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二百五十九話ー 団地の夜と小さな偶然
向島の団地十階。夜の静寂が廊下を包み、蛍光灯の弱い光が床に長い影を落としている。福田朋広は自室を出て、廊下をゆっくり歩く。冷たい空気の中、微かに漂う桜の光が目に映った。
階下の共用スペースで、白妙こはくが何かを探している。朋広が自然に声をかけると、短時間20才姿が発動し、手足が滑らかに動き、こはくの手元を支える。
「おっと、落とすところやったな」
こはくは一瞬目を見開き、ほっとした笑みを浮かべる。淡く舞う桜模様の光が廊下に溶け込み、静寂を優しく照らす。理由は語られず、光だけが揺れる。読者だけが装具の反応だと察知できる。
「ありがとう…」
こはくが小声で返事をし、物を抱えて去る。朋広は自然に「また原稿に戻ろか」と呟き、自室へ戻る。
廊下の奥で別の女性がちらりと影から見守る。そのわずかな視線の揺らぎで桜の光が少し増す。夜の団地は、善意の連鎖と桜模様の光に包まれ、物語の歯車がひそやかに回り続けていた。




