2. 相続事務手続き:相続人に犬が指定されている場合
「ねえ、Yさん。相続の事でちょっと聞きたいんだけど。
相続人に犬がいる時の相続手続きって何が必要か分かる?」
ある日の十五時過ぎ、支店に戻って来た渉外担当Mが私にそう尋ねてきた。
この男は何を言っているのだろう。
「分からないですね」
「そこをなんとか」
「仕方ないですね。詳しく聞かせてください」
「遺産分割協議書で相続人にペットの犬が指定されていてね、ハナちゃんって子なんだけど」
「亡くなったのがハナさんですか。何ハナさんですか? 調べますんで」
「いや、犬の名前がハナちゃん。柴犬っぽい犬だったよ」
「犬の名前と種類はどうでもいいんで、亡くなった人の名前を教えてください」
「お、調べといてくれる? 一応お客さんには時間かかるって言っといたから!」
Mはそう言うと私に遺産分割協議書の写しと亡くなった顧客情報の打ち出しを渡してきた。
そして、このMという男は私に書類を渡すだけ渡すとまた外へ出て行ってしまった。
まあ、マニュアルを調べてみるか。
私は支店後方にずらりと鎮座しているクソデカ事務ファイルから一冊抜き取り、手続き方法について調べることにした。
『相続人に犬が指定されている場合』
この項であろう。助かる。
それにしても犬とは直球である。
猫やウサギの場合はないのだろうか。
まあ、今回の相続人は犬のハナちゃんなのだから今は関係ない。
読み進めてみたが、相続手続きの流れは通常の遺産分割協議書がある場合と変わらないようだ。
ただ厄介なことがある。
それは犬には印鑑証明書と身分証明書がないだろうということだ。
さらに、相続手続依頼書に自書することもできないだろう。
相続人となる犬には成年後見制度を勧め、その後見人が代理となって相続手続きをする、というのが一番簡単な方法らしい。
「すみません。このハナちゃんって成年後見制度利用されているか分かりますか?
もし利用されているのなら、後見人の方が代理で手続きすればいいみたいです」
私はその厄介な相続手続きを持ち込んだMにそう尋ねた。
彼は外でタバコを吸っていた。呑気なものである。
「なんかさ、お金かかるから後見人は立てないって言ってたよ」
「は?」
「あと、亡くなってるKさんね、もうSさんに死亡日のシステム登録はしてもらってるから、口座は凍結済みだからね」
「え? Sさんは何も言ってなかったんですか?」
Sとは私が担当している窓口の隣の窓口担当であり、私より五つ年上の先輩行員でもある。
「Sさんに分からないって言われてさ、Yさん詳しいから聞いてみたらって言われたんだよ。」
ふざけないでいただきたい。
私はSから何も聞いていない。
でもまあいいか。
さて、成年後見制度が使えなくなってしまったので他の手を考えなくてはいけない。
遺産分割協議書を読む限り、亡くなった人の財産のうち、うちにある二十万円の定期預金をこのハナちゃんが相続するらしい。
たかだが二十万円の相続のために私はこうして苦労しているというわけである。
いや、たかだかというのは失礼だ。
それにしても腹が立つ。
二十万円とは私の手取りより高額なのだ。世も末である。
まあマニュアルを読む限りは相続人に犬がいても人間とそれほど手続きは変わらないようだ。
印鑑証明書がないのなら市役所で作ってもらえばいい。
役所へ行けばなんとかなるだろう。
ついでに身分証明書もどうにかしてもらおう。
それにしても犬ということは血統書があるのだろうか。
それは身分証明書にはならないのだろうか。
そもそも犬の身分証明書とはなんだ?
