中編
辺境伯領にも遅い春が訪れた。
冬の間地面を覆っていた雪も消え、やっと他の地方との行き来が可能になった頃、公爵令嬢のヘルミーネがルシールを訪ねてきた。王立学園でルシールを虐めていたという女だ。
とてもルシールだけで会わせることはできない。しかし、父と母は領地の視察。兄は辺境伯代理として執務中。義姉は子育てに忙しい。そして、ルシールを連れてきた姉は婚約者と仲良くデートに出かけて不在だ。あんな姉にも婚約者がいるのに、なぜ俺にはいないんだ? 神を恨みそうになる。
「俺が同席する」
「エーリック様のお手を煩わせるわけにはいきません」
「使用人の安全を確保するのも俺たちの仕事だから」
遠慮するルシールを押し切り、ヘルミーネ嬢が待つ応接室へと向かった。
「ルシールさん、お久しぶりね。元気そうで良かったわ」
ソファに座り優雅に紅茶を飲んでいたヘルミーネがにこやかに挨拶した。悪意はなさそうだが、油断は禁物だ。ルシールはヘルミーネの対面に、俺は横の一人掛けソファに座った。
「ヘルミーネ様もお元気そうで安心しました」
ルシールも普通に挨拶している。わだかまりはないのだろうか?
「俺は辺境伯の次男、エーリックだ」
威圧感を出すために少し低い声で名乗る。辺境伯の名を出せば、公爵令嬢でも無体はできないだろう。
「エーリック卿、初めまして。わたくしはトーネマール伯爵の妻、ヘルミーネです。よろしくお願いします」
「えっ?」
思わず声が出た。シメオン殿下の婚約者じゃなかったのか?
「け、結婚されたのですか?」
ルシールもかなり動揺している。
「ルシールさんが魅了の力を持っているときにでも、アンドレス殿下とその取り巻き以外の男子はあなたに近づかなかったでしょう?」
「それは、アンドレス殿下が牽制していたから」
「だからルシールさんの魅了って、理性で抑え込めるほどのものだったのよ。それなのに、アンドレス殿下は抗わなかった。だから陛下は王太子をシメオン殿下に替えたの。でも、シメオン殿下はもっと酷かったわね。魅了されてもいないのに、王宮まであの女を連れてくるなんて」
「そうですね」
ルシールは首を傾げながら同意している。ヘルミーネの結婚についての話ではなかったのかと、俺も疑問に思った。
「陛下は第三王子のシークムンド殿下を含めて、王太子を選び直すお考えよ。ただ、シークムンド殿下はまだ幼いので、五年ほどは殿下たちの資質を見極めたいとおっしゃったわ。そして、わたくしに婚約をどうするか選ばせてくださった。わたくしは迷わず婚約解消を選択したの」
「私のせいですよね。本当に申し訳ありません。あんな状態になったときに領地へ帰るべきでした。そうしたら、ヘルミーネ様も私も幸せになれたのに。学園へ入学するためにかなりの金額をかけてもらったから、辞める勇気が出ませんでした」
ルシールは泣きそうになりながら謝っている。ヘルミーナは今更ルシールを責めに来たのか? それなら追い出してやると立ち上がろうとした。
「違うの! ルシールさんは悪くない。すべて化け猫みたいな精霊のせいよ。わたくしはルシールさんに謝りたくてここに来たの。わたくしの方こそ、本当に申し訳なかったわ。あの頃は王妃になる以外の生き方を選べないと思い詰めていたの」
気の強そうなこの女が本気で謝りに来たのか?
「ヘルミーネ様も悪くないです。悪いのはあの化け猫ですよね」
首を横に振りならルシールがそう言うと、ヘルミーネが微笑んだ。本当に悪意はなさそうだ。俺は上げかけた腰を下ろす。
「わたくしの夫は子爵家の三男で、十二歳上なのに生活能力が皆無のような人なの。それで今まで独身だった」
嬉しそうに微笑んでいたルシールが再び憂い顔に変わる。未来の王妃になるはずだった公爵令嬢が、そんな余りものみたいな男に嫁がなければならなかったなんて、俺でも同情してしまう。
「夫はわたくしの数学の家庭教師だったの。とても頭が良いのよ。疑問は何でも答えてくれた。そして、わたくしの初恋の人でもあるの」
「あ、あの、もしかしてヘルミーネ様が望まれての結婚なのですか?」
ルシールはどんな顔をしたらいいのか迷っているようで、百面相みたいになっている。
「ええ、そうよ。最初は父に反対されたのですが、陛下に執り成していただきました。それから、父に余っていた伯爵位をねだったら、陛下が慰謝料代わりだと領地をくだだったのです。ですので、わたくしは今伯爵夫人なの」
ヘルミーネは嬉しそうの頬を染めている。強がりとかではなく、本当に幸せそうだ。
「お幸せなのですね」
「わたくしはとても幸せよ。夫はこの地まで一緒に来てくれたの。本当に優しい人なのよ。ルシールさん、学園ではあなたを傷つけてばかりで本当にごめんなさい。許してほしいなんて願えないけれど、あなたの幸せを心から祈っているわ。それでは夫を馬車で待たせているので、これで失礼いたします。ルシールさん、それにエーリック卿、ごきげんよう」
俺たちが立ち上がるのも待たず、まるで嵐のようにヘルミーネは去っていった。俺たちは茫然と彼女を見送った。
「ヘルミーネ嬢、詫びに来たのか、惚気に来たのかわからなかったな」
「本当に。幸せそうでしたものね。あの、エーリック様」
ルシールがソファから立ち上がり俺の方へ一歩踏み出した。俺も立ち上がるとかなり近い距離になったが、彼女はもう俺を恐れるような素振りは見せなかった。
「同席していただいてありがとうござまいす。本当はヘルミーネ様がちょっと怖かったので、心強かったです」
「こ、これくらい何でもない。ほら、俺が風邪をひいたときに世話になったし。困ったことがあったらいつでも言ってくれ。俺って強いし、そこそこ頼りになると思うんだ」
「エーリック様、ありがとうございます」
ちょっとしどろもどろになったけど、ルシールが嬉しそうに微笑んでくれたからいいかな。
そんなことがあった数日後、ルシールを母付けの侍女にするという話が持ち上がった。
母はとても厳しいので、行儀見習いとしてやってきた若い娘たちは皆逃げ出していた。今は古参の侍女しか残っていない。
俺はせめて姉の侍女にしてはどうかと言ってみたが、俺の意見が通るはずもなく、ルシールは母のところで侍女として働きだした。
辛い思いをしているのではないかと心配したが、ルシールは母に気に入られたらしく、元気に働いている。母も最近機嫌が良い。
まあ、平和で良かった。