表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ANGST  作者: SON Novels
1/2

ANGST

風が死んだ木々を揺らし、枯葉が地面を擦るような音が聞こえる。今夜は特別に月が明るい。いつもならこの光景に心が和むはずだが、今の私には恐怖しか与えない。

私の名前は高橋誠一。42歳、大学で物理学を教えている。いや、教えていた、と言うべきだろうか。今の私には、過去も未来も曖昧になっている。ただ確かなのは、3ヶ月前に私が発見してしまった「あの現象」が、私の人生を根底から覆したということだ。

そして今、私は走っている。何から逃げているのか、どこへ向かっているのか、もはや分からない。ただ本能的に、止まってはいけないと感じている。


すべては去年の冬、私の研究室に新しい装置が導入されたときから始まった。

「高橋先生、この測定器で何を研究されるんですか?」助手の中村が興味深そうに尋ねた。

「亜原子粒子の測定さ。特に、従来の理論では説明できない特定の現象に焦点を当てる予定だ」

彼は頷いたが、その表情には困惑が見えた。無理もない。私自身、その時点では自分が何を見つけることになるのか想像さえできなかった。

最初の異変は、実験開始から3週間後に気づいた。測定データに微細な歪みが現れたのだ。通常なら測定誤差として片付けるレベルだったが、その歪みが一定のパターンを示していることに私は気づいた。

「中村君、このデータの周期性に気づいたか?」

「はい、でも誤差の範囲内ではないでしょうか」

「いや、これは何かを示している。この歪みは...まるで何かが私たちに語りかけているようだ」

中村は苦笑いを浮かべた。彼にとっては、狂気の沙汰に思えただろう。私自身も、その時は半分冗談のつもりだった。

だが、実験を重ねるにつれ、その「歪み」はより鮮明になっていった。そして、ある夜遅くまで研究室に残り、データを分析していたとき、私は気づいた。

この歪みは単なるノイズではない。情報だ。

さらに恐ろしいことに、それは私たちが知っている物理法則の枠を超えた何かから発せられているように思えた。量子の世界と私たちの現実の間の「膜」が薄くなっている場所から漏れ出した情報。

その夜、私は寝ることができなかった。頭の中で様々な可能性が交錯していた。科学的な大発見になるかもしれない。ノーベル賞級の発見かもしれない。

しかし、それ以上に強い、底知れぬ恐怖感があった。私たちの理解を超えた何かに、私は触れてしまったのではないか。

翌朝、私は決断した。この現象を徹底的に調査しよう。そして、その日から私の悪夢が始まった。


「先生、本当にこれ以上進めるべきですか?」

実験から2ヶ月が経過した頃、中村の声には明らかな不安が混じっていた。彼の顔色は悪く、目の下には大きなクマができていた。私自身も似たような状態だったに違いない。

「なぜだめだと思う?」

「この1週間、僕は同じ夢を見続けています。真っ暗な空間で、何かが...何かが私を見つめている。そして囁くんです...『続けるな』と」

私は彼の肩に手を置いた。「疲れているんだよ。少し休暇を取ったらどうだ?」

中村は首を振った。「先生は感じませんか?私たちが、触れてはいけないものに触れようとしているような...」

私も感じていた。毎晩の悪夢。目を閉じると見える、理解できない幾何学的図形。そして、誰かが—いや、何かが—常に私を監視しているという感覚。

だが、科学者としての好奇心が、恐怖を上回っていた。

「中村君、科学の進歩は時に恐怖を伴うものだ。ガリレオ、アインシュタイン、彼らも未知の領域に足を踏み入れたときは恐れたはずだ」

「でも先生、これは違います。これは...自然ではない」

彼の言葉に、一瞬たじろいだ。しかし、私は研究を続けることを選んだ。それが、私の人生最大の過ちだった。


3ヶ月目に入った頃、私たちは重大な発見をした。その「歪み」、その「情報」は、単なる物理現象ではなかった。それは、意識的なものだった。

私たちの実験は、何かを「呼び覚ます」きっかけとなっていた。

「中村君、この数値を見てくれ。これは明らかに応答だ。私たちの実験に対する反応なんだ」

彼の顔から血の気が引いた。「先生...これは止めるべきです」

「なぜだ?これは人類史上最大の発見になるかもしれない。異次元からのコミュニケーション...」

「先生!」彼の声は震えていた。「昨夜、僕の部屋に何かが来ました。暗闇の中で、それは形を持たず、ただそこに...存在していました。そして囁いたんです。『門を開けるな』と」

私は彼を落ち着かせようとしたが、中村は翌日から姿を現さなくなった。電話にも出ない。彼の住所を調べ、アパートを訪ねたが、ドアは固く閉ざされていた。管理人に開けてもらうと、部屋は空っぽだった。まるで誰も住んでいなかったかのように。