私は再びクソデカ事務ファイルを開き、調べることにした。
『本人確認事務手続き:本人確認書類として有効な書類一覧』
この項であろう。助かる。
どうも血統書ではなく、犬の場合は狂犬病予防の絡みがあるので狂犬病予防注射済証が本人確認書類として使えるらしい。
なるほど、そういったものがあるのか。
確かに雑種犬なら血統書は無いだろうしこちらの方が有効だろう。
勉強になる。あとで自分のノートにもメモしておこう。
そして人間以外の相続人には犬しか認められていない理由も分かった。
猫やウサギには犬と違い、本人確認書類として認められているものがないらしい。
なるほど、よく考えられているものだ。
あとは相続手続き依頼書にどうハナちゃんに自書してもらうかだ。
後見人を立てないのであれば、どうやっても本人に名前と住所を書いてもらわなければならない。
これは多少読めなくても良い。本人がそう書いたならそれでいい。
たとえ、とんでもない独特な字であっても本人が書いたのならそれでいいのだ。
どうしたものか、私は策を練ることにした。
◇
「……あとはですねMさん、ハナちゃんにこの相続手続依頼書に名前と住所を書いて欲しいんですよ。印鑑証明書と同じ押印も忘れずにお願いします」
数日後、私は渉外担当Mに相続手続きに必要な書類を伝えた。
「は? ハナちゃん、犬って言ったじゃん。柴犬だよ。どうやって本人が書くの?」
「書いてきてもらってください」
「え? どうやって?」
「この書類を持って行って、ハナちゃんに書いてきてもらってください」
「はあ?」
このMという男、察しが悪くてイライラする。
「ハナちゃんに書いてもらったらこの書類を私にください」
「……あ、そういうこと。おっけー。ハナちゃんに書いてもらってくるわ! ありがとね」
なんとか伝わったようだ。察しが良くて助かる。
「ちゃんとハナちゃんの印鑑証明書と最新の狂犬病予防注射済証を貰ってきてくださいよ?」
私はそうMに念押しした。
不安ではあるが、私は出来る限りの事はやった。もう後は知らぬ存ぜぬで行こう。
そもそも私の仕事ではない。そんな気がする。
◇
「これ、ハナちゃんが書いたの?」
「そうらしいです」
後日、私は支店長からそう質問を受けた。
支店長の机の上には例の相続手続依頼書が広げられている。
そしてハナちゃんが書いたという項目は何が書いてあるのか分からなかった。
マジックペンで何か文字のようなものが書かれているだけである。
これはもしかすると本当にハナちゃんが書いたのかもしれない。
しかし確かめるすべはない。むしろ確かめるすべはない方が良い。
「じゃ、いっか。はい、手続き進めて良いよ」
支店長のお墨付きも貰えたので一件落着である。
しかし、すぐにとんでもないミスが発覚した。
「そういえばさ、相続って相続人名義の口座にしか入金できないんじゃなかったっけ?」
支店長がそう声をかけてきた。
「え?」
確かにそうである。
この遺産分割協議書にはうちの定期預金を相続するのはハナちゃんと指定してある。
しかし、相続手続依頼書にはハナちゃん名義の普通預金口座がないので別の相続人の口座が入金先として指定されていたのだ。
「これ、遺産分割協議書に定期預金はハナちゃんって書いてあるのにKさん(被相続人)の娘さんの口座に入金したらまずいんじゃない?」
支店長は平然とそう私に言う。
この人は十数分前、何を確認して相続手続依頼書に検印したのだろう。理解に苦しむ。
それにしてもKさんの定期預金はすでに解約してしまった。
あとは振り込むだけだというのにハナちゃんの口座がない。
振込は十五時までには完了していなければならない。困った。
このまま振込が完了しないと二十万円はシステム上浮かんだままだ。
まあ、振り込む前で良かったと思うべきか。
しかし、犬は口座開設もできるのだろうか。
相続人として認められているのならおそらくできるのだろう。
幸い人間にもいそうな名前である。ポチちゃんやカラアゲちゃんではなくて良かった。
私は急いでクソデカ事務ファイルを開いた。
『普通預金口座開設事務手続き:犬名義で口座開設する場合』
この項であろう。助かる。
なるほど、どうも相続や贈与などの特殊状況下では口座開設が認められているらしい。
最悪ハナちゃんを人間にしなくてはいけないかと思ったが、一安心である。
ただし、その後早急に解約しなくてはならないようだ。
早急とはどのくらいの期間なのだろう。
『相続事務手続きマニュアルの相続人に犬が指定されている場合の項を参照すること』
まあ、マニュアルがタライ回しになることはよくあることだ。
そもそも被相続人の娘さんの口座が初め指定されていたのだから、まずハナちゃんの口座に入金し、そこから娘さんの口座に移動し、ハナちゃんの口座を解約すれば問題ないだろう。
なんだかマネーローンダリングのようで気が進まない。
まあ、事務手続きがそう言っているのだからそう従おう。
問題は時間がないことだ。
仕方ない。私は渉外担当Mに電話し、状況を説明した。
そもそもこの男が悪い。
まあ、ここには詳しく書けない方法でどうにか無事ハナちゃんの口座に入金することができた。
これで相続人に犬が指定されている場合の相続手続きは完了である。
しかし――
「ねえ、相続人って猫ちゃんもいける?」
後日、渉外担当Mがそう質問してきた。
懲りない男である。
「猫は本人確認できないのでダメです」
私はそう答えた。
本日の窓口営業は終了いたしました。またのご来店をお待ちしております。




