ違うとすれば、それはアリシアの愛を知り、今では娘の存在まで得てしまったことだった。
かつてのローゼンは、自分の幸せをどこか遠ざけているような人だった。穏やかな日々を望むことにさえ、慎重だった。けれど今の彼は執務が終われば食堂へ向かい、アリシアの淹れたお茶を飲み、娘が今日何をしたのかを聞く。その時間を、彼は決して粗末にしなかった。
そして何より、娘のことになると、ローゼンは少しだけおかしくなる。
いや、少しだけ、というのはアリシアの優しさだった。
実際には、かなりおかしくなる。領地の問題には冷静に対処できるのに、娘が「おとうさま」と呼んだだけでついつい反応してしまうのだ。国境の報告には眉一つ動かさないのに、娘が新しい髪飾りをつけて現れただけで、しばらく言葉を探している。会議中にどれほど厳しい話をしていても、廊下の向こうから娘の声が聞こえれば、視線だけはそちらへ向く。
昔を知る者たちは、そんなローゼンを見て、密かに微笑んでいた。
北国の孤独な領主だった人は、今ではすっかり父親になってしまったのだ。しかも、ただの父親ではない。娘の一言でその日の機嫌が決まり、娘の成長に喜びながらも寂しそうに沈黙し、娘が少し甘えた声で「おとうさま」と呼べば、嬉しそうな顔をする。
つまり、親バカである。
本人だけは、まだそれを認めていなかったけれど。
そんなローゼンとアリシアの一人娘は、エリナ・クライゼンという。
今年で15歳になるエリナは、北国の領主令嬢としてはずいぶん柔らかな印象を持つ娘だった。髪はアリシアに似た淡い蜂蜜色で、陽に当たると春の花びらのように明るく見える。一方で、瞳の色はローゼンに似ていた。冬の湖を思わせる澄んだ青で、静かに人を見る時などは、父親とよく似た落ち着きがある。
けれど、笑うと一気にアリシアに似る。
目元がふわりと和らぎ、声に明るさが混じり、屋敷の空気まで少し軽くなるようだった。使用人たちは幼い頃からその笑顔に弱く、エリナが小さな声でお願いをすると、大抵の者は少しだけ甘くなってしまう。
もちろん、その筆頭はローゼンである。
エリナは昔からよく笑う子だった。
幼い頃は、雪を見るだけで外へ飛び出したがった。屋敷の庭に積もった雪を小さな手ですくい、丸めたつもりの崩れかけた塊をローゼンに差し出して、「おとうさま、あげる」と笑っていた。ローゼンはそれを本物の宝物のように受け取り、手の中で溶けていくまで大切そうに持っていたものだ。
それが今では、もう王都の舞踏会に出る年頃である。
背丈もアリシアに近づき、立ち姿には令嬢らしい品が出てきた。家庭教師からも、礼儀作法も読み書きも申し分ないと言われている。領地のことにも関心があり、時折ローゼンの執務室を訪ねては、北国の冬支度や民の暮らしについて質問していた。
そういう時のエリナは、少しだけ父に似ている。
アリシアはその様子を見るたびに、この子は明るいだけの娘ではないのだと思う。柔らかく笑いながらも、芯の部分はしっかりしている。雪深い北国で育ったからか、見た目の可憐さに反して、少しの寒さや不便には動じないところもあった。
ただし、本人は最近、自分がもう子どもではないことを強く意識しているらしい。
以前なら何の迷いもなくローゼンの腕に飛び込んでいたのに、今では少し距離を取って礼儀正しく頭を下げるようになった。呼び方も、幼い頃のような「おとうさま」から、きちんとした「お父様」へ変わっている。
それは成長として喜ばしいことだった。
喜ばしいことなのだが、ローゼンにとっては少しばかり複雑らしい。
◇
ある日の午後、エリナが新しい外出用のドレスを着て、アリシアの部屋へやって来た。淡い青を基調としたドレスで、襟元には白いレースがあしらわれている。北国の冬空に似合う色合いで、蜂蜜色の髪にもよく映えていた。
