ストロベリームーン
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(1)
目覚めると知らない部屋のベッドにいた。ふかふかでゆったりとしたベッドの上で待田空は上半身を起こし、困惑のなか、周囲を確認する。同じベッドに岩名雄二が眠っていた。それだけなら問題はなかったのだが、掛布団をそっと捲ると、ふたりとも全裸だった。パンツさえ穿いていない。え、なんで? と頭の中で驚き、空は昨夜のことを思い出そうとする。
昨夜、同じ事務所の先輩芸人に急に飲みに誘われた。ちょうど劇場の仕事終わりだったので、その足で指定された店へ出向くと、知り合いの芸人にまじって岩名もいたのだ。他事務所所属の岩名とは初対面だった。もちろん、空のほうは一方的に岩名を知っていたし、尊敬し憧れてもいた。なので緊張してしまい、「いつも観てます」と、ただの視聴者のような挨拶をしてしまったことは覚えている。空の先輩と岩名は同期で、そこそこ交流があるらしい。岩名は、「いちごカルチャー」という男女コンビで活動しており、コント番組やバラエティ番組によく出演している。つまり、まあまあ売れている。いちごカルチャーは、岩名の相方である由々のサイコパスっぽいボケに、岩名が穏やかなトーンで辛辣にツッコむという芸風で、コントを主に活動している。先輩芸人と話す岩名の様子を、テレビの人だ、テレビと同じだ、などと思いながら空はやはりただの視聴者のように目の前の風景を眺めていた。その店を後にし、次の店でカラオケへ行ったところまでは覚えている。その後、どうしてこうなったのか全く記憶にない。
空の住む安アパートとはちがい、キッチンやリビングとは完全に分離しているこの寝室は、周囲の生活感から見て、どうやら岩名の部屋なのだろう。昨夜の自分が所持していたライブ衣装や小道具などの大荷物もちゃんとまとめて部屋の隅に置いてあるのを見つけて空は一旦は安心する。しかし、ふたりとも全裸だという謎は一向に解明できない。もしかして、なにかよからぬことをしまったのではないか、と考え、背筋がひやっとする。ひとりで悩んでいても記憶は戻らないので、空は意を決して岩名を起こすことにした。
「岩名さん」
となりで眠る岩名の肩をそっと揺する。岩名はすぐにぼんやりとした感じでまぶたを持ち上げた。
「おはようございます」
とりあえず挨拶をすると、
「……おはよう」
岩名は少し気まずそうに空から目をそらし、素っ気ない感じの返事をした。いやこれ絶対なんかあったじゃん。空は半ば覚悟を決め、「岩名さん、昨日のこと覚えてますか?」と尋ねた。
「あー……もしかして、そらくんは覚えてない?」
逆に質問をされ、
「はい」
空は素直に頷く。岩名に名前を覚えてもらえたことと、「そらくん」と下の名前で呼ばれたことが同時にうれしくなったが、いまはそれどころではない。
「カラオケに連れて行ってもらったあたりまでは記憶があるんですけど」
岩名は空と同じように上半身を起こし、淡々と説明をしてくれた。岩名の話によると、そろそろ解散という際になって空がぐでんぐでんに酔っぱらっていたため、家が同じ方向だということが判明した岩名がタクシーに同乗したらしい。しかし、岩名は空の家を知らない上に、空に尋ねても要領を得ないため、自宅に泊まらせることにしたという。
「すみません。ご迷惑おかけしました」
「まあ、それは全然。気にしないで」
そう言う岩名はなぜか少しうれしそうだった。空が不思議そうにしていたからか、
「あー、いや、後輩の世話焼くのって、初めてでなんか新鮮で。いままでこういうことなかったから」
岩名はそんなふうに言う。
「すみません、本当に」
後輩力のない自分の行いを反省しつつ、空は項垂れる。だから気にしないでいいって、という岩名の気遣いの言葉すら申し訳ない。
