コツン
これは、今朝、私がふいにふっと思い出した、ちょっと不思議で切ない本当の話です。
私には大好きな大叔父がいました。
その大好きな大叔父は父の父の年の離れた弟です。
父の父、つまり私の祖父になる人はどうしようもない人だったようです。が、優しい祖母からは一度も祖父の悪口は聞いた事はありません。どうしようもない、と言うのはどうも、祖父は浮気をして好き勝手にして出て行ったようです。
祖母は祖父が出て行った後、小さな子供を三人抱え、苦しい生活をしながらも一人で三人の子供を立派に育て上げました。当時はシングルマザーに対して風当たりも強く、そして補助も何もない時代で、祖母は本当に大変だったと思います。
どうしようもない祖父の話は父や伯母から聞いた話になるのですが、まあ、祖父はもの凄くイケメンでモテた人のようですが、聞いた話を纏めるとちょっとだらしない人だったようです。
祖父が出て行ったのは、父が父の顔を覚えていないような年だったようなので、おそらく父が二歳くらいの頃でしょう。
父は自分の父の話は滅多にしないので、伯母からぽろぽろと聞いた話を繋ぎ合わせた話にはなりますが、おそらく大きく間違ってはないはずです。
父から子供時代の話を聞いた時に「俺は、小学校の時に、俺の家より貧乏な家の奴を知らなかった」と言っていました。
「でも、良い先生がいてなあ。俺んち貧乏で弁当の日は梅干ししかおかずがなかった。それを知った先生が、『腹の調子が悪いから、先生の弁当と交換してくれ』って言ってな。先生の弁当には卵焼きも唐揚げもあったんだ。俺、びっくりして、嬉しくて食べてな。『腹が痛いから、揚げものは今日は食べれないからな。梅干しは腹にいいんだ』って先生は俺のおかずのない弁当を『助かった』と言って嬉しそうに食ってくれたんだ」
ふんふん、と私が聞いていると、小学校一年の時の父が嬉しそうに弁当に目を輝かせているのが目に浮かびました。
「でも、不思議とその先生。弁当の日になると、毎回腹を壊すんだ。で、俺はいっつもおいしい弁当食べれてな。毎回、先生の弁当はすっごく可愛くしてあってな。俺はいつも、喜んで食べてたんだけど、それが二回も三回も続いて、流石に俺は、おふくろに言ったんだ。『かあちゃん、俺の先生、いっつも、弁当の日、腹壊す。俺と弁当交換してくれって言うんだ』って。そうしたら、おふくろに抱きしめられてな。『ごめんね、ごめんね』って。で、次の日、おふくろが先生に書いた手紙を届けてくれって渡されたな」
甘い卵焼きを美味しそうに食べる父を見ながら私は頷きました。
「俺んち、ほんっとう貧乏でな。食べる物も無かったから、先生の弁当は本当、俺は特別だったんだ。おふくろは一生懸命俺と姉ちゃん達を育ててくれたけどなあ。先生は心配だったんだろうなあ。でも、俺が困らないようにいっつも腹が痛いって言ってくれて、良い先生だったよ」
そんな、超が付く程の貧乏生活をしていた父達の事を、大叔父様も心配していたのでしょう。勿論、そんな貧乏生活になってしまったのは自分の兄のせいです。だから兄の事を許せない気持ちもあったかもしれません。まだまだ若い大叔父でしたが、何かと祖母家族を気にしてくれていたと父から聞きました。
「兄ちゃんはいっつも遊んでくれてたな。飴玉とかもくれてな」
父はそんな大叔父の事を「兄ちゃん」と呼んでいて、大叔父はよく我が家にも遊びにきていました。
そうそう、私の名前は母から相談されたその大叔父が付けてくれました。
私が産まれて暫く経つのに、母も父も私の名前を決められずにいたそうです。
「どうしようかなあ。ああ、兄ちゃん所、男ばっかり三人で、女の子の名前も考えていたって言ってたな。女の子、欲しかったって言ってたし。兄ちゃんなら何かいい名前考えてたかもな。ちょっと相談してみるか」
へー。私の名前は大叔父が、と父の話を聞いていると母が「突然、夜九時過ぎに電話初めてね。『兄ちゃん、なんか女の子のいい名前ある?俺、まだ決めてなくて。何かないかな?』とか言うの。で、大叔父さん、『分かった、待ってろ』って。普通に車走らせてもあの当時はまだ大通り出来てなくて。四十分位かかるんじゃなかった?なのに、本当にすぐ名前の案を持って来てくれたのよ」と、笑っていました。
で、母が好きな漢字を大叔父に言い、その漢字を使った名前の候補を母に見せ、「この名前か、この名前かなあ?」と言うと、画数を調べたりして、「これでどうだ」と、一つの名前の前で顔を寄せ合ったそうでした。