「お母様、どうでしょうか」
少し照れくさそうに尋ねる娘を見て、アリシアは思わず微笑んだ。
「とても似合っているわ。少し大人っぽく見えるわね」
「本当ですか!?」
「ええ。本当よ」
エリナは嬉しそうに笑った。
エリナは嬉しそうに飛び跳ねると、「もう一度鏡で見てきます!」と言い残し、自分の部屋へ戻っていった。
裾を踏まないように気をつけているつもりなのだろうが、足取りはどう見ても弾んでいる。十五歳にもなれば、もう少し落ち着いて歩きなさいと言うべきなのかもしれない。けれど、あんな顔をされてしまえば、アリシアも注意する気にはなれなかった。
扉が閉まった直後、入れ違うようにローゼンが入ってきた。
「あら、見に来ていたのね。残念だけど、エリナはもう部屋よ」
「服選びをしていたのかい?」
ローゼンは部屋の中を見回しながら尋ねた。椅子の背には何着かのドレスが掛けられ、机の上にはリボンや髪飾りが並んでいる。淡い青、白、薄紫、銀糸の刺繍が入ったもの。普段のアリシアの部屋よりも、今日は少しだけ華やかだった。
「ええ、そうよ。あの子、そろそろ社交デビューの時期じゃない?」
アリシアがそう言うと、ローゼンは一瞬だけ動きを止めた。
「そう言えば、そうだったね。もうそんな歳になったのか」
その声は、普段と変わらないようで、少しだけ遅れていた。
アリシアはその反応に小さく笑った。
「そうよ、貴方の親バカも卒業が近いって事よ」
「そ、そんな事はないよ。決して行かせたくないなんて思っては」
そこまで言って、ローゼンは口を閉じた。
アリシアはにこりと笑う。
「思っては?」
「……いない」
「今、少し間があったわね?」
ローゼンは何も言わず、机の上に置かれていた髪飾りへ視線を落とした。白い小花を模した飾りで、エリナの髪に合わせようとアリシアが選んだものだった。彼はそれを手に取るわけでもなく、ただ静かに見つめている。
「可愛いでしょう?」
アリシアが尋ねると、ローゼンは小さく頷いた。
「ああ。エリナに似合うと思う」
「でしょう?あの子も気に入っていたわ。青いドレスに合わせると、少し大人びて見えるの」
アリシアは少しだけ目を細める。
「娘が遠くに行っちゃうの嫌?」
「嫌ではないよ」
「じゃあ、寂しい?」
ローゼンは答えなかった。
アリシアは、椅子の背に掛けられたドレスへ視線を向けた。
「ついこの間まで、裾を踏んで転びそうになっていたのにね。今では自分で選んで、髪飾りまで悩むようになったんだもの」
「でも、裾はもうちょっと短くても良いのかも」
「あら、見ていたの?」
「少しだけ」
「じゃあ、入ってくればよかったのに」
「邪魔になるかと思った」
「そんなことないわ。エリナ、貴方に見てもらえたら喜んだと思うわよ」
ローゼンはそこで、ほんの少しだけ視線を下げた。
その様子を見て、アリシアは笑いをこらえた。領地の問題なら迷いなく部屋へ入ってくる人が、娘のドレス選びとなると廊下で立ち止まってしまう。やはり、彼は娘のことになると少しおかしくなる。
「後で褒めてあげればいいわ」
「そうする」
「ただし、あまり褒めすぎると、あの子が照れるから気をつけてね」
アリシアはくすりと笑ってから、ふと懐かしそうに窓の外へ視線を向けた。
ふと、彼女は昔を思い出すように話す。
「そう言えば、もう出会って17年よね。私達」
ローゼンもつられるように窓の外を見た。
屋根の上にはまだ雪が残っている。あの頃と同じ北国の景色だった。
「本当に君には感謝しているよ。出会っていなければ、私はきっと大変なことになっていた」
アリシアは首を横に振る。
「そんな事はないわよ。もう、大袈裟なんだから!」