「ところで、なんで僕ら全裸なんですか? もしかして僕、いま聞いたこと以上に、なんか失礼なことしましたか?」
「失礼なことっていうか……でも、そらくん、なにも覚えてないんだろ?」
岩名は眉間にしわを寄せて、確認するようにそう言った。空が頷くと、
「忘れたままのほうが、そらくんにとってはいいかもしれないよ」
岩名はため息を吐くようにそんなことを言った。
「そんなこと言われたら、余計気になります。それに失礼なことしたんなら、ちゃんと謝りたいですし」
岩名は、あーとか、うーなどと言葉にならない声を発しながら躊躇っている様子だったが、意を決したように、
「そらくんは、俺にキスをしました」
感情を殺したように岩名は淡々と言った。なぜか敬語だ。
「キス?」
「なんか、すごくちゃんとしたやつ」
「ちゃんとしたやつって……」
「キスしながら、そらくんは俺の服を脱がしました」
空は呆然としながら岩名の言葉を聞く。
「俺の服を脱がし終わって自分の服を脱いだところで、そらくんは眠ってしまいました」
「そのあとは?」
思わず敬語を忘れて尋ねてしまう。
「ないよ。それだけ」
キスだけか、と一瞬安心しかけたが、キスだって普通にだめだ。初対面の先輩に対して完全にやらかしてしまった。
「申し訳ありませんでした」
空はベッドの上で半ば土下座のように頭を下げる。その勢いでベッドのスプリングが上下に揺れた。そこで自分が全裸だということに改めて気づき、慌てて顔を上げる。岩名と目が合い、岩名は表情を崩してこらえきれないように笑った。岩名は笑うと顔がくしゃくしゃになる。空はその笑顔に一瞬見惚れてしまう。そういえば、この人はテレビに出ている人だった、と空は思う。決して派手ではなく、どちらかといえば地味で素朴な顔立ちの岩名だが、なんとなくオーラというか、華がある。大勢に見られる仕事をしている人間特有のものかもしれない。
「あの、僕、もう帰りますね。どうも、本当にご迷惑をおかけしました……」
そう言いながら空は床に脱ぎ散らかされている服のなかから自分のパンツをさがし出して穿く。
「そらくん、よければシャワー浴びて帰ったら?」
「え、いえ、そんな。これ以上ご迷惑をおかけするわけには……」
固辞しかけた空を遮るようにして、
「自分ちで浴びるより節約になるよ」
岩名が放ったその言葉に、
「すみません、そうさせてもらいます……」
空はあっさりと折れた。岩名は笑っている。
シャワーを借り、タオルを借り、服を着て、結局リビングのソファでコーヒーまで淹れてもらった。リビングにはいちごモチーフの小物というか雑貨がちらほら置かれている。
「いちご好きなんですか?」
なんとなくギャップを感じて尋ねると、
「コンビ名がいちごカルチャーだから、お客さんがときどきそういうのくれるんだよ」
岩名がそう答えた。
「そっか、いちごカルチャーだから」
「俺みたいなのを好きって言ってくれるお客さんもいるんだから、不思議だよな。この仕事してなかったら、絶対ありえなかった」
「そんなことないです。岩名さんは人間ができているので、別の場所で別の仕事をしていても、きっと誰かに好かれてます」
空がそう言うと、
「そうは言っても、そらくんだって俺がこの仕事してなかったら、俺のこと気にも留めてなかったと思うよ」
岩名は意地悪そうな笑顔でそう応じる。
「それはそうかもしれません。岩名さんが芸人じゃなかったら会えてなかったかもしれない。なので、岩名さんが芸人でよかったです」
空の言葉に、岩名は少し驚いたように固まって、「なるほど、そっか」と呟いた。
「そらくん、今日仕事は?」
「あ、はい。昼から劇場と、夜はバイトです」
岩名の質問に、ちびちびとコーヒーを飲みながら答える。
「バイトなにしてんの?」