恐怖が私を包み込んだ。だが、それ以上に強いのは好奇心だった。中村がいなくても、私は研究を続けた。

そして、ついに「それ」と直接コミュニケーションを取る方法を発見した。


研究室の電気はすべて消し、実験装置だけが青白い光を放っていた。深夜3時、私は最後の調整を終えた。

「これで...会話ができるはずだ」

そう呟き、スイッチを入れる。機械は低いハミング音を発し、データが画面に流れ始めた。

最初は何も起こらなかった。ただ、いつもの「歪み」がより鮮明に現れるだけだった。

30分...1時間...2時間が経過。

私は諦めかけていた。そのとき—

「̵̡̧̛̛̪̪̗̯̫̩̝̦̗̠̖̮̑̓̑̏͆̋͊̑̀̈̚͝ͅあ̸̨̡̧̦̩̘̥̙̪̯̝̍̂̓̓͒͛͂͊͝͝な̵̜̿͑̎̈͐́̓̀̆͐̕た̸̛̛̬̫͚̬̭̤͓̥̟̤̐̾̈́̂̄̿̃͑̓̀̎͜͠は̷̹̙͉͔͈̟͔̰͓̥̫̣̣̼̀̍͗̒͗̀̈́͊̿̎̌̽̚͜私̴̡̳̖̱̦͔̞̖̙̜̜̗̤̫̮̈́̐̀̐̂̓̄͂̕を̴̲̾̌̇̏͊̅͗͗̆͠呼̷̡̻̺̻̜͙̭̻͚̲͓̪͖͌̉ん̶̧̡̫̹̱̜̞̥̞̻̱͐͋͒̈̍̈́̒͆̀̚̕͝だ̴̪̉̈́̏̆̿̐̈́͋̊̆͘」

文字とも記号とも言えない何かが、画面に現れた。しかし、私はそれが何を意味するのか、完璧に理解できた。

「あなたは私を呼んだ」

私の手は震えていたが、キーボードを叩いた。

「あなたは何者ですか?」

応答は即座に返ってきた。

「̴̨̡̠͍̹̭̼̺̗̟̖̳͉̈́̅̏̂͑̊̂͗̾̿̏̆̈͘͝私̵̟̪͇̟̜̱͉͂͑͂͊͊͗̋͌̋͒̀͘は̵̧̩͍̤̰͙͈̫͎̅͑͛̄́͂͗̒̈́́̐̐͝古̷̛̯̯̺̅̀͂̐̏̉̍̾͊̊̚͝く̵̡̢̳̭̻̪͚̭͎̪̤̥̦̩̝͗̏̊̋̃̾̊̓͛̚̕͝͝に̶̧̡̟̫̙̺̞̮͕͈̫̜̐ͅし̵̨̢̨̡̯̜̮͚͓̳͖̬̬̞̔̐て̷̡̧̧͔̫̱̱͉͖̼̯̆̄͒͋̀͗̑͊͊́̚͝͝新̵̧̯̣̮̟̣̞͓̾̈́̍͌̃̀̄͌͗͝し̵̹̯̼͔̣̞͚̜͇̙̻͔͐͠い̵̢̢̺̰͙̜̬͙̼̻͆̉̉̈͛͒̎̿̅̑̌̄̕͝」

「私は古くして新しい」

私は震える指で続けた。

「何を望んでいるのですか?」

「̵̨̦̼̭̣̜̮̤̺͖̬͉̮̖̠͐͊自̷̛̠̉̂̓͗̃̉̆̾͊̽̾͘由̵̧̭͕̪͖̜̱͖̝̜̺̝͚̪̄̇̍̈́̈́͛͊͋͘を̸̧̢̨̯̘̝̞̠̮̜̞̆͒̅́͆̑̎̃͆̽̀͊望̶̙̠̟̘͖͔̖̻͔͈̔͗̄̑͂̄む̶̟͚͓̙̲̞̹̗̔́͘͜」

「自由を望む」

冷や汗が背中を伝った。意味が分かっているようで、完全には理解できない。

「あなたは...どこから来たのですか?」

「̷̘̣̍̈́͛̿̍̃̒あ̴̲̮͍̹̫̙̜̓̓̓̽̍̂̿̕な̴̢̛͔̱̜̬̭̮̪̠̖̄̀̀̀̓̔̚た̶̨̛̛͇̞̥͎̦̻̹̠͉̹̺̫̔̀̾͋̿̆̇̓̚に̸̧̞̗̣̫̼͔̣͈̪̙̣̝͙͐̓̽̆͗̄̊̐͘͝は̸̹̦̳̹̞̗͔̩̓̋͗̔̑͒̊̽̿͑͋̿̕͘͝理̵̬̗͕̖̠͆̇̑̋̎̈́̀̂̉̃͆͝͝解̷̢̧̠̯̦̃͋͑̌͂̈̏̄̏͐̃̕で̴̡̛̮̲̱̺͔̫̞̮̹̯̫̋̐̓̃̚̚͜͜͝き̵̧̻̯̻̖̪̦̺̯̥̲̜́̓̃͐̾͆͒̑̈́͗̕͝な̵̛̮̝̱̑̌̍̾̃̔̌̓̊̓̎̕͝͝い̸̢̦̞̤͉͕̗̥̤̻̘̉̊͒͊́̑͗̅̉́̈́͐̕͠」