アリシアは笑いながら、机の上に置かれた髪飾りを指先で整えた。
「私が16の頃で、貴方が18だっけ?最初の頃はちょっと心配だったんだよ?貴方、優しいのに、ずっと一人でいるみたいだったもの。でも、あの時、貴方を部屋に誘えてよかったと思うわ」
アリシアがそう言うと、ローゼンは恥ずかしそうにする。
「アリシア、その話はやめよう。こっちが恥ずかしくなる」
「あらあら、この間も部屋で何をしたかなんて事は言わないでおくわね?」
アリシアがわざと楽しげに言うと、ローゼンははっきりと困った顔をした。
「……アリシア」
「なぁに?」
「その言い方は、少し問題がある」
「問題があるかしら?だって本当のことでしょう?」
「本当かどうかではなく、今ここで話すことではないと思う」
「まあ、それはそうね。聞かれたら大変だもの。あなたが最初に部屋に来た時、どれだけ動揺して、どれだけ照れて、それでも最後には泣きながら私を抱いてくれたのかなんて、娘には聞かせられないわ」
ローゼンは完全に言葉を失った。
その反応が昔とあまり変わっていなくて、アリシアは思わず笑ってしまう。十何年も夫婦をしているというのに、ローゼンはこういう話になると今でも弱い。特に妻から昔の夜の話を持ち出されると特に。
「あの時の貴方、本当に驚いていたものね。私が一緒の部屋に寝ようって言っただけで、書類も本も全部落として」
「急だったからだよ」
「ええ。急だったわね。でも、私も勇気を出したのよ?」
「それは……分かっている」
ローゼンは静かに答えた。
その声が、少しだけ昔に戻ったように聞こえて、アリシアは笑みを柔らかくした。
「私、嬉しかったんだよ?貴方が驚いてくれたことも、困ってくれたことも、何度も私の気持ちを確かめてくれたことも。全部、嬉しかったの」
アリシアは続けて話す。
「だから、私はそれを恥ずかしいなんて思っていないわ。貴方が私を大切にしてくれた夜で、私達が本当の意味で夫婦になった夜だもの。それに……そんな機会がなかったら、あの子はいなかったでしょう?」
ローゼンはしばらく髪飾りを見つめていた。
「……そうだね」
ようやく落ちた声は、とても静かだった。
「でも、まさか貴方が親バカになるとは思わなかったわ」
そう言い、アリシアは笑った。
「やっぱり人生って何が起こるか分からないわよ。貴方が親になることも、親バカになることも、想像してなかったんじゃない?」
「親バカじゃないって……」
ローゼンが否定しようとしたところで、アリシアは楽しそうに目を細めた。
「じゃあ、エリナが今度の舞踏会で彼氏を作ってきたらどうするの?」
ローゼンの動きが止まった。本当に、見事なくらい止まった。
「もしかしたら、素敵な方に出会うかもしれないでしょう?何せ、私と貴方の子なんだから」
「まだ早いとは思うよ。まだ15歳だ」
「でも、私が貴方に嫁いだ時は16歳だったわよ?」
「それとこれは違う」
「何が違うの?」
ローゼンは答えようとして、口を閉じた。
違わないことに気づいたのだろう。アリシアはにこにこしながら、さらに追い打ちをかけることにした。
「それに、エリナは可愛いもの。話しかけてくる子息くらいいると思うわよ。ダンスを申し込まれて、少し仲良くなって、文通なんて始めたりして」
「大丈夫だよ。私達の娘はそうそう手強いからね。きっと、軽い気持ちで近づいてくる子息くらい、自分で上手くあしらうだろう」
◇
なんて、ローゼンはそう思っていたのだが。
その考えは、数週間後にあっさりと崩れることになった。
エリナが初めての舞踏会を終え、王都から戻ってきた日のことである。屋敷の玄関前に馬車が止まると、アリシアはいつもより少し早足で迎えに出た。初めての舞踏会がどうだったのか、疲れていないか、嫌な思いをしなかったか。聞きたいことは山ほどあった。
