第九話 ─微かな桜の兆し─
朝の病院は、まだ人影もまばらで静かだった。59才の姿の福田朋広は、ベッドの縁に腰を下ろし、昨日の事故の痛みをゆっくり確かめる。身体は完全ではないが、自然に手を伸ばし、隣に置かれたスマホと原付の鍵に触れた。
(……なんや、昨日よりだいぶマシやな)
天然な呟きが、病室の空気に溶ける。
窓の外では、雨上がりの光が街路樹の葉を濡らしてきらめかせる。小鳥がさえずり、遠くに通勤の足音が混ざる。街は静かだが、どこか不穏な期待を孕んでいるようでもあった。
その時、扉が静かに開いた。
「おはようどす、福田はん」
京都弁で声をかけてきたのは、昨日も来ていた高瀬みのり。顔に少し疲れはあるが、明るさは変わらない。
「おお、みのりちゃん、また来てくれたんか」
「そら心配ですえ。まだ病室におる思てましたんや」
やり取りの間、みのりは無意識にスマホを手に取り、何気ない仕草で画面を覗く。
「……ん? なんや、この通知……?」
朋広がスマホを見ると、そこには小さな吹き出しが光る。内容は短く、意味は不明だが、まるで自分に話しかけているような不思議な感覚を覚える。
(……なんや、最近のアプリって便利なんやな……)
その時、扉の隅から控えめな声がした。
「……お、お願い、してもええですか?」
胸元の名札に「桐生さくら」とある少女が立っていた。昨日より少し緊張は和らいでいるが、それでも控えめに手を差し出す。
「……これ、受け取ってください」
さくらが差し出したのは、スマホの小さな桜の装飾。光は弱く、朋広にはぼんやりの光としてしか映らない。
「おお、ありがとうなぁ……」
「い、いえ……お返し、だけで……」
微かな光が手元で揺れ、桜模様の羽織と袴を想起させるように、読者には兆しとして見える。
病室にもう一人、そっと姿を現したのは白鳥つむぎ。20才の声優志望の少女で、ヘッドホンを首から下げている。
「福田さん……大丈夫でしたか?」
その瞳に宿る好意は、まだ微弱だが、後のパワー蓄積に関わる小さな種子のようなもの。
朋広は、59才の姿でゆっくりと笑った。
「おお、みんな気ぃ使わせてすまんな……でも、こうして顔見れるだけでええわ」
病室の窓の外、微かな桜模様の光が風に揺れる。原付もスマホも、まだ力の残滓を感じさせる。主人公には意識できない、ほんのぼんやりとした光。しかし、読者には、これから蓄積されていくパワーの前兆として伝わる。




