第9話 夜の月亭
城下町の最果て。ひときわ重厚な黒檀の扉を構えるのが、この街で最も古い歴史を持つ娼館「夜の月亭」だ。
「……ここね。趣味は悪くないわ」
私がその門を叩こうとした瞬間、扉が内側から静かに開いた。
「あら……珍しいお客さまね」
出てきたのは、派手な刺繍の絹を纏った女性だった。推定年齢は四十代半ば。だが、年月は彼女の美しさを削るのではなく、極上のヴィンテージワインのように深みを与えている。鋭い眼光は、数えきれないほどの男の嘘を見抜いてきた証だろう。
彼女は私を一目見ると、品定めするように目を細めた。
「……迷い込んだお嬢ちゃんにしては、いい面構えをしてるわ。……入りなさい。表で話す内容でもないでしょう」
促されるまま、私は「夜の月亭」の奥へと足を踏み入れた。
廊下には、外の喧騒を遮断するような厚手の絨毯が敷かれ、歩くたびに微かな沈丁花の香りが鼻をくすぐる。
途中、次の仕事へ向かう途中の女の子たちと数人すれ違った。
彼女たちは、純白の聖衣に近いドレスを着崩し、気怠げに、けれどどこか計算された足取りで歩いている。私と視線が合うと、ある子は「場違いな客ね」と冷ややかに鼻を鳴らし、またある子は、私の美貌を値踏みするように上から下まで眺めて、小さく舌打ちをした。
(……いいわね。あの、男を「財布」か「生ゴミ」としてしか見ていない、冷え切った営業用の目。この国の純粋すぎる愛の毒に、彼女たちだけが抗体を持っている証拠よ)
一人の若い子が、廊下の鏡で乱れた髪を整えながら、私に向かって低く囁いた。
「お姉さん、悪いことは言わないから帰りなよ。ここは、あんたみたいに綺麗で『光ってる』人が来る場所じゃない。……ここは、光に焼かれた奴らが、泥の中で息を継ぎに来る場所なんだから」
私は答えず、ただ完璧な口角の上げ方で微笑み返した。その反応が意外だったのか、彼女は毒気を抜かれたように目を丸くし、そのまま香水の香りを残して去っていった。
辿り着いた奥の執務室。室内は最高級の香木の香りと、魔石を使った淡い紅色の灯りに包まれている。
「私はベアトリーチェ。この『夜の月亭』を預かっているわ。……それで? こんな場所に、身なりのいいお嬢さんが何の用かしら」
女将は椅子に深く腰掛け、長い煙管に火をつけた。
「この国の夜が、あまりに味気なかったからよ。愛を謳う国だっていうのに、男たちの『魂の渇き』を癒やす場所がどこにもない。……ここには、それがあるの?」
私の言葉を聞き、ベアトリーチェは動きを止めた。そして、堪えきれないといった様子で、突然声を上げて笑い出した。
「あはは! 魂の渇き、リスペクト!? 聖女様ともあろうお方が、娼婦にそんな言葉を投げかけるなんて!」
彼女は目尻に浮かんだ涙を指先で拭い、射抜くような視線を私に投げた。
「隠しても無駄よ。私にはわかるの……その、男の魂を根こそぎ奪い去りながら、決して自分を安売りしない傲慢な瞳。慈悲の奥に潜む、冷徹なまでのプロ意識。貴女、今代の『愛の聖女』ラブリンコ様でしょう? 一体何の冗談で、こんな場所まで足を運んだのかしら」
しまった、と思った。同業者としての共感が先行して、踏み込みすぎた。
「……さて。聖女がこんな場所に一人で来ると思う?」
私は、剥がれかけた仮面をあえて自分から剥ぎ、前世のトップキャバ嬢としての「夜の支配者」の眼差しで彼女を見返した。その瞬間、部屋の空気が張り詰め、同時に、言葉を超えたプロ同士のシンパシーが奔った。
「ふん……やはりそうね。その目、かつて王都の夜を独占した私でも、ゾクッとするわ」
ベアトリーチェは自嘲気味に笑い、再び煙管をくゆらせた。
「いい? 確かに私たちは肌を売る。でもね、アガペ王国の連中に言わせれば、ここはただの『不潔な欲望の処理場』よ。三十歳までに愛を見つけられなかった『残り物』が、マナが砂になるのを防ぐために駆け込む、公衆便所同然の場所。あの高潔な聖教会の連中ときたら、自分たちの純潔を証明するために、わざわざ私たちを『最低の汚れ役』として存続させているの。愛を信じない者、愛を金で売る汚らわしい女……そう定義することで、自分たちの神聖さを保っているのよ」
影の中から、マナモンがヒソヒソと囁きかける。
『……おい、聞いたか? この世界の「娼館」ってのは、歴史的には魔王の軍勢に対抗するためのマナ供給源だった時期もあるんだぜ。男たちの本能から出る濁ったマナを、女たちが吸い取って浄化する「防波堤」だったのさ。それを今の人間どもは、都合よく忘れて差別してやがる』
(防波堤、ね……。プロの仕事が正当に評価されないのは、どの世界も同じか)
「でもね」と、ベアトリーチェが続けた。
「ここに来る男たちの半分は、抱くことより『受け入れられること』を求めているわ。アガペという名の、完璧すぎる無償の愛に疲れ果てた男たちが、自分の弱さや汚れを、金という対価を払ってまで曝け出しに来る。……それを受け止めるのが私たちの誇り。聖女の祈りでは救えない泥を、私たちは飲み込むのよ」
彼女の言葉は、私の心の奥底に刺さった。
それはキャバクラでも同じだった。
(……そうよね。あそこには、いろんな客がいたわ)
説教臭い業界人、指先一つ触れるだけでニチャアと笑うキモ客。
(……思い出しただけで吐き気がするわ)
でも、それだけじゃなかった。
大きな商談に失敗して、震える手でグラスを持っていた若手起業家。完璧な夫を演じることに疲れ、ほんの三十分だけ、「今回だけ……今回だけは、自分を捨てて楽になりたい」と誰にも言えない弱音を吐いて子供のように泣いていったエリートサラリーマン。
彼らは、嘘でもいいから「ありのままの自分」を肯定してくれる場所を求めて、必死な顔で札束を積んだのだ。
「……やっぱり素敵じゃない。アガペ(純愛)なんて甘いお菓子ばかりじゃ、胸焼けするわ。中には、あんたたちのところでしか息ができない男もいたはずよ」
私は、ベアトリーチェの目をまっすぐ見据えた。
「あんたたちの仕事、私は本気でリスペクトしているわ。……だからこそ、協力してほしいの。この、退屈で残酷な『愛の国』の夜を、少しだけ面白くするためにね」




