第7話 蝶の記憶
混濁した意識の中で走馬灯を見ていた。
視界の端に、私を映し出すモニターがぼんやりと見えている。
ナイフを刺された血塗れの私だ。
(……最悪な映りだわ。血の気が引いて、せっかくのメイクが台無し)
刺した当人は身勝手な言葉を叫んでいるようだけれど、そんなものは私の耳に届かない。
私はただ、画面の中の自分が最後まで「悲劇のヒロイン」として完璧な角度で倒れているか、それだけを冷ややかに確認していた。
視界にモヤがかかり、時間が遡る。
夜景の見える最高級レストラン。幸せを演じるのが、あんなにも苦痛で、虚しかった夜。
眩いフラッシュの渦。完璧な微笑みを貼り付け、数多の視聴者を熱狂させた恋愛リアリティ番組の最終回。
数百万の称賛と、それと同じ数だけの毒を孕んだ嫉妬。指先一つで誰かの承認欲求を肥大させ、また別の誰かを地獄に突き落とす――そんな「数字」の支配者だった頃。
シャンパンの泡が弾ける音と共に、札束が舞い踊るトップキャバ嬢としての狂宴。
その華やかな裏側にあった、新人の頃の記憶。靴擦れで血の滲んだ高いヒールを引きずり、誰もいない始発の駅のベンチで泣きじゃくった朝。背伸びして大人ぶった、胸が焼けるように苦いだけの初恋。
そして――。
激しい雨の中、泣きながら背中を向けて去っていく母親。
行かないでと叫びながら、小さな裸足でその背中を追いかけた、幼い私の泥だらけの足。
命の灯火が消える土壇場で、そんな惨めな記憶を引っ張り出してしまった自分に、猛烈に腹が立つ。
(……『寂しい』だなんて、焼きが回ったわね)
不意に、見知らぬ中年男に無理やり唇を奪われた。
(……っ!? なに、このオッさん! 誰よ! 離して!)
咄嗟に拒絶の意識が跳ねる。
(ふざけないで。私はね、安売りなんかしないのよ。この唇は私の商品、最高の価値をつけた相手にしか許さない一級品。演出ならいくらでも貸してあげるけど、こんな得体の知れない脂ぎったオッさんに、勝手に弄ばれてたまるもんですか!)
私は金で唇を売ったことなんて一度もない。仕事として、番組の演出でキスをしたことはあるけれど……この感覚はあまりに無作法だ。それに、この口臭。最悪だわ。加齢臭と、下水……そう、ドブ。
(ドブ……? みたいな臭い……)
「……っ、不味い!!」
☆★☆★☆★
強烈な拒絶反応と共に、私は跳ねるように目を覚ました。
口の中に広がるのは、泥を混ぜた鉄錆のような、喉が焼けるほどえぐみの強い不快な味。
『……ケッ、ようやく起きたか。あまりに死にそうだったからな、俺様のマナを直接流し込んでやったんだ。感謝しろよ、聖女様』
影の中からマナモンが嘲笑うような声を出す。私はシーツを掴み、胃からせり上がる吐き気と必死に格闘した。
「まっず……! 何これ!? 人の口に、よりによって何を……っ」
『お前、気づいてねえのか? これがお前のマナの本来の味――「虚飾」と「嘘」のフレーバーだよ。お前という人間の根っこから絞り出したんだ、これ以上の特効薬はねえだろ?』
マナモンの嫌味を無視して、私は駆け寄ってきたアンナの肩を掴んだ。
「……アンナ……あのクロワッサンは?」
「……お届けしました。ですがガウェイン様、一口食べた瞬間、顔を真っ青にされて……『私は、何も分かっていなかった』と呟かれたきり、静養のために王都を離れて実家に引きこもってしまわれました」
アンナは泣きそうな顔で続ける。
「私、あんなに絶望したガウェイン様の顔、初めて見ました……! ラブリンコ様、一体どんな魔法をパンにかけられたのですか!?」
(……実家へ逃亡? 騎士団長ともあろうお方が、たかがパン一個でそこまでダメージ受けるなんて、計算外だわ)
すぐにでも追いかけたいが、今の私の足腰は笑っている。私は影に向かって毒づいた。
「アンナ、私のこの貧弱なマナを……物理的に補完できる方法はないの? 賢者様が言ってた『聖女の力』なんて、私にはこれっぽっちも無いんだから」
「……宝物庫に歴代の聖女様が使われた儀式用の魔道具がございますが。ただ……」
『無駄だ。そんな清純な「純愛」の塊、今の不味いお前にぶち込んだら中から爆発して四散するぜ。混ざりっこねえんだよ』
マナモンが冷たく遮る。
『だが、一つだけお似合いのがある。かつてある娼婦が身につけ、触れる男たちの理性を狂わせ、最後は全員心中させたという呪物――「愛なき指輪」だ。お前のその泥みてえなマナには、一番馴染むはずだぜ』
「……呪いの指輪、ね。いいじゃない、プロにふさわしい装備だわ」
私は王の許可を半ば強引に取り付け、厳重な封印が施された「呪物保管庫」へと乗り込んだ。
埃と澱んだ邪気に満ちた、光の届かない地下室。重い鉄の棚をどれだけひっくり返しても、目当ての品は見当たらない。
「無いのだけれど。あんた、適当なこと言ったんじゃないでしょうね?」