もちろん、ローゼンも来ていた。
本人はただ迎えに出ただけのつもりなのだろうが、アリシアから見れば、明らかに落ち着きがなかった。馬車が見えてからというもの、何度も玄関の外を見ていたし、使用人が「お嬢様がお戻りです」と告げるより先に立ち上がっていた。
馬車の扉が開き、エリナが姿を見せる。
「ただいま戻りました、お父様、お母様」
少し疲れてはいるようだったが、その頬はほんのり赤く、目元には隠しきれない高揚があった。初めての舞踏会は、どうやら悪いものではなかったらしい。
アリシアはほっとして微笑んだ。
「おかえりなさい、エリナ。楽しかった?」
「はい、とても」
エリナは嬉しそうに頷いた。その返事だけなら、何も問題はなかった。
だが、次の瞬間、エリナの後ろから降りてきた侍女が、妙に緊張した様子でアリシアに目配せをした。
アリシアはそれを見て、少しだけ首を傾げる。
「何かあったの?」
「お母様」
エリナが、少し困ったように笑った。
その笑い方は、幼い頃から変わらない。嬉しいことがあった時、けれどどう話せばいいか分からない時の笑い方だった。
ローゼンの視線が、すぐに娘へ向く。
「エリナ?」
「その……舞踏会で、少し驚くことがありまして」
「驚くこと?」
アリシアが尋ねると、エリナは両手を胸の前で軽く重ね、ためらいがちに言った。
「王子殿下から、求婚されました」
玄関広間の空気が止まった。
使用人たちも、侍女も、誰も声を出さなかった。アリシアも、さすがにすぐには言葉が出てこなかった。軽い子息に声をかけられるくらいは想像していた。文通の申し込みくらいなら、あるかもしれないと思っていた。
けれど、王子殿下からの求婚は予想していなかった。
そして隣のローゼンは、完全に固まっていた。
エリナは慌てて続ける。
「あ、あの、もちろん今すぐ決めるようなお話ではありません。殿下も、まずは私の気持ちを大切にしたいと仰ってくださいました。ただ、正式なお話をする前に、私自身と、クライゼン家に失礼のない形でお伝えしたいと……」
「そう」
アリシアはゆっくり頷いた。
かなり大きな話である。大きすぎる話である。だが、エリナが怯えている様子ではないことだけは分かった。驚いてはいる。困ってもいる。けれど、嫌な思いをしたという顔ではなかった。けれど問題は、父親の方だった。
◇
ローゼンはその夜、ベッド横の小机にずっとうつ伏せていた。寝支度を終えたアリシアが部屋に戻ってきても、彼は動かなかった。
「大丈夫?元気ないわよ」
アリシアが声をかけると、ローゼンは机に額を伏せたまま、くぐもった声で呟いた。
「娘が……娘が……」
「もう、分かっていた事でしょうに。あの子がいつか誰かに見初められることくらい。ただ、まさか王子様からとは思わなかったけど」
そこはアリシアも同意するしかなかった。
今回エリナに求婚したのは、第二王子セオドア殿下である。年はエリナより二つ上である。王家特有の淡い銀髪と、澄んだ灰青の瞳を持つ青年で、王都では以前から人気者だったとか。第一王子が次期国王として早くから政務に関わっているため、セオドア王子は王位を直接継ぐ立場ではない。けれど、だからといって気楽な立場というわけでもなかった。
彼は幼い頃に母君を亡くしている。
王妃であった母君は病で早くに亡くなり、それ以来、王宮では少し距離を置かれていたのだという。けれど、学問にも剣にも手を抜かず、地方の情勢にも関心が深い。特に北国については以前から資料を読んでいたらしく、舞踏会でもエリナに雪道の暮らしや冬支度について尋ねたらしい。
その話を聞いた時、アリシアは少しだけ感心した。彼がただ綺麗な令嬢だから声をかけた、というわけではなさそうだったからだ。
