『縁側の向こうの青空』
先に旅立ったのは、おじいちゃんだった。
おばあちゃんは、おじいちゃんが亡くなると、まるで自分の魂の半分をどこかに置き忘れてきてしまったかのように、急速に元気を失っていった。半年もしないうちに、あとを追うようにして静かに息を引き取った。
おじいちゃんがいなくなってからの半年間、おばあちゃんはただ一日中、縁側に座って庭の向こうを見つめていた。
のり子が遊びに行くと、いつも嬉しそうに目を細めたけれど、話し出すのはおじいちゃんとの思い出話ばかりだった。
「あの人はね、本当に手先が器用で、何でも直してくれたのよ」
「二人で歩いた商店街の、あの角の豆腐屋さんの雁擬きが美味しくてねえ」
おばあちゃんが縁側で、いつも大切そうに両手で包み込むようにして見つめていたものは何だったのだろう。のり子にはそれが、目に見えない「二人の時間」そのものであるように思えてならなかった。本当に、誰もが羨むほど仲の良い夫婦だったのだ。
そして今日、のり子はお父さんとお母さんと一緒に、誰も住まなくなったおじいちゃんの家を片付けに来ていた。
お祖父ちゃんの生まれる前からある家で、もうこれ以上、ここで誰かが生活することは叶いそうになかった。家を解体し、更地にして手放すことが決まっていた。
「のり子、そっちのタンスの中身、空にできそうかい?」
お父さんの声に、のり子は「うん、やってみる」と答えて、和室の隅に置かれた古い桐タンスの前にしゃがみ込んだ。
引き出しを一段ずつ開け、中にある古い着物やシーツをまとめていった。一番下の、少し建て付けの悪くなった引き出しを両手で力任せに引いたとき、ふわっと、どこか懐かしい樟脳の香りが鼻をくすぐった。
そこに、それはあった。
他の引き出しとは違い、驚くほど丁寧に、まるで宝物を守るようにして重ねられた二着の服だった。
派手な色合いや飾りは一切ない。けれど、生地の優しさや仕立ての丁寧さがひと目でわかる、とても上品で素敵な洋服だった。
一着は、おじいちゃんの細身の長袖シャツと、折り目の正しそうなスラックスだった。
もう一着は、おばあちゃんの、淡い水色に白い小花が散らされた、爽やかなワンピースだった。
(あぁ、綺麗だな……)
のり子は、思わず作業の手を止め、その二つの服をそっと両手で抱きしめるようにして持ち上げた。
こんな服を着て、二人はデートをしていたのだろうか。
どんなおしゃべりをして、どんなふうに笑い合っていたのだろう。
二人の出会いは、どんなに胸がときめくものだったのだろう。
想像するだけで、のり子の胸の奥が温かい光で満たされていくようだった。
愛おしさに胸を熱くしながら、のり子がワンピースの柔らかな生地にそっと頬を寄せ、深く目を閉じた、その時だった。
耳の奥で、カラン、と涼やかな音が響いた。
「おい、遅いじゃないか。待ちくたびれたよ」
聞き覚えのある、けれどずっと若くて張りのある、優しい声だった。
のり子が驚いて目を開けると、そこは埃っぽい、薄暗い和室ではなかった。
どこまでも突き抜けるように青い空だった。
耳元をかすめるのは、ジリジリと照りつける夏の陽射しと、どこか心地よい川の風だった。
足元は未舗装の土の道で、通りの両脇には、木造の平屋や看板建築の商店がずらりと並んでいた。道を行き交う人々は、みな絣の着物や、どこか古風な洋装を身にまとっていた。
「……あれ?」
のり子は自分の手をまじまじと見つめた。それから、すぐ隣に立っている二人に目を向け、あっと息をのんだ。
そこにいたのは、タンスの底に眠っていたあの長袖シャツとスラックスを着こなした、若き日のおじいちゃんだった。そしてその隣で、水色の爽やかなワンピースの裾を揺らしているのは、抜けるように白い肌をした、若くて美しいおばあちゃんだった。
「どうしたんだい、そんなに不思議そうな顔をして」