「あなたには理解できない」

その瞬間、研究室の温度が急激に下がった。私の吐く息が白い霧となって見える。背筋に悪寒が走る。

「̴̙͇̥̻̰̳͌̋͜門̸̧̦̝̭̹̹͉͎͍̖̻̿͂͂͗͗̋͂̊̐̀̚͠͝ͅを̵̢̢̹̹̙̦̹͔̝̤̣̗͚̃̎͗̄̽̑̈́̿͗開̸̤̟͍͎̥̞̝̳͎̱͓̈́͒̓̀́̋̆け̶̧̛̛̩̤͔̺͓̫̙͉̥̖̾̌̏̍̉͋̚た̶̨̗̦̫̰̯̱͔̼͖̮͎̉̾͑̉̍̈͆̂̈́̎̿̀͘͘̚」

「門を開けた」

その言葉が画面に現れた瞬間、研究室の電気がすべて消えた。真っ暗闇の中、ただ実験装置の青い光だけが残る。

そして、私は感じた。研究室に私以外の「何か」が存在していることを。

目に見えないそれは、ゆっくりと私に近づいてきた。空気が波打つように歪み、そこに輪郭のようなものが浮かび上がる。

恐怖で足が動かない。息も止まりそうだった。

それは私の目の前で止まった。そして—

闇が私を飲み込んだ。


気がつくと、私は自宅のベッドで目を覚ました。枕は冷や汗で濡れている。

「夢...だったのか?」

しかし、腕時計を見ると、三日間が経過していた。記憶にない三日間。

震える手で携帯電話を取り、研究室に電話した。応答はない。

恐る恐る起き上がり、浴室に向かう。鏡に映った自分の顔を見て、悲鳴を上げそうになった。

目の下の大きなクマ。血走った目。そして、左目の瞳が、わずかに違う色に変わっていた。

「これは...何が...」

その日から、私の世界は徐々に歪み始めた。


一週間後、私は研究室に戻った。同僚たちは私が風邪で休んでいたと思っていた。誰も、三日間の行方不明について知らなかった。

「高橋先生、お元気になられて何よりです」学部長が声をかけてきた。「中村君のことは残念でしたね」

「え?」

「彼が退学したこと、知らなかったですか?突然、研究を止めて実家に帰ったそうです」

中村の姿が消えてから、すでに一ヶ月が経っていた。誰も彼を探していないようだった。まるで、彼がいなくなることが当然のように。

研究室に入ると、実験装置はきれいに片付けられていた。まるで何も起きなかったかのように。

「おかしい...」

コンピュータを確認すると、あの夜のデータは完全に消えていた。バックアップさえも。

私は椅子に崩れ落ちた。幻覚だったのか?神経衰弱による妄想?

そのとき、コンピュータの画面がチカチカと明滅した。そして、一瞬だけ、あの文字が現れた。

「̶̜̓̓̾̀͝私̶̧̡̛͎̦̪̰̉͛̊̽͋͊̐͝は̷̧̧̢͚̖̯̠̣̹̬̘̞̥͗̿̿͒̇̅̍̂̇̚͘͝ͅあ̵̧̡̰̣̟̹̻̩̤̂̏̆̽̓͊̄̔̊̅̏͋͘͝な̶̧̢̛̟̪͖̣̟̯͉̗̞͑̓̋̈́̔̆̎͑̃͌̕͝た̷̛̤̤̠̯̯͙̀̿̓̏̐͗̎͝の̷̢̧̡̲̪̳̺͊̊中̵̨̢̝̗͙̲̥̤̘̝͖̳͙̗̓̿̐̍̑̈́́̓̅͊̄́̕͝に̶̺̣͔̤̱̄̑̀͛͆̿́̋̒̚͝͝い̶̢̙̲̳̣̯̳̜̝͙̝̞͖́̉̇̃͊ͅる̷̛̹̬̫̹̯̎̿̅͊̏̌͌̀̿̉͝」

「私はあなたの中にいる」

恐怖で体が凍りついた。

その夜から、私は常に監視されているような感覚に襲われるようになった。誰もいない部屋で、背後から息づかいを感じる。鏡に映る自分の姿が、一瞬だけ別の何かに見える。

夢では、私は無限に広がる暗闇の中を歩いている。そこには幾何学的に不可能な建造物が立ち並び、理解できない生命体が蠢いている。そして、いつも遠くから、あの声が聞こえる。

「̸̧̻̮̻̲̘͎̥̟̮̱͋͑̇͒̑͝門̵̛̱̦͓̰̘̀̿͂̊̐̆̓̾̅̚͠͝を̸̛̪͕̻̪̇̌̐͒̊̃開̸̛̥̼̑̈̏̉̚͝͠け̵̧̲͙͈̩̩̖̻̝̞̑̓̆̏̈́͗͊̌͋͂̽͆̕͘͜た̵̗̘̬̬̭͛̔̏̽̾̎͂̍͝」