「侍女の話では、ずいぶん丁寧だったみたいよ。エリナの話を遮らずに聞いてくださったそうだし、北国を辺境扱いするようなこともなかったって」
「……それは良いことだ」
ローゼンはうつ伏せたまま答えた。
「良いことなのに、どうして机に沈んでいるの?」
「良い方だから困っている」
「ああ、なるほど」
アリシアは思わず笑ってしまった。
軽薄な相手なら、ローゼンはきっとすぐに警戒しただろう。失礼な相手なら、領主として父親として強く出ればいい。けれど、相手は礼儀正しく、評判も悪くなく、しかも王子である。さらに、エリナ本人も嫌がっていない。
父親としては、一番困る相手だった。
「セオドア殿下は、王都の令嬢たちにも人気があるそうよ。銀髪で、背が高くて、物腰も柔らかいって」
「詳しいね」
「エリナの侍女が教えてくれたの。舞踏会場でも、かなり目立っていたそうよ」
アリシアは笑いながら、そっとローゼンの髪に触れた。
「元気を出して?いつかは来る事よ。私だってそうだったんだから。あの子だってそうなの。いつまでも子どものままではないことも、誰かに想いを向けられる年になったことも、いつかは私たちの手を離れて、自分で選ぶ日が来ることも」
ローゼンは、しばらく黙っていた。
アリシアの言葉を一つ一つ受け止めるように、伏せていた目をゆっくりと上げる。まだ元気になったとは言い難かったが、先ほどまで机に沈み込んでいた時よりは、少しだけ落ち着いて見えた。
「そうだな。まずはちゃんと話し合おう」
「ええ。それがいいわ」
◇
こうして、一家は改めて話し合う機会を設けることになった。
場所は、屋敷の小さな応接室である。普段なら家族で茶を飲むために使う、暖炉の近い穏やかな部屋だった。窓辺には冬の名残の雪が薄く積もり、丸い机の上にはアリシアが選んだ茶器と焼き菓子が並べられている。
ただ、空気感はまったく穏やかではなかった。
少なくとも、部屋の隅に控えている侍女たちにはそう見えていた。
特に、エリナの侍女は気が気ではなかった。
自分が舞踏会での出来事を報告したせいで、まさかお嬢様が叱られるのではないか。そんなことを考えているのが、横から見ても分かるくらいだった。
一方、当のエリナも少し緊張していた。
「……お父様」
椅子に座ったまま、エリナはおそるおそるローゼンを見た。
「私は、何かいけないことをしてしまったのでしょうか」
「まずは安心して欲しい。私達は叱りに来た訳じゃないから。君のこれからについて改めて話そうかと思って」
ローゼンは、できるだけ穏やかにそう言った。
「君が舞踏会で何か失礼をしたとか、王子殿下に軽率な返事をしたとか、そういう話ではない。むしろ、急なことだったのに、よく戻ってきてくれたと思っている」
エリナは少しだけ肩の力を抜いた。無理もなかった。父と母がそろって応接室に座り、改まって話をしようと言われれば、何か重大なことを咎められるのではないかと思っても仕方ない。
アリシアはそれを見て、にこりと笑った。
「そうよ。ママもパパも、エリナを叱りたいわけじゃないの。ただ、あなたがどう思っているのかを聞きたいだけよ」
「私が、どう思っているか……」
エリナは少し恥ずかしそうに膝の上で指を重ねた。
王子殿下から求婚された。嫌ではなかった。けれど、どう思っているのかと聞かれると、簡単には答えられない。そういう戸惑いが、指先の動きにも、落ち着かない視線にも出ていた。
アリシアはそんな様子を見て、少し考えてから、そっとローゼンの方へ身を寄せた。
「ここは私に任せて頂戴」
小さな声で耳打ちする。
「あの子、多分恥ずかしがっているんだわ。少しの間だけ二人きりにさせてもらえないかしら?」
ローゼンは一瞬だけエリナを見た。