「コンビニです。なんのおもしろみもなくてすみません」
「べつに、私生活までおもしろくなくてもいいじゃん」
相槌を打ちながら、岩名はなにか言いたそうに空をじっと見た。空は岩名がなにを言おうとしているのか考えて、やはりわからず、自分のしたいことを素直に口に出す。
「岩名さん。もしよろしければ、連絡先を交換してもらってもいいですか」
そう切り出すと、岩名はうれしそうに頷いた。その仕草と表情が、テレビとはちがい素の感じがして、空はうれしくなる。
「そういえばさ、そらくん、二日酔いとか大丈夫なの?」
玄関先で空を見送りながら岩名が言う。スマートフォンの地図で確認すると、思ったよりも自宅が近かったので安心する。歩いて帰れそうだ。
「だるいですけど、たぶん大丈夫です」
「あんだけ酔ってたのに大丈夫なんだ。やっぱ若いからだな。え、そらくんていくつだっけ?」
「二十五です」
「本当に若いね」
岩名は少し複雑そうに呟いた。
「あの。僕、初対面の人にやったらだめなこといっぱいしてしまいましたけど、また会ってもらえますか」
空が言うと、岩名は声を抑えて笑い、「うん、いいよ」と応じてくれた。やったあ、と空は思う。
「あの岩名さんと連絡先を交換しちゃった」
帰り道、ほとんど小走りのように歩きながら空は呟く。
「岩名さん、やさしかった」
いつもは重い荷物も全く気にならない。うれしくて空も飛べそうだ。
(2)
劇場を主な活動の場としている芸人は、とにかく荷物が多い。小道具などが入ったぱつんぱつんの大きなリュックやスポーツバッグ。衣装を持ち運ぶためのガーメントバッグ。カジュアルな格好でこれらの大荷物を持って平日の昼間に街をうろうろしている不審な人物は、十中八九、芸人だ。劇場への道すがら、警官による職務質問に応じることにも慣れてしまった。
空の所属するキイロカンパニーという芸能事務所は劇場を多く持っており、テレビ出演などの目立った仕事のない若手芸人でも、劇場に出ることさえできれば少しはギャラをもらうことができる。しかし、劇場に出るためのオーディションがあり、そのオーディションを受けていた時期はきつかった。周囲がどんどん受かって劇場のステージに立つなか、重い荷物を持ってネタ見せに通うのは地獄だった。当然ギャラが発生しないので交通費でマイナスとなり、アルバイトで生計を立てなければいけなかった。現在もアルバイトをしてはいるが、劇場のギャラが入るので以前ほど余裕がないことはない。
空は、「まちだそら」という、本名を平仮名にしただけの芸名でひとり芝居のようなコントをしている。フリップを使用したネタを試してみたこともあったが、ひとりで演じるシチュエーションコントが好きだったし、いちばん自分にしっくりきているように思う。初めて触れた「お笑い」が、コントだったからかもしれない。劇場オーディションの際に、事務所の作家にもコントのほうが合っていると言われたことも自信に繋がり、空はその芸風を続けていた。
その日、最後のステージを終え劇場を出ると、空が出てくるのを待っていた客が数人いた。すでに顔見知りになってしまった彼女らから差し入れを受け取り、少し話をする。そして笑顔で礼を言ってその場をあとにする。売れない芸人の出待ち客は心得たもので、差し入れの内容は、靴下や下着にタオル、レトルトカレーやエナジードリンクなど、生活感あふれる物資が多い。煙草を吸う芸人は煙草の差し入れをよくもらうらしいが、空は煙草を吸わないことを公言しているので、自然と救援物資のような差し入れになる。たまに、ちょっといいティーシャツなどをもらえたりもするので、ありがたく私服にしている。
「おまえ、売れてないくせに出待ちすごいよな」
「売れてないくせにって。本当のことだけど」
同期の芸人の軽口に、「てか、おまえも売れてないじゃん」などと苦笑いで答え、