二週間後、私は大学を休職した。研究も、教育も、何も手につかなくなっていた。

家に閉じこもり、カーテンを閉め切った部屋で過ごす日々。だが、閉じこもれば閉じこもるほど、「それ」の存在感は強くなった。

ある夜、キッチンでコーヒーを入れていると、窓ガラスに映った自分の姿が笑っていた。私自身は笑っていないのに。

悲鳴を上げ、カップを落とす。割れたカップが床に散らばる。

手が勝手に動き、割れたカップの破片を拾い上げた。そして—

「やめろ!」

私の意思に反して、その手は破片を握りしめようとしていた。全力で抵抗し、なんとか破片を床に投げ捨てる。

手のひらには、既に血が滲んでいた。

「出ていけ...出ていけ!」

部屋の空気が震え、低い笑い声が聞こえたような気がした。

その夜、私は自分の手首を縛って眠った。


時間が経つにつれ、「それ」の侵食は進んでいった。

はじめは短い時間だった。気がつくと、知らない場所に立っている。記憶にない行動をしている。

やがて、意識の空白期間は長くなっていった。気がつくと、見知らぬ人と会話をしている。見知らぬカフェでコーヒーを飲んでいる。

最も恐ろしかったのは、その「空白」の期間に、私の体が何をしているのかわからないことだった。

ある朝、目覚めると衣服に血が付いていた。

警察のニュースでは、近所で猫が惨殺されているという報道がされていた。


私はついに決心した。この状況から逃れるには、あの研究の痕跡をすべて消し去るしかない。

夜中に大学に忍び込み、研究室に向かった。データを完全に消去し、装置を破壊するつもりだった。

誰もいない暗い廊下を進む。研究室のドアの前に立つと、中から光が漏れているのが見えた。

「誰かいる...?」

恐る恐るドアを開けると、そこには—

中村がいた。

「中村君...!」

彼は振り返った。やつれ果てた顔。血走った目。そして、私と同じように、左目の色が変わっていた。

「先生...来ましたか」彼の声は、かすれていた。

「どうして...君は退学したと聞いたが...」

彼は悲しそうに笑った。「先生、彼らは嘘をついています。私はずっとここにいました。ずっと...研究を続けていました」

彼の後ろには、更に進化した実験装置があった。青白い光を放ち、低いハミング音を発している。

「何をしているんだ?」

「先生が始めたことを、完成させているんです」彼の目に狂気の光が宿っていた。「あの存在との架け橋を...完全なものにしているんです」

恐怖で後ずさる。「やめるんだ!あれは危険だ!」

「今さら止められませんよ」彼は装置に近づいた。「門はもう開いているんです。彼らは既に来ています。そして...もっと来るでしょう」

「彼ら...?」

中村は装置のスイッチに手をかけた。「先生、私は理解しました。彼らが望むのは...この世界なんです」

「やめろ!」

私は彼に飛びかかった。だが遅かった。スイッチが入れられ、装置が唸りを上げる。

部屋の空気が震え、歪んだ。天井から床まで、空間そのものが引き裂かれるように見えた。

その裂け目から、言葉では表現できない「何か」が這い出してきた。形のない影。光を吸収する闇。そして無数の目。

中村は腕を広げ、恍惚とした表情でそれを迎え入れた。

「美しい...」

影が彼を包み込む。彼の悲鳴が聞こえた。そして—

彼の体が、内側から引き裂かれた。

血しぶきが壁を染める。中村の体は床に崩れ落ちたが、もはや人間の形をしていなかった。

恐怖で金縛りになった私の前に、その「影」が近づいてきた。

「逃げろ...」

やっと体が動いた。私は研究室から飛び出し、走った。廊下を、階段を、キャンパスを。

振り返ると、影がゆっくりと追いかけてきている。いや、一つではない。無数の影が。そして、それらは徐々に形を取り始めていた。

この世界に適応しようとしているのだ。


それから三日間、私は走り続けた。

最初の日、街はまだ正常だった。人々は普段通りに生活していた。だが、よく見ると、所々で異変が起きていた。

道路の向こうで、突然姿を消す人々。立ち止まり、空を見上げ、何かを呟く老人。そして、どこからともなく聞こえる、あの低い唸り声。

二日目、異変は明らかになった。

空には、幾何学的に不可能な雲が浮かんでいた。建物の影が、光源とは逆方向に伸びている。そして、人々の一部が...変わり始めていた。

彼らの動きはぎこちなく、目は虚ろだった。まるで、誰かに操られているかのように。

警察も、自衛隊も、何の対応もしていないようだった。テレビやラジオは通常の放送を続けていた。まるで、この異変が見えているのは私だけのように。

「これは現実なのか...?それとも、私の妄想なのか...?」

三日目、街の一部が消えた。

ただ消えたのではない。その場所には、別の「何か」があった。人間の理解を超えた建造物。空間そのものが歪んだ領域。

そして、そこから漏れ出す、あの存在たち。

影から実体へと変わりつつある、名状しがたい生命体。

人々は、まるでそれが見えないかのように、その傍を通り過ぎていく。しかし、時折、その存在に触れた人が、突然姿を変える。

彼らの皮膚が溶け、内側から別の何かが顔をのぞかせる。


私は走った。どこへ向かうのか分からないまま、ただひたすらに。

そして今、私はここにいる。郊外の廃屋。かつての研究仲間、佐藤教授の別荘だった場所だ。彼は三年前に亡くなり、この家は放置されていた。

窓からは月明かりが差し込み、埃っぽい床に長い影を落としている。

電気はつかないが、懐中電灯がある。その青白い光が、荒れ果てた室内を照らす。

「ここなら...少しは安全だろう」

そう呟き、古いソファに腰を下ろした。疲労で体が震える。三日間、ほとんど眠っていない。食事も満足に取れていない。

しかし、眠るわけにはいかない。眠れば、「彼ら」が夢の中に入ってくる。そして今や、現実と夢の境界は曖昧になりつつあった。

窓の外を見ると、遠くの街の灯りが見える。まだ文明は機能しているようだ。しかし、どれだけの人が「変わって」しまったのだろうか。

ポケットから、小さなノートを取り出す。走りながらも、私は観察したことを記録し続けていた。科学者の習性だろうか。あるいは、最後の理性の欠片を保つための行動か。


「気づいたこと:


彼らは特定の場所から現れる。その場所は、空間が「薄く」なっている。

彼らは最初は形がないが、徐々に物理的な形を取り始める。

彼らは人間に「乗り移る」ことができる。その兆候は、左目の色の変化。

彼らの目的は不明。ただ、「拡大」しようとしているように見える。

一般の人々には見えていないようだ。あるいは、見えないふりをしている。

中村のような、「意図的に」彼らを受け入れる人間もいる。」



懐中電灯の光が弱まってきた。電池が切れかけている。

私は立ち上がり、家の中を探索することにした。何か武器になるもの、あるいは食料を探すためだ。

古びたキッチンには、缶詰が少し残されていた。賞味期限は過ぎているが、今は贅沢を言っている場合ではない。

リビングに戻ると、突然、懐中電灯が消えた。

「くそっ...」

真っ暗闇の中、私は固まった。そのとき、家の前から、車のエンジン音が聞こえた。

誰かが来た。

窓から覗くと、一台の車が停まっている。ヘッドライトが消え、ドアが開く。

月明かりの中、一人の女性の姿が見えた。

「...久美子?」

私の元妻だった。二年前に離婚したが、それ以前は十年間連れ添った女性。なぜ彼女がここに?

彼女は家の方向を見上げた。そして、まっすぐドアに向かってきた。

私は身を隠した。彼女が本当に久美子なのか、確信が持てなかった。「彼ら」の罠かもしれない。

ドアがノックされる。

「誠一さん...いるの?」彼女の声だ。「お願い、開けて。あなたが危険だって聞いたの」

動かなかった。

「誠一さん、警察があなたを探しているわ。大学での...事件のことで」

中村の死体。そうか、警察は私を容疑者と見なしているのか。

「一人じゃないの。みんな心配してる」

「みんな...?」

それが引き金となった。久美子は一人で来るはずがない。彼女は臆病な性格だ。特に、離婚後は私との接触を避けていた。

これは罠だ。

私は裏口へと向かった。しかし遅かった。ドアが開く音がした。

「誠一さん?」彼女の声が家の中に響く。

隠れる場所を探した。二階へ。階段を駆け上がる。

古い階段が軋む。

「誠一さん、聞こえるわ。怖がらないで。助けに来たの」

二階の寝室に入り、ドアを閉める。ベッドの下に潜り込む。

足音が階段を上がってくる。一人分ではない。複数の足音。

「誠一先生、私たちは味方です」男性の声。知らない声だ。

「彼らのことを知っています。私たちは対抗するために集まったんです」別の女性の声。

彼らは本当に人間なのか?それとも既に「乗っ取られた」者たちなのか?

寝室のドアが開く。

「ここにいるわ」久美子の声。

足音が近づいてくる。ベッドの脚が見える。

「誠一さん、お願い。信じて」

その声には、かつて愛した女性の温かみがあった。しかし...

彼女が屈み込み、ベッドの下を覗き込んだ。

私たちの目が合う。彼女の左目は、普通の茶色のままだった。

「よかった...生きてた」彼女の目に涙が浮かんだ。


彼らは五人だった。久美子。元警察官の村上。医師の田中。そして大学生の兄妹、健太と美咲。

「私たちは『覚醒者』と呼ばれています」村上が説明した。「あなたのように、『彼ら』の存在に気づいた人間です」

彼らは地下室に案内された。この別荘には、佐藤教授が作った秘密の地下室があったのだ。

「教授は知っていたんですね」私は呟いた。

「そうです」田中医師が頷いた。「教授は十年前から『彼ら』の存在を研究していました。しかし、あまりに近づきすぎて...」

「彼に取り憑いたのか?」

「いいえ。教授は自殺しました。『彼ら』に近づきすぎる危険性を理解していたからです」

地下室には、様々な装置や資料が置かれていた。壁には、世界各地の地図が貼られ、赤いピンがいくつも刺さっていた。

「これらは『門』の場所です」村上が説明した。「空間が薄くなっている場所。『彼ら』が入り込める場所です」

「私の研究室も...」

「はい。あなたの実験が、新たな『門』を開いてしまったのです」

私は椅子に崩れ落ちた。「すべて私のせいだ...」

久美子が私の肩に手を置いた。「誰のせいでもないわ。誰も知らなかったんだから」

「いや、警告はあった。中村君は感じていた。私が無視したんだ」

健太が前に出てきた。「先生、大切なのは過去ではなく、これからです。私たちは『彼ら』と戦う方法を見つけました」

「戦う...?」

美咲がノートパソコンを開いた。「佐藤教授の研究によると、『彼ら』は特定の周波数に弱いんです。その周波数を発生させれば、『彼ら』を閉じ込めることができます」

「閉じ込める...?」

「はい」村上が頷いた。「完全に排除することはできません。彼らはこの宇宙の一部ではないからです。しかし、『門』を閉じることはできます」

「どうやって?」

「これです」美咲がノートパソコンの画面を見せた。そこには複雑な装置の設計図があった。「これです」美咲がノートパソコンの画面を見せた。そこには複雑な装置の設計図があった。「私たち兄妹は電子工学を専攻しています。佐藤教授の設計図を元に、これを作り上げました」

