二百四十四話ー 団地の夜と小さな手助け
伏見区向島の十階建て団地。夜の静けさが廊下を包む中、福田朋広は自室からゆっくりと歩き出した。手足は鈍いままだが、心地よい疲労と夜風に混ざる桜の香りが、微かに背中を押してくれるようだった。
廊下の隅で、白鳥つむぎが郵便物を落としそうになった瞬間、朋広は自然に体が反応する。短時間20才姿が発動し、手足は滑らかに動き、つむぎの荷物をすっと支えることができた。
「おっと、危なかったな」
つむぎは一瞬目を見開き、すぐに照れくさそうに微笑む。桜模様の光が手元から舞い上がり、天井の蛍光灯に淡く反射する。周囲の住人は気づかない。理由を説明する者もいない。だが読者だけが、この光が装具の反応であることを察知できる。
「ありがとう…」
つむぎは小さな声でお礼を言い、荷物を抱えて足早に去る。朋広は軽く手を振るだけで、自分の部屋に戻る。その動きは自然で、何の意図もなく、ただ善意の行動としての体の反応だった。
階下の廊下の隅で、別の女性がちらりと視線を送る。そのわずかな揺らぎに、桜の光は少し増す。誰も理由を語らず、ただ静かに光が揺れている。夜の団地は、善意の連鎖と桜模様の舞いに包まれ、物語の小さな歯車が確かに回り始めていた。