エリナは膝の上で指を重ねたまま、少し俯いている。父に話したくないわけではないのだろう。ただ、王子殿下のことをどう思っているのかを父の前で話すには、まだ恥ずかしさが勝っているのだ。
ローゼンもそれに気づいたらしい。
少しだけ黙ったあと、静かに頷いた。
「分かった」
それから、エリナへ視線を向ける。
「エリナ。私は少し席を外す。君が話しやすいように、アリシアと話すといい」
「お父様……」
「無理に今すぐ全てを話さなくていい。君が話せる範囲でいいんだ」
その声は穏やかだった。
けれど、立ち上がる動きは少しだけ遅かった。父親としてはこの場に残りたい。娘の気持ちを自分でも聞きたい。けれど、娘が話しやすい方を選ぶべきだと分かっている。そんな迷いが、ほんの少し滲んでいた。
ローゼンは部屋の隅に控えていた従者たちにも目配せをした。従者たちはすぐに頭を下げ、侍女たちも静かに部屋を出ていく。最後にローゼンが扉の前で一度だけ振り返った。
「何かあれば呼んでほしい」
「ええ。ありがとう、ローゼン」
アリシアがそう言うと、ローゼンは小さく頷き、扉の向こうへ出ていった。
部屋の中に、母娘だけが残される。
途端に、空気が少し柔らかくなった。
アリシアは茶器を手に取り、エリナの前のカップへ温かいお茶を注いだ。甘い香りのする茶だった。エリナが幼い頃、不安なことがあるとよく飲ませていたものだ。
「まずは飲みなさい。喉が乾いたでしょう?」
「……はい」
エリナは両手でカップを受け取った。
一口飲むと、少しだけ肩の力が抜けたようだった。
アリシアは向かいの椅子ではなく、エリナの隣に腰を下ろした。向かい合って聞くよりも、その方が話しやすいと思ったからだ。
アリシアは、エリナの髪をそっと見つめながら、少し懐かしそうに微笑んだ。
「実はね、ママも昔、パパと向き合う時に少し緊張したことがあったのよ」
エリナは驚いたようにアリシアを見た。
「お母様もですか?」
「ええ。パパは昔から優しい人だったわ。貴方は知ってると思うけど、ママは南国出身なのよ。そうしたら、パパが寒くないか、困っていないか、食事は合うかって、いつも気にかけてくれた。だから、私はすぐに思ったの。この人は、とても大切にしてくれる人なんだって」
アリシアは、温かい茶の入ったカップに視線を落とした。
「だからね、大切にしてくれる人だからこそもっと知りたいと思ったのよ。どんな時に笑うのか、何を大事にしているのか、どんな言葉を喜ぶのか。そういうことは、一度会っただけでは分からないでしょう?それにパパなんてそういう所は不器用なんだから」
エリナは静かに頷いた。
「だからママはね、少しずつ話して、少しずつ近づく事にしたの。最初から全部を決めたわけじゃないのよ。もっとこの人を知りたい。そう思ったところから始まったの」
アリシアはそこで、エリナの方へ優しく視線を向けた。
「エリナも、今はそれでいいのよ。セオドア殿下のことを、今すぐ好きかどうか決めなくていいわ。ただ、もう一度話してみたいと思ったのなら、それは大切にしていい気持ちよ」
エリナはカップを両手で包んだまま、少し頬を赤くした。
「……もう一度、お話ししてみたいとは思いました。殿下は、私の話をきちんと聞いてくださいました。北国のことも、お父様のことも、軽く扱わずに聞いてくださって……それが、とても嬉しかったのです」
アリシアは微笑んだ。
「それなら、その気持ちをそのままパパに話せばいいわ」
「お父様に……」
「大丈夫。きっと驚くし、少し固まるかもしれないけれど、ちゃんと聞いてくれるわ。パパは、エリナの幸せを一番に考えているもの」
エリナはしばらく黙っていた。
それから、小さく頷く。
「はい。私、ちゃんと話します」
「ええ。それでいいの」