「こういう物資はありがたいけど、でも、みんな顔ファンだからなー」
リュックを前にかけ、もらった差し入れをしまいつつ空は不満を口にする。実際、空はイケメンと言われる部類の整った顔立ちをしており、空を目当てに劇場に通ってくれる女性客も少なくはない。
「贅沢な。顔ファンでも全然いいじゃん。お客さんはお客さんだよ」
確かにそうだ。頭ではそう理解できるが、感情のほうが反発するのだ。劇場の出番後に、SNSでエゴサーチをしてみても、「おもしろかった」等の感想は少なく、「かっこよかった」「イケメン」等の感想が目につく。感想そのものが微々たるものなので、それすらありがたいといえばありがたいのだが、やはり感情が反発してしまう。
「ていうか、自分で自分のお客さんを顔ファンって言っちゃうのも、なかなか自意識があれよ」
「そうか、自意識があれか」
「そうよ、あれあれ」
同期の芸人と語彙のない会話をしながら、リュックを背負い直し並んで歩く。
「このあとなんかある?」
「一旦帰って、岩名さんにごはん連れてってもらう約束してる」
空はそう答える。あの日から、空は岩名からの連絡を待っていた。その日のうちにお礼とお詫びのメッセージを送ったあと、空から改めて連絡をすることはなかった。岩名はきっと忙しいのだろうと思っていたのだ。それが三月のはじめのことで、岩名から連絡がきたのは昨日、四月も半ばに差し掛かったころだった。
「岩名さんて、いちごカルチャーの?」
「そう」
「いいな。いつの間に仲良くなったんだよ」
「先月の飲みでいっしょになって」
空は飲みに誘ってくれた先輩芸人の名前を挙げる。
「先輩と飲みに行くくらいならバイトしてたほうがいいと思ってたけど、そういう繋がりができるなら飲みも行っとくもんだな」
「先輩との飲み、僕は好きだけど。先輩が全部持ってくれるじゃん? 食費が浮くじゃん?」
「おまえは相変わらずケチケチしてんな。でも、その代わり店調べて予約したり、ルート調べたりいろいろ雑用しなくちゃいけないだろ。先輩と飲むのが嫌なわけじゃなくて、そういうのが面倒くさいじゃん」
「まあ、そうだけど」
芸人同士で食事をする場合、芸歴の長いほうが支払いを持つという暗黙のルールがある。その代わり、ごちそうになる後輩は雑用をなるべく引き受けるのだ。今回の岩名と食事の店も、空が調べて予約した。
「同じ面倒くささなら、給料発生する分、バイトしてたほうがよくない?」
「ベクトルがちがうだけで、それはそれでケチくさいって。それに僕はできればバイトなんてしたくないし。仕方ないからしてるだけで」
「おれもべつに積極的にバイトをしたいわけじゃないよ。でも、いまはバイトイコール生活費だからさ」
「確かに。でも僕はやっぱり、自分では行けないような店でおいしいごはんを食べさせてもらうほうが好き」
「おまえが先輩にかわいがられるの、わかるわ。おまえが素直によろこぶから、先輩はうれしいんだな」
ふたりは駅で別れ、空は荷物を抱えて電車に乗り込む。とりあえず、この大荷物は家に置いてこなければ。
仕事終わりだという岩名と待ち合わせをして、店に向かう。個室のあるちょっといい居酒屋だ。
「俺は若いころ、先輩と飲みに行くならバイトしてたほうがいいって思ってたタイプだから、そらくんもそうなら誘ったら悪いかと思って、なかなか誘うのに時間かかちゃった。俺、小心者だから」
おしぼりで手を拭きながら、先ほど同期の芸人と話した内容と偶然にも同じようなことを岩名が言うので、
「わかります。でも僕は、先輩にごはんを食べさせてもらうのが好きです」
そう主張すると、
「そらくんは言葉がストレートだよね」
岩名は顔をくしゃっとさせて笑う。
「僕は、岩名さんがお忙しいんじゃないかと思って、こちらから誘ったら悪いかと思って、なかなか……なので誘っていただけてうれしいです」
