1. 相続事務手続き:死亡日が未来日となる場合
「あの、……が亡くなったので手続きしたいのですが、どうしたら良いですか?」
ある日、銀行窓口にやって来た老人が私にそう言った。
うわ、相続手続きか、面倒なことになったな、私はそう思った。
相続手続き、これはかなり面倒くさい。
事務手続きは当然の事、相続人同士で誰がどのくらい相続するのかと揉めたり、誰がどのくらい生前の世話を頑張ったかと言い合ったり、遺言書が出現したり、相続権のない謎の人物がしゃしゃり出てきたりとまあ、面倒くさい。
まあ、これらはレアケースではあるのだが、私は運が悪い。
私はこれまで数多くの相続手続きを受け付けてきたが、いずれもそんな調子だ。
なんなら相続人同士で話し合ってから窓口に来いといつも思っている。
ただ、幸いなことに今回来店しているのは年老いた男性一人。
しかもこの男性はよく窓口に来る人当たりの良いお客様だ。
そして、こういった人は財産も多い。非の打ち所のないような良いお客様である。
どういった関係の人が亡くなってしまったのかは聞き取れなかったが、このお客様なら拗れることはない、拗れたとしても彼が盾となるだろう。
今回はラッキーだ。
私は始めに面倒なことになったと思ってしまったことを少し反省した。
「そうなんですね。ではこちらの書類に亡くなった方のお名前を書いていただけますか」
私はひとまず必要な書類に記入してもらうことにした。
亡くなった方の名前、そこに書かれたのは来店しているお客様本人の名前であった。
「ええと、亡くなられた方はご本人様ですか?」
「はい、私です」
「では亡くなったお日にちをこちらにお願いします」
「はい」
そこに書かれたのは三か月後の未来日であった。
ああ、やはり私は引きが悪いようだ。
面倒なことになってしまった。
というのも私は死亡日が未来日となる相続を受けたことがない。経験が無いのだ。
しかし、通常相続と手続き方法は大きく変わらなかったとも記憶している。
そして私はその被相続人(亡くなった人)の取引状況を調べ、必要な書類を伝えることにした。
「……それから、亡くなった方の出生から死亡までの連続した戸籍謄本が必要です。
市役所の人に相続手続きで必要ですとおっしゃって頂ければ出していただけますよ」
「そうなんですね」
「ではまた書類が揃いましたら窓口までお願いします」
「はい、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
私はその老人に必要書類を説明し、帰ってもらうことにした。
これで何とか最初の手続きを取り繕うことができただろう。
さて、次にその老人が来るまでの間に死亡日が未来日となる相続手続きの事務マニュアルでも調べておくか。
支店の後方に大量に鎮座しているクソデカ事務ファイルを一冊手に取り、相続手続きの項を読んでみることにした。
『死亡日が未来日となる場合』
この項であろう。助かる。
やはり通常相続手続きとあまり変わらないようだ。
ただ、私はミスを犯していることに気づいた。
しまった、手続き開始から亡くなる日までは生きていても預貯金が動かせなくなるのか。
あの老人は亡くなるまでまだ三か月あるのだが、本来は亡くなる数週間前あたりから手続きを開始するのが良いらしい。
誤算である。
手続き開始をもう少し遅らせるべきだったであろう。
もうすでにシステム登録してしまった。
書類はダブルチェックしているのだから、あの老人が窓口にいる間に、支店長も記入済書類確認をしていたはずだ。
あいつは一体何を確認したんだ。
まあ、済んだことは仕方ない。
幸いなことに、振込や引落は、システムにより自動で不成立になる。
不成立になった場合、振込人や引落依頼人へは「口座名義人死亡予定の為」という通知も行く。
ただ、あの老人に「もう預貯金を動かすことはできませんからね」と伝え忘れただけである。
それでもクレームになりかねないのだから慎重にならねばならない。
今回は良いお客様に当たって良かった。
ぜひ天国だの極楽だの良いところに行ってもらいたいものである。
その日、十五時を過ぎると、渉外担当者が戻って来たので、あの老人の地区担当者に伝えることにした。