アリシアはそっと娘の肩に手を置いた。
蜂蜜色の髪も、伏せた睫毛も、照れた時に少しだけ唇を結ぶ癖も、まだ幼い頃の名残を残している。けれど、今のエリナは確かに、自分の気持ちを自分で見つめようとしていた。
嬉しくて、少し寂しい。
けれど、それでいいのだと思う。
「大きくなったわね、エリナ」
アリシアがそう言うと、エリナは恥ずかしそうに笑った。
「まだ、分からないことばかりです」
「大丈夫よ。大人だって、分からないことばかりだもの」
「お母様もですか?」
「もちろん。パパの親バカがここまで悪化するなんて、今でも予想外だわ」
エリナは目を丸くし、それから小さく笑った。
その笑い声を聞いて、アリシアも安心した。扉の向こうで待っているローゼンには少し悪いが、もう少しだけ母娘で話してから呼んでもいいだろう。
きっと彼は今頃、廊下で落ち着かないまま待っている。
娘の気持ちを尊重しようとする父親として。
そして、娘の初めての恋の気配に、どうしようもなく動揺している親バカとして。
◇
それから、いくつかの手紙と話し合いを重ねた末、エリナは結論を出した。
婚約については、前向きに考えている。けれど、今すぐ決めることはしない。セオドア殿下を好ましく思っていることは確かだが、王子妃になるかもしれないという話は、恋心だけで受け止められるほど軽いものではない。王家との繋がり、北国との距離、これからの自分の暮らし。考えなければならないことはいくつもあった。
だから、婚約は保留。
その代わり、セオドア殿下とは正式に交流を続けることになった。
つまり、お付き合いをする、ということである。
その言葉を聞いた時、ローゼンは寂しそうな顔はしていたものの、反対はしなかった。エリナが自分で考え、自分の言葉で出した答えだったからだ。娘の選択を尊重すると決めた以上、父親の個人的な理由で止めることはできなかった。
問題は、北国と王都の距離だった。
手紙のやり取りだけなら、今のままでも続けられる。けれど、相手を知るためには、やはり直接会って話す機会が必要になる。とはいえ、北国のクライゼン領から王都までは決して近くない。季節によっては雪で道が閉ざされることもあり、気軽に何度も往復できる距離ではなかった。
そこで、エリナはしばらく王都に住むことになった。
幸いにも、クライゼン家にはそれを実現するだけの財力があった。北国は厳しい土地だが、毛皮や鉱石、冬支度に必要な品々の交易で、領地は堅実に潤っている。ローゼンが長年無駄を削り、領地を守りながら蓄えてきた財は、娘が王都で暮らすための屋敷を用意するには十分だった。
もちろん、屋敷を選ぶ時のローゼンは少々大変だった。
王宮に近すぎてはいけない。だが、遠すぎてもいけない。治安が良く、騒がしすぎず、信頼できる使用人を置けて、庭があり、日当たりがよく、なおかつエリナが寂しくならない場所がいい。さらに護衛の配置、馬車の出入り、従者を飛ばして近隣の様子まで確認し始めた時には、アリシアもさすがに止めた。
けれど、そうして整えられた王都の屋敷は、結果としてとても良いものになった。
そして、エリナが王都へ向かう日が来た。
屋敷の前には、荷物を積んだ馬車が並んでいた。衣装箱、書物、冬用の外套、アリシアが選んだ茶葉、ローゼンが持たせた北国の地図や領地の資料まである。王都で暮らすのだから、そんなに持っていかなくてもよいのではないかとアリシアは思ったが、エリナが「お父様が選んでくださったものですから」と大切そうに受け取っていたので、何も言わないことにした。
エリナは旅装に着替えていた。
淡い青の外套を羽織り、蜂蜜色の髪をきちんとまとめている。その姿はもう、幼い頃のように雪の中を走り回っていた娘ではない。王都へ向かい、自分の未来を見つめようとしている一人の令嬢だった。