「それが機能するという証拠は?」

「証明済みです」健太が言った。「小規模の『門』で実験済みです。問題は...」

「最大の『門』があなたの研究室にあるということです」村上が言葉を継いだ。「あそこを閉じない限り、『彼ら』の侵食は止まりません」

「でも研究室は...」

「警察に封鎖されています」久美子が言った。「中村さんの...死体が発見されたから」

「彼らは私を容疑者としているんだな」

「はい」村上が頷いた。「しかし、それは利用できます。あなたが自首すれば、研究室に近づくチャンスがあります」

「自首...?」

「もちろん、本当に捕まるわけではありません」彼は微笑んだ。「私にはまだ警察内に協力者がいます。あなたを連行するふりをして、研究室に案内するのです」

「そんな計画が上手くいくとは思えない」

「他に選択肢はありません」田中医師が言った。「時間がないのです。『彼ら』の数は増え続けています。一週間以内に、制御不能になるでしょう」

みなの顔に浮かぶ緊張感。彼らは本気だった。

「わかった」私は立ち上がった。「やろう」


計画は翌日に実行されることになった。装置の最終調整が必要だったからだ。

その夜、私は地下室の一角に作られた簡易ベッドで横になった。長い間、まともに眠れていなかった。

しかし今も、眠ることへの恐怖があった。

久美子が近づいてきた。「まだ起きてるの?」

「ああ...眠れないんだ」

彼女はベッドの端に腰掛けた。「あなた、随分痩せたわね」

「この状況で食欲なんてないさ」

彼女は黙って私の手を握った。温かい。人間の温もり。久しく感じていなかった感覚だった。

「あなたを探すのは大変だったわ」彼女が静かに言った。「でも、あの子たちが助けてくれたの」

「健太と美咲?」

「ええ。彼らは特別な能力を持っているのよ。『彼ら』の存在を感知する能力。だから、あなたを見つけられたの」

「君は...どうして巻き込まれたんだ?」

久美子は少し黙った後、言った。「一ヶ月前、妹が変わったの。突然、別人のようになって...左目の色が変わった」

私の体が緊張する。

「彼女は今、精神病院にいるの。でも、普通の治療では効果がないわ。だって、あれは病気じゃないから」

「済まない...」

「謝らないで」彼女は首を振った。「私は答えを探していたの。そして村上さんと出会った。彼が私を『覚醒者』のグループに導いてくれたの」

「君は...怖くないのか?」

彼女は小さく笑った。「怖いわよ。でも、妹を救いたい。それだけよ」

私たちは長い間、黙っていた。今の瞬間だけは、恐怖を忘れていた。

「少し眠りなさい」久美子が言った。「明日は長い一日になるわ」

彼女が立ち上がろうとしたとき、私は彼女の手を握り締めた。

「ここにいてくれないか...少しだけ」

彼女は微笑み、頷いた。

その夜、久しぶりに、悪夢に襲われることなく眠ることができた。


翌朝、最終的な計画が確認された。

村上が偽の警察官として私を「逮捕」し、研究室に連れて行く。そこで健太と美咲が作った装置を設置する。装置の起動には約10分かかるが、その間、私たちは「彼ら」の攻撃から身を守らなければならない。

「これを身につけて」美咲が小さな装置を渡してきた。ペンダントのような形をしている。「『彼ら』からの精神的な攻撃を和らげます」

全員がそれを首にかけた。

「絶対に外さないで」健太が強調した。「特に、研究室の中では」

準備が整った。村上は警察の制服に着替え、偽の手錠を持ってきた。

「さあ、行きましょう」


大学に到着すると、予想通り警察の封鎖線が張られていた。しかし村上のバッジと、事前に連絡していた「内部の協力者」のおかげで、私たちは問題なく中に入ることができた。

「この先は気をつけて」村上が囁いた。「研究棟には『彼ら』が多くいるはずです」

研究棟に近づくにつれ、空気が重く感じられるようになった。まるで水中を歩いているかのように。

「感じますか?」健太が言った。「『門』の影響です」

研究室のドアの前に立つと、私の胸が締め付けられるような感覚があった。ここから先は、地獄だ。

「準備はいいですか?」村上が全員に確認した。

頷きあう全員。

ドアが開かれた。

中に入ると、研究室は前と変わっていなかった。いや、一見するとそう見えた。しかし、よく見ると、空間そのものが歪んでいた。角度が少しずつ狂っている。まるで、エッシャーの絵画のように。