おじいちゃんが、のり子の顔を覗き込んで微笑んだ。
「なんだか、お嬢ちゃんを見ていると、初めて会った気がしないね。ずっと前から、私たちのことをよく知ってくれているような……そんな不思議な気持ちになるよ」
おばあちゃんも、小鳥がさえずるような愛らしい声で笑い、のり子の手をそっと包み込んだ。その手の温もりは、のり子がよく知っている、あのおばあちゃんの優しい手そのものだった。
「うん……私、おじいちゃんとおばあちゃんに、ずっと会いたかったの」
のり子がそう言うと、二人は顔を見合わせて、嬉しそうに微笑み合った。
「よし、せっかく出会えたんだ。少し遠出をしよう。ちんちん電車がちょうど来るぞ」
おじいちゃんが指さした先には、お椀を伏せたような形の、緑色のレトロな路面電車が滑り込んできていた。
「ちん、ちん」と、足踏み式の鐘の音が街に響き渡った。
三人はその停留所から、ステップを踏んで車内へと乗り込んだ。
車内に足を踏み入れると、のり子は思わず目を見張った。
床は丁寧に張られた薄暗い色の板張りで、長年ワックスや油が染み込んだ独特の香りがしていた。座席はえんじ色のベロア風のシートだった。窓はすべて木枠でできており、風が吹き抜けるたびにガタゴトと小気味よく音を立てていた。
麦わら帽子をかぶった乗客たちが涼を求めながら、静かに揺れていた。
「乗車券を拝見します」
紺色の制服に身を包んだ車掌さんが、がま口のようなカバンを肩から下げてやってきた。
おじいちゃんが硬貨を払うと、車掌さんは小さな紙の切符を取り出し、真鍮のパンチで「パチン、パチン」と器用に丸い穴を開けて、三人に手渡してくれた。
のり子はその切符を指先でなぞりながら、窓の外の景色に釘付けになった。
ちんちん電車がガタゴトと走るにつれて、窓の外の風景が変わっていった。
大きな「ライオン歯磨」や「仁丹」のホーロー看板、格子窓の美しい商家、時折すれ違う黒塗りの自動車や、荷台に野菜を山積みにした大八車があった。歩道を歩くモダンボーイやモダンガールたちが、日傘を回しながら楽しそうに笑っていた。
まるで時がゆっくりと流れているような、けれど誰もが力強く生きている、そんな確かな熱気がそこにはあった。
電車が終点に近づき、三人は賑やかな商店街の入り口で降りた。
通りを歩いていると、左右の店から次々に威勢のいい声が飛んできた。
「おう、一平さん! いつ祝言を挙げるんだい? 集会所なら、いつでも優先的に予約を取ってやるからな! 絶対に俺も呼べよ!」
魚屋の威勢のいいおじちゃんが、ねじりはちまきを揺らしながら身を乗り出して叫んだ。
「まあまあ、本当にお似合いの夫婦ねえ。いつお式を挙げるのか、近所のみんなで楽しみにしているのよ」
向かいの荒物屋のおばちゃんも、嬉しそうに手を振って声をかけてくれた。
おじいちゃんとおばあちゃんは、たちまち耳まで真っ赤にして、お互いに顔を見合わせながら、照れくさそうに俯いて歩いていった。
さらに、八百屋の前を通りかかったとき、店主が目を丸くして言った。
「あれ! 一平さん、もうそんなに大きなお子さんがいたのかい?」
その言葉に、二人はさらに顔を真っ赤にして慌てふためいた。おじいちゃんは頭をかきむしり、おばあちゃんはワンピースの裾を握りしめて「違います、違います!」と手を振っていた。
のり子は、そんな二人の様子がたまらなく微笑ましくて、可笑しくて、声を上げて笑ってしまった。
「あぁ、喉が渇いたね。あそこで少し休もう」
おじいちゃんが指さしたのは、駄菓子屋の店先に置かれた赤い長ベンチだった。
おじいちゃんは店に入り、冷えたガラス瓶のラムネを三本、買ってきてくれた。
「ほら、のり子ちゃん」
おじいちゃんはそう言って、慣れた手つきでラムネの木の栓を、手のひらでぐっと押し込んだ。
シュワッ!