「Mさん、報告です。A町のKさん、三か月後に亡くなるそうですよ。
今日、窓口に未来日付で相続手続きにいらっしゃいましたのでシステム登録しておきました」
「あー、そうなの? 手続きは全部窓口でやるって?」
「あー……すいません。
窓口にお願いしますとは伝えたんですが、もしかしたら来てほしいって言うかもしれないです」
「えー。そういうこともちゃんと聞いといてよ。
でも来いって言ってたら、行くから教えてね。
けど未来日付の相続なんて俺も初めてなんだけど、何が必要なの?」
「調べたんですが、基本的に通常相続と手続きは変わらないみたいです。
被相続人本人が手続きするかどうかくらいの違いですね」
「へー。それなら未来相続の方が遺言相続より楽そうだね」
「そうですね」
確かにそうである。
死亡日が未来日となる相続手続きなら亡くなった人本人が手続きできるのだから、揉め事も少ないのかもしれない。
それが主流になれば楽かもしれない。
特に遺言書の有無は揉める元である。
なんなら自筆遺言書が見つかった場合、家庭裁判所での検認が必要であることはあまり知られていないのではないか。
これが揉める大元なのだ。
もしかするとそういった事情を加味し、遺言書を作るくらいなら、もう生きている間に相続終わらせておくか、となったのかもしれない。
ちなみに、死亡日未定の場合はただの贈与である。
贈与……私は嫌な予感がした。
死亡日に亡くならなかった場合はどうなるんだ?
この相続手続きの利点は死亡日までに相続手続きが完了することだ。
死亡日までには各相続人に財産が分配される。
しかし、もし死亡日に亡くならなかった場合は……
私はあのクソデカ事務ファイルを再び開いた。
ああ、やはり死亡日に亡くならない場合は贈与手続きに変更になるらしい。
ただ、贈与税対象金額以下ならあまり気にしなくていいのだが、あの老人はかなり財産があった。
まあ、かなり財産があるのだから未来日付で相続手続きをしに来たのだろう。
本来であれば死亡日に亡くならない場合、贈与手続きへ変更が必要になりますよと伝えなければならなかったようだ。
またしてもミスである。
もうこうなったら死亡日に亡くなってもらわないといけない。
いや、まあ、次に来店した時に伝えれば良いか。
人の死を願うだなんて人間としてどうかしている。危なかった。
◇
「ではこれで書類は全て頂きました。お疲れさまでした。
本日十五時までに各相続人様に振り込まれますのでよろしくお願いします」
あの老人が来店した。
用意してあった書類は完璧であった。助かる。
無論、伝え忘れていた事項は全て伝え、了承を得ることができた。
一安心である。
「こちらこそ今まで長くありがとうございました。
地区担当のM君にもよろしくお伝えください」
老人はそう言うと深くお辞儀をした。
礼儀正しく気持ちの良い老人である。
こんな素晴らしい方が来月には亡くなる予定だと思うと惜しい話である。
老人は、手続きを終えると店を出て行った。
「ねえ、さっきの人、未来日付の相続でしょ?
未来日付の戸籍謄本初めてだから見せてくれない?」
ふいに隣に座っていた先輩が私に声をかけてきたので、手に持っていた書類を見せてやることにした。
それにしても戸籍謄本はすごい。
未来日付でもしっかり死亡日時と死亡場所が印字されている。
どういうシステムなのだろうと思ったのだが、世の中の頭の良い人たちが考えたのだろう。
すごいものである。
しかし、相続手続きはこれで終わりではない。
死亡日にちゃんと亡くなっていることを確認しなくてはいけないのだ。
◇
老人の死亡日当日。
私はその老人の家に電話を掛け、死亡確認することにした。
「私、○○銀行のYと申しますが、Kさんは……ああ、無事亡くなられたんですね。
ありがとうございました。
はい、いえ、その確認のためのお電話です。
はい……はい、では今後ともよろしくお願いします。では失礼いたします」
こうして私が初めて受け持った死亡日が未来日となる場合の相続手続きは無事完了したのであった。
本日の窓口営業は終了いたしました。またのご来店をお待ちしております。