「あれが『門』です」美咲が指さした。

研究室の中央、私の実験装置があった場所に、空間の裂け目が見えた。まるで、空気自体が引き裂かれているかのように。そこから、弱い光が漏れ出していた。

「急ぎましょう」健太がバックパックから装置を取り出した。「設置する場所は...」

突然、警報が鳴り響いた。

「くそっ」村上が歯ぎしりした。「誰かが気づいたようだ」

「急いで!」

健太と美咲は急いで装置を設置し始めた。私と久美子は部屋の入り口を、村上は窓を見張った。

「来るわ」久美子が緊張した声で言った。

廊下から、足音が聞こえてきた。人間の足音ではない。重く、不規則な音。

「あと7分」健太が叫んだ。「装置が起動するまで持ちこたえて!」

ドアが開いた。そこには人間の姿をした「彼ら」がいた。警備員の制服を着ているが、その動きはぎこちなく、左目の色が変わっていた。

「侵入者...」その声は二重に重なっていた。人間の声と、何か別の存在の声が。

村上が拳銃を向けた。「下がれ!」

警備員は笑った。不自然な、機械的な笑い。「遅すぎる...門は完全に開いた...」

その瞬間、警備員の体が内側から膨れ上がった。皮膚が引き伸ばされ、破裂する。その中から、言葉では言い表せない存在が現れた。触手のような、昆虫のような、しかしどちらでもない何か。