アリシアは、その姿を見て胸が少し熱くなった。嬉しい。けれど寂しい。
きっとローゼンも同じなのだろう。
彼は朝からずっと落ち着いているように振る舞っていた。使用人に指示を出し、荷物を確認し、護衛隊長に道中の注意を伝えている。けれど、何度もエリナの方へ視線を向けていることを、アリシアは知っていた。
「お父様」
エリナが声をかけると、ローゼンはすぐに振り向いた。
「荷物は、もう十分です。これ以上増やすと、王都へ引っ越すというより、北国の屋敷ごと運ぶみたいになってしまいます」
その言葉に、近くにいた使用人たちが小さく笑いをこらえた。
「必要なものを選んだだけだよ」
「冬用の外套が四着もあります」
「ほ、ほら王都も冷える日があるだろう」
「北国ほどではありません」
エリナが困ったように笑うと、アリシアは耳打ちをした。
「ほら、言ったでしょう。パパはそういう所があるのよ」
エリナはそんな二人の姿を見て、柔らかく笑った。その笑みはアリシアに似ている。けれど、静かに背筋を伸ばす姿は、やはりローゼンに似ていた。
「お母様、お父様。行ってまいります」
「ええ。行ってらっしゃい、エリナ」
ローゼンとアリシアは娘を抱きしめた。
幼い頃は、抱きしめるとすっぽり腕の中に収まった。けれど今は、もうアリシアとあまり変わらない背丈になっている。細い肩も、旅装の布越しに感じる体温も、確かに成長した娘のものだった。
「無理をしないのよ。王都で困ったことがあったら、すぐに手紙をちょうだい」
「はい」
「それから、セオドア殿下と会う時は、ちゃんと自分の気持ちを大切にすることよ」
「はい、お母様」
アリシアが離れると、エリナはローゼンの前に立った。
ローゼンは静かに娘を見下ろしている。何か言おうとして、けれどすぐには言葉が出てこないようだった。
「どうか良い王都生活を。私もアリシアも応援している」
ようやく出た言葉は、ローゼンらしく真面目で、少しだけ硬かった。けれど、エリナはその言葉を聞いて、ふわりと笑った。
「ありがとうございます、お父様。どうか、お体に気をつけてくださいね」
「私は大丈夫だよ」
「お母様、見ていてくださいね」
エリナがアリシアへ視線を向けると、アリシアは笑って頷いた。
「ええ、任せて。ちゃんと見張っておくわ」
ローゼンは何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。
エリナはそのやり取りを見て、小さく笑った。幼い頃から何度も見てきた、父と母のやり取りだった。王都へ向かう日だというのに、その変わらなさが少しだけ心を軽くしてくれる。
けれど、馬車の準備はもう整っていた。
いつまでもこの場にはいられない。
エリナは一歩前へ出ると、少し迷ったように指先を握った。それから、意を決したように二人を見上げる。
「行ってきます。おとうさま。おかあさま」
その呼び方に、ローゼンの手が止まった。
アリシアも、思わず目を細めた。
エリナはすぐに自分で気づいたのか、頬を赤くする。
「気をつけて行きなさい」
「はい。ありがとうございます」
エリナは深く頭を下げた。
そして、馬車へ乗り込むために歩き出す。
その背中を見送りながら、アリシアは隣のローゼンをそっと見た。彼はいつものように静かに立っていた。けれど、その横顔は、どこか必死に何かを堪えているようにも見えた。
たぶん、今の「おとうさま」は、かなり効いたのだろう。
アリシアは声を出さずに笑った。
本当に、どうしようもない親バカである。
短編シリーズ化しています。
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