「そっか。じゃあ、これからは遠慮せず誘う」
会話のアイドリングをしながら、ふたりでどんどんアルコールを入れていく。
「そらくん目当てのお客さん多いだろ」
雰囲気が砕けてきたところで岩名が言った。
「でも、みんな顔ファンなんで。あ、自分でお客さんのこと顔ファンて言うのも自意識があれだなって今日、同期と話してたんですけど、お客さんに変わりはないんでそれもありがたいんですけど、わかってるんですけど、もっとネタのほうを評価してほしいというか」
酔いのせいもあり言葉の整理ができていないままに話すので、空の言葉は支離滅裂になっている。
「ああ、そっか。なるほど。いままで一度も抱えたことのない悩みだ」
岩名は空の話を聞き、楽しそうに笑った。そして、
「でも、俺も、そらくんの顔ファンと言えなくもないからな……なんか、ごめん」
くたっとした口調でそんなことを言う。
「え、つまり……岩名さんは僕の顔、好きなんですか?」
「うん。だって、かっこいいじゃん。俺は、なれるものならそらくんの顔になりたいよ」
「僕は、岩名さんはいまのままの顔がいいと思います」
岩名は岩名の顔だからそのままで魅力的なのであって、他人の顔になってしまっては全く意味がない。
「だって、いまのままのほうが、岩名さんぽいから」
焦って当たり前のことを言ってしまった。空は自分の語彙のなさを呪う。
「うん、そっか」
岩名は、顔をくしゃくしゃにして笑った。空の好きな笑いかただ。
「そらくんのネタも、よかったよ。あれから動画サイトで観て。事務所が定期で上げてるやつ。おもしろかった」
「本当ですか」
「うん、でも、俺がそらくんのこと好きだから評価が甘くなってるのかもしれない」
さらっと放たれたその言葉に、空は一瞬固まった。そのまま岩名の顔をじっと見つめる。
「どうしたの?」
自分の発言の重要さに気づいていない岩名は、きょとんとした表情をしている。
「どうもしませんけど、ええと、うれしくて破裂しそうです。ぱつん、て」
「破裂?」
「飛び散っちゃいそうな」
「え、グロ」
他愛のないことを話し、ふたりで笑う。
ひとしきり食べて飲んで話し、店を出てそろそろ解散しようかという雰囲気になったが、なんとなく名残惜しく、
「これからどうします? 岩名さんいつも行ってるお店とかありますか?」
空はこの時間を伸ばそうとそう尋ねると、
「恥ずかしながら、俺もあんま店知らないんだよね」
岩名が少し困ったように言う。あまり無理を言ってもいけないと思った空が、やはり解散するべきかと口を開こうとしたとき、
「そらくん、うちくれば。飲み直そう。こないだみたいに泊まってもいいし」
岩名が言った。
「あ、え……それは、あの、でも……」
先月のあの日のように失礼を働いてはいけないので、できれば固辞したい。だが、もう少し岩名といっしょにいたいとも思う。なので、
「じゃあ、お言葉に甘えて。でも、もう前みたいなことしたりしませんので、大丈夫です。気をつけます」
空はそう念を押して、岩名の言葉に甘えることにした。すると、
「え、しないの?」
思わず、というふうに岩名が声を上げる。
「え、したいんですか?」
空の言葉に、岩名は黙ったまま微妙な表情をしている。どっちだろう、と空はぐるぐると頭を働かせる。
コンビニで買い物をして、タクシーで岩名の家に向かう。タクシーは楽だな、と空は思う。自分も売れたら、タクシー移動が普通になるのだろうか。
岩名の自宅での飲み直しは、ふたりともあまり食べずにアルコールばかり入れていたため、早々に酔っぱらってしまい、なんとなくお開きの雰囲気になった。
洗面所を借りてコンビニで買ってもらった歯ブラシで歯をみがきながら、そういえば、と空は思う。岩名は空のキスを拒もうと