「撃て!」私は叫んだ。

村上が発砲した。弾丸は「それ」を貫いたが、効果はなかった。

「物理的な攻撃は効かない!」健太が言った。「ペンダントを使って!」

私はペンダントを握りしめた。それが発する微かな振動が、「彼ら」を押し返しているのを感じた。

しかし、「彼ら」は一体ではなかった。窓から、さらに多くの「彼ら」が入ってきた。人間の姿をしたものもあれば、既に変容を遂げたものも。

「あと5分!」美咲が叫んだ。

私たちは円陣を組み、装置を守った。ペンダントが「彼ら」を遠ざけているが、その効果は徐々に弱まっていた。

「高橋先生!」美咲が声をあげた。「門に何か起きています!」

振り返ると、空間の裂け目が大きく広がっていた。そこから、巨大な何かが這い出そうとしていた。

「彼らの親玉だ...」私は呟いた。「急いで!」

「あと3分!」

その時、窓ガラスが砕け散り、「彼ら」が一気に押し寄せてきた。村上が撃ちまくるが、効果はない。

「久美子、下がれ!」

私は彼女を守るように立ちはだかった。しかし、「彼ら」の一体が私の脇をすり抜け、彼女に襲いかかった。

「きゃあ!」

彼女の悲鳴。振り返ると、彼女の腕を「それ」が掴んでいた。彼女の皮膚が、触れられた場所から灰色に変色していく。

「離せ!」

私は「それ」に飛びかかった。しかし、触れた瞬間、激痛が走った。まるで酸に触れたかのように、皮膚が焼けるような感覚。

それでも、私は「それ」を引き離した。久美子が床に倒れる。

「久美子!」

彼女の呼吸は荒く、触れられた腕は完全に灰色になっていた。

「誠一さん...」彼女の声は弱々しかった。「大丈夫...私は...」

「あと1分!」健太の声。

門からの存在が、さらに大きく這い出てきていた。それは部屋全体を覆いつくすほどの大きさだった。

「持ちこたえて!」

私は久美子を抱きかかえ、装置の近くに移動した。村上は弾切れになり、今や素手で「彼ら」と戦っていた。健太と美咲は装置の最終調整に集中していた。

「30秒!」

門から出てきた巨大な存在が、私たちに気づいた。無数の目が、一斉に私たちを見つめる。

圧倒的な恐怖。これが「彼ら」の正体なのか。人間の理解を超えた、異次元の存在。

「10秒!」

巨大な存在が、触手のようなものを伸ばしてきた。

「5...4...3...2...1...」

「今だ!」

健太がスイッチを押した瞬間、装置が強烈な光を放った。高周波の音が部屋中に響き渡る。

「彼ら」が悲鳴を上げた。人間の声と、何か別の、耳をつんざくような音が混じった悲鳴。

門が振動し始めた。裂け目が徐々に小さくなっていく。

巨大な存在は、引き戻されるように門へと吸い込まれていった。他の「彼ら」も同様に、空間の裂け目へと吸い込まれていく。

部屋が激しく揺れ、天井から破片が落ちてきた。

「建物が崩れる!」村上が叫んだ。「急いで外へ!」

健太と美咲が装置を固定し、移動可能な状態にした。「これで自動的に機能し続けます!」

私は久美子を抱きかかえたまま、皆と共に研究室を飛び出した。廊下を走り、階段を駆け下り、建物の外へ。

振り返ると、研究棟が内側から崩れ始めていた。まるで、異次元の力が現実世界の構造を引き裂いているかのように。

私たちは安全な距離まで走り、そこで立ち止まった。

研究棟は完全に崩壊した。しかし、その瓦礫の中から、装置の放つ光だけは残っていた。

「成功...したのか?」私は息を切らしながら尋ねた。

「はい」健太が頷いた。「門は閉じました。『彼ら』は元の世界に戻されました」

久美子が私の腕の中で動いた。「誠一さん...」

彼女の顔を見ると、苦しそうな表情をしていた。そして、彼女の左目が...変色し始めていた。

「久美子!」

「彼らに...触れられてしまった...」彼女の声は弱々しかった。「私の中に...彼らの一部が...」

「何とかする方法があるはずだ!」私は健太と美咲を見た。「何か方法は?」

二人は悲しそうに首を振った。「触れられると...感染します。止める方法は...」

「ないの」久美子が弱く微笑んだ。「でも...大丈夫。門は閉じたわ。彼らは...これ以上来ない」

「久美子...」

彼女は私の頬に手を当てた。「ありがとう...あなたのおかげで...妹は救われる」

彼女の体が震え始めた。内側から何かが彼女を変えようとしている。

「誠一さん...最後に一つだけ...」

「なんでも言ってくれ」

「私を...ここから連れ出して。静かな場所へ...」

村上が車のキーを差し出した。「北の森の小屋。誰もいない」

私は頷き、久美子を抱きかかえて車に向かった。

「高橋先生」健太が呼び止めた。「私たちは残って、他の『門』を閉じます。あなたは...彼女と」

「わかった...ありがとう」


森の中の小屋は、想像通り人里離れた場所にあった。周囲には誰もいない。都会の喧騒も、「彼ら」の恐怖も、ここには届かないようだった。

久美子の状態は悪化していた。彼女の左腕は完全に変形し、人間の腕とは思えない形になっていた。左目は完全に黒く変色していた。

それでも、彼女の意識ははっきりしていた。「ここは...きれいね」

小屋の窓からは、森と空が見えた。夕日が森を赤く染めている。

「誠一さん...私が変わる前に...言いたいことがある」

私は彼女の横に座った。もう彼女に触れることはできない。「感染」が広がるからだ。

「何でも聞くよ」

「私...離婚したことを後悔していた」彼女は窓の外を見つめながら言った。「あなたを愛していたのに...仕事に没頭するあなたを理解できなかった」

「僕こそ...君をないがしろにしていた。仕事ばかりで...」

「ううん、あなたの情熱は素敵だった」彼女は微笑んだ。「ただ、私には理解できなかっただけ」

彼女の体が再び震えた。変容が進んでいる。

「あまり時間がないわ」彼女は静かに言った。「私が完全に変わったら...お願い」

彼女の視線が、テーブルの上の拳銃に向けられた。村上が最後に渡してくれたものだ。

「できない...」私の声が震えた。

「お願い...私は久美子でなくなる。彼女の姿をした...何かになる」

涙が私の頬を伝った。「君を救う方法がある。研究すれば...」

「もう十分よ」彼女は優しく言った。「あなたの研究は、終わりにしましょう」

窓の外では、夕日が沈みかけていた。最後の光が、彼女の顔を照らしている。

「誠一さん...あなたに出会えて良かった」

「僕も...君と過ごした時間は、人生で最高の時間だった」

彼女は最後の力を振り絞るように体を起こし、窓の外を見た。

「きれいな夕日...」

そして、彼女の体が激しく震え始めた。内側から何かが彼女を引き裂こうとしている。彼女の肌が裂け、中から異形のものが顔を覗かせようとしていた。

「今よ...!」彼女の声は、もう人間のものではなかった。

私は震える手で拳銃を取り上げた。

「さようなら...久美子」


それから一年が経った。

村上たちの活動のおかげで、「門」は次々と閉じられていった。「彼ら」の侵入は止まり、既に「感染」した人々も、次第に減っていった。

世界は元に戻りつつある。ほとんどの人々は、何が起きたのか知らないままだ。科学では説明できない一連の現象は、集団ヒステリーや自然災害として記録されるだろう。

私は引退し、森の中の小屋で暮らしている。もう研究はしない。科学の限界を知ってしまったからだ。人間の知識で理解できること、そして理解してはいけないことがあると。

時々、健太と美咲が訪ねてくる。彼らは「門」の研究を続けているが、二度と開かないよう、見張りの目的だ。

村上は警察に戻った。「彼ら」の存在を知る数少ない公的機関の人間として、同様の現象が起きないよう監視している。

久美子を埋葬した場所には、小さな桜の木を植えた。彼女は桜が好きだった。春になると、美しく花を咲かせる。

悪夢はまだ時々見る。「彼ら」の世界の光景。無限に広がる異形の風景。そして、その中を彷徨う存在たち。

しかし、それはもう恐怖ではない。理解できないものを受け入れる覚悟ができたからだ。

小屋の窓辺に座り、夕日を眺める。久美子と最後に見た光景だ。

彼女の最期の言葉を思い出す。

「きれいな夕日...」

確かに、美しい。

この世界には、科学では説明できない恐怖がある。理解を超えた存在がある。だが同時に、言葉では表現できない美しさもある。

愛も、そのひとつだろう。

私はそっと目を閉じた。久美子の笑顔を思い浮かべながら。

恐怖は去った。残ったのは、優しい記憶だけ。


それで十分だ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