百九十六話 — 喫茶《月待庵》、揺れる灯りの中で —
夜の《月待庵》。
昼間とはまるで別の顔を見せる、静かな大人の雰囲気。
朋広が扉をくぐった瞬間、
店内の淡い照明がゆっくり揺れる。
風は吹いていない。
誰もその原因に触れない。
*
カウンターでは 天音ルカ がグラスを磨いていた。
その胸元のタイバー。
装具としての光を宿した金属が、
朋広の姿を捉える瞬間だけ
ほんの僅かに深みを増す。
ルカは気づかぬふりのまま、
低く落ち着いた声で挨拶する。
「今日も、来たんやね」
「ええ、ちょっと書きに」
ただそれだけの会話。
だが、ルカの手元は一度止まり、すぐ動く。
止まった理由の説明はない。
*
奥の席には 響木しずく がいた。
アンクレットに小さな光が宿る。
足首を組み替えた拍子に、
その光はわずかに波紋のように広がる。
彼女は目をそらし、
すぐに手元のメニューへ戻る。
反応の理由は語られない。
*
店の隅、
常連席に座る一人の女性。
和服の端正な姿。
帯飾りが静かに揺れる—— 伏見美琴。
揺れは必ずしも歩いたり動いたりしたせいではない。
ただ、朋広が視界に入った瞬間、
飾りは微かに色を変える。
それを見たのは読者だけ。
朋広自身は、
注文したほうじ茶の香りに意識を向けている。
「落ち着くなあ、ここは」
そう呟いたとき、
三人の装具が同時に——
しかし誰にも悟られない程度に——
揺れた。
*
そしてもうひとつ。
カウンターの最奥、薄闇の席に
影のように静かに座る人物がいる。
桜か、冥か、それとも一般適合者か。
性別すら定かでない。
ただ、その影の胸元に
光の線が細く瞬いたように見えた。
朋広の筆が紙を走るリズムに合わせて。
その意味は、
まだ物語の中では誰一人知らない。