勢いよく白い泡が弾け、涼しげな音が響いた。
「こうやるんだよ」
おじいちゃんは驚くほど器用な手つきで、瓶の口の栓を外し、中のガラス玉(ビー玉)をカランと取り出してみせた。
それを取り出して、空の太陽に透かしてみせた。
「ほら、見てごらん。キラキラして、まるで空を閉じ込めたみたいだろう」
光を浴びたビー玉は、昭和の澄んだ青空を吸い込んで、琥珀色と青色が混ざり合ったような、息をのむほど美しい光を放っていた。
「わあ……すごい!」
のり子が目を輝かせると、おじいちゃんは「はい、あげるよ」と、そのビー玉をのり子の手のひらに載せてくれた。
のり子もおじいちゃんの真似をして、ビー玉を片目で覗き込み、空にかざしてみた。世界が丸く、キラキラと歪んで、どこまでも美しく輝いて見えた。
「ありがとう。私、これ、一生大事にするね」
のり子は、失くしてしまわないように、自分の服のポケットの奥深くへと、そっと仕舞い込んだ。
冷たいラムネを飲み干し、三人は顔を見合わせて、いつまでも、いつまでも笑い合っていた。
おじいちゃん、おばあちゃん。二人の笑顔は、まるでひだまりのように温かかった。
カラン……。
また、静かな音が耳の奥で響いた。
「のり子、のり子、どうしたんだい? ぼんやりして」
お母さんの優しい声に、のり子はハッと我に返った。
目の前にあったはずのセピア色の街並みも、ちんちん電車の揺れも、青い空も、若くて美しい二人の姿も、一瞬にして消え去っていた。
視界に入ってきたのは、すっかり片付き、がらんとした古い和室だった。
窓の外では、片付け業者の大きなトラックが停まっており、おじいちゃんとおばあちゃんが長年使っていた箪笥や、思い出の品々が、次々と荷台に積み込まれていくところだった。
この家は古くて、もう誰も住むことはできない。おじいちゃんとおばあちゃんの思い出がこれ以上増えることもなかった。
けれど、胸の奥には、さっきまでの二人の笑い声が、まだ温かく残っていた。
「ううん、なんでもない。ちょっと、おじいちゃんとおばあちゃんのことを考えていただけ」
のり子は寂しさを堪えて笑顔を作り、お母さんに答えた。
すべての片付けが終わり、家の戸締りをして、いよいよ一番最後にこの家を去る時が来た。
門の手前で、のり子はもう一度だけ、静まり返った古い家を振り返った。
あの縁側が、西日に照らされて静かに光っていた。
(おじいちゃん、おばあちゃん、バイバイ)
心の中でそう呟き、前を向いて歩き出そうとした瞬間、のり子は自分の服のポケットの重みに気がついた。
歩くたびに、太もものあたりに、丸くて小さな、ひんやりとしたものが触れた。
「あれ……?」
のり子は不思議に思いながら、右ポケットの中に手を滑り込ませた。
指先が触れたのは、滑らかで、驚くほど冷たい、ガラスの感触だった。
そっとそれを取り出して、手のひらの上で転がしてみた。
それは、まぎれもない、あの時のビー玉だった。
夕暮れの淡い光を浴びて、手のひらの上で、どこまでも美しく、キラキラと琥珀色に輝いていた。
「本当に、あったんだ……」
のり子はビー玉を目に当てて、もう誰も住まない祖父たちの家をのぞいてみた。
セピア色の縁側に、佇む2人の姿が見えた気がした。
家はなくなってしまっても、二人が共に歩んだ確かな愛の物語は、このビー玉の中に、そしてのり子の心の中に、永遠に残り続けていた。
のり子はもう一度だけ、あの縁側に向かって、今度はとびきりの笑顔で手を振った。
おしまい