「うんうん、じゃあ、これかな」「うん、そうね」「よかった、決まったな」「じゃあ、明日、届を出して来るか」
そうやって私は無事、名前を付けて貰いました。
私の家と大叔父の家の距離は先程話した通り、車で四十分程と近くはなかったのですが、三、四ヵ月に一度は会う関係で、それは私が小学校にあがり、成長し、大人になっても変わりませんでした。
「よ!好きな人でも出来たか?」
「よ!部活は何かするのか?」
「よ!ほら、小遣いやろう。ばばあには内緒にしておけよ!」
「よ!綺麗になったなぁ、お前の結婚式にはちゃんと行くからな!」
と、いつも明るくて、面白くてちょっと調子よくて、でも、いつもそっと支えてくれるような優しい大叔父でした。
私が就職し、忙しくなって頻繁に会わなくなっても「よ!」と突然遊びに来たり、偶に電話をしてきていました。私も、「何してるかな?」「あ、近くまできたから、ちょっと顔を見に行こうかな」と、ふらっと大叔父の家にお菓子を買って遊びにいっていました。そんな風にすごしていたのに、忙しさと、自分の体調の悪さなどが重なり、暫く大叔父と会っていませんでした。
「そう言えば最近会ってないな」
ある日、ふっと、大叔父の事を思い出し、声でも聞くか、と思って電話をするとデカい声で「よ!あー元気だ元気!アハハ!!」と、煩い位の大声で喋られました。
「耳!壊れる!」と私が笑うと「ちょっと、今、忙しくてな!」と言うので、「分かった!もう、!声、大きすぎ!またね!」っと言うと、私は電話を切りました。
でも、それが最期の電話でした。
ある日。
大叔母から父に電話があって、「大叔父が亡くなった」と言われました。
私の家族は皆、びっくりしました。父も、母も誰も、何も知らなかったのです。
急いで大叔父の元へ駆け付けると、そこにはもう、眠った大叔父がいました。
いつも綺麗にしている大叔母は、憔悴していましたが、私達よりも数段落ち着いていました。
「ごめんなさい。入院してからは誰にも知らせるな、って。俺の弱った姿を見せたくない。あいつらには元気な姿を覚えていて欲しいって。本当にごめんなさい」と言われました。
「え?だって、でも、え?電話…」
私の頭の中にはまだ、大叔父の声が残っていました。「またね!」って笑って切った、あの大叔父の声が。
驚く私達を見て、大叔母は小さく頷きました。
「本当は声も、もう、あの人、出なかったの。でも、あなたには、元気な声を覚えて欲しいって、大きな声を頑張って出して…」
そして、もう一度、「ごめんなさいね」と言われました。
もう、私は怒りと悲しみで、わんわん泣きました。
痩せてても、どんな姿でも、喋れなくても、かっこ悪くても何でもいいから会いたかった。
そこからお葬式の時まではあまり覚えていません。
ただ、もう大叔父の冥福を祈らず、手を合わせる時に『なんだよ!かっこつけないでよ!あいたかったよ!バカ!』と罵詈雑言を大叔父に浴びせたのを覚えてます。
どんな姿だって、恰好良かったのに。なんで、どうして。
私は「安らかに」とかそんな言葉は一つも思いつかず、ただただ、「バカバカバカ」と悪口ばかり並べて手を合わせていたんです。
そしたら、その時。
コツンって、私のおでこが突かれました。こう、指で、くいって押される、あの感覚です。
「え?」っと目を開けて周りを見ても私しかいず。不思議に思っていると、もう一度、おでこがゆっくりとくぃっと触られた感触がしました。
「ん~~~~!!!!」
もう、その瞬間涙でぐちゃぐちゃになって、私は自分の席に戻りました。
その、私のおでこを「くぃ」って突く仕草は叔父が私に謝る時によくする仕草だったのです。
「あ、それ私の」「え、もう、食った。ごめんな」
「もっと、可愛く撮ってよ」「被写体はいいのにな。腕が悪いからなぁ、ごめんな」
そういう時にいつも、膨れる私の顔を向かせて、くぃっとおでこを押してました。
『ごめんな』
そう、この時、大叔父から言われた気がしました。
「バカバカバカ」
私はやっぱり、バカバカ言ってました。でも、やっぱり謝られた気がして。
『もー。いいよ、許す』
小さな私がいつも、そう言って、叔父に抱き着いていたみたいに、私はその時、小さな声で「分かった。許す」と呟きました。
『お!ありがとな』
そんな声が聞こえた気がします。だって、私も、好きな人には格好つけたい。少しだけ、大叔父の気持ちは分かるから。
でも…やっぱり会いたかったな。
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