『……おかしいな。国の管理簿には載ってたはずだが……。おい、お前、その辺を動くな。お前のマナの臭いが強すぎて、指輪の残滓が掻き消される』
「失礼ね。これでも前世じゃ、香水の調合一つで客を酔わせたのよ」
『そりゃ「欲」の臭いだろ。ここは聖域の隣なんだよ、お前の毒気が強すぎてレーダーが狂うんだ』
マナモンが苛立ったように影を伸ばし、部屋の隅々まで探るが、やはり反応はない。
『……チッ、ここにはねえ。どうやら「愛を信じない娼婦」の形見だ、お上品な箱の中に収まるガラじゃなかったらしい。城下町の闇のどこかに流れてやがるな』
「……結局、足を使えってことね。プロの営業と同じじゃない」
私は、扉を蹴るようにして保管庫を後にした。城にないのなら、私の馴染みの戦場へ向かうまでだ。
☆★☆★☆★
私はメルローの執務室へ向かい、鏡の前で頬を軽く叩いて、一瞬で「慈愛の聖女」の顔を作った。
「メルローさまー! 民の暮らしをこの目で拝見し、皆の祈りをお聞きしたいのです。城下町への外出の許可をくださいませー!」
潤んだ瞳と、完璧な角度の微笑み。これ、前世で「今日はお店お休みして二人でどこか行かない?」って太客を釣る時に使った、必勝の表情管理よ。
「おお、おお……! なんという……なんという至高の慈愛! 三日間の高熱から覚めてなお、民のことを思われるとは……! さすがは我が国の希望、女神の写し身ですぞ!」
賢者は案の定、眼鏡を曇らせて感動に震えながら陥落した。
「よろしい! このメルロー、老骨に鞭打ち、命に代えてもお供いたしましょう! さあ、聖女様、聖なる視察の始まりですぞ!」
(……最悪。余計な護衛が付いてきちゃったじゃない)
『……ケッ、見てらんねえな』
影の中から、マナモンの呆れ果てた声が脳内に響く。
『おい、ラブリンコ。一応教えてやるが、そのメルローって爺さんはな、この世界でも指折りの大賢者だ。過去数百年の歴史を見ても類をみない魔導の天才で、真理の探究に一生を捧げてきた、いわばこの国の知性の象徴なんだぜ?』
(……あら、そうなの? どこからどう見ても、私の営業スマイルに鼻の下伸ばしてるだけの、ただのおじいちゃんにしか見えないけれど。チョロすぎじゃない?)
『そこだよ。その「類をみない天才」が、お前のその、安物のガラス細工みたいな見え透いた嘘にあっさり絆されてやがる。お前の詐欺師としての腕が異常なのか……それとも、この国の「愛を疑わない」って空気が、知性すら腐らせるほど気色悪い毒なのか……。見てるだけで胃の腑がひっくり返りそうだぜ』
(失礼ね。安物じゃなくて、最高級のブランド戦略よ。賢者様が純粋であればあるほど、私の「嘘」という不純物が綺麗に馴染む。これ、基本中の基本でしょ?)
『ハイハイ、お上手だこって。……だがよ、あんな知性の塊を数秒でメロメロにさせるお前の「虚飾」、やっぱりこの国からすりゃ最悪の猛毒だぜ。さあ、その猛毒を撒き散らしに、お上品な視察へ出かけようじゃねえか』
賑やかな表通りに出たところで、私はこの「世界的な知性の象徴」を撒くチャンスを伺った。だが、敏捷性「3」の私の足では、熟練の賢者の目をごまかすのは至難の業だ。
「マナモン、力を貸して。今のままじゃ一生この老人の後ろを歩く羽目になるわ」
『……チッ、注文の多い女だ。少し待ってろ、外から「燃料」を拾い上げてきてやる』
そう言うと、マナモンは私の影から離れ、石畳の隙間に溶け込むように地下へと潜っていった。
(……どこへ行ったの? 地下なんて、下水かネズミくらいしかいないんじゃない?)
数十秒後、足元の地面がわずかに震えた。戻ってきたマナモンは、ねっとりと黒光りする禍々しい姿に変質していた。
『……取れたてだ。さあ、受け取れ』
再びあの不快な感触が、直接私の唇を塞いだ。
「……んっ、……ん、ふぅ……っ!!」
強烈な「ドブ」の臭いが鼻に抜ける。
「……っ、っはぁ! ……やっぱり、最高に不味い……! ねえ、地下の何!? これ、一体どこから持ってきたのよ!」
『言ったろ、聞かない方がいい。お前の「嘘」と波長が合うマナなんて、この世界の掃き溜めにしか転がってねえんだからな。……ほら、効果は五分だ。さっさと行け』
全身の血管を黒い炎が駆け巡る。私はメルローがほんの一瞬目を離した隙を見逃さなかった。
「聖女様、あの噴水の由来は……おや? 聖女様!?」
ドレスを翻し、一陣の風のように、私は人混みの中へと「消えた」。黒いマナの供給によって、一時的に全盛期の身のこなしを再現させる。
目的地は、城下町の最果て。
愛を売り、嘘を買い取り、絶望を金に変える場所。
聖女の光など決して届かない、夜の蝶たちの墓場――「娼館」だ。
「……ふふ、待ってなさい。指輪も、逃げ出した騎士様も。まとめて私が、極上の夜へとプロデュースしてあげるわ」
聖女の皮を剥ぎ捨て、プロの眼光を宿した一人の女が、ついにその本性を街の闇へと解き放った。




