四十四話 ──囁く桜の約束
夜が更けても、伏見区の団地周辺は静かやった。雨の匂いがまだ道に残り、風にのって夜桜の香りが微かに漂う。福田朋広は、団地のベランダに立ち、夜空を見上げた。手足は動かしにくいけれど、心は不思議と軽かった。
「今日は…なんやかんや、ええ夜やなぁ」
口に出して笑った瞬間、スマホが淡く光る。朋広は気づかず手に取った。画面に映るぼんやり桜色が、まるで誰かが囁きかけるように揺れていた。
その時、団地の下の路地からかすかな足音。目を凝らすと、四十三話ですれ違ったあの少女が、夜桜の下で立ち止まっているのが見えた。距離は離れとるけど、確かに視線がこちらに向いていた。
「…ほう、また会うたんかいな」
朋広はつぶやく。しかし、声をかける勇気は出せず、そのままベランダから眺めるだけ。
少女は小さく、頷くような仕草をして、夜風に揺れる桜を見上げた。その姿に、朋広の心は微かに温かくなる。知らず知らず、善意の気持ちが胸に積もっていくのを感じた。
原付の上も、スマホも、相変わらず桜色に光を帯びていた。ほんのわずかやけど、力が蓄積されとる証拠や。本人はまだその意味を知らんが、世界は少しずつ変わり始めとる。
遠くで、監視者の視線が読者だけにちらりと匂わされる。誰も気づかんが、夜の桜が二人の距離と心の橋を、静かに繋ごうとしていた。
「約束や…いつか、ちゃんと気づく日が来るやろ」
朋広はそっと呟く。桜の光が、風に揺れながらそれに応えるように、夜の街を淡く染め上げた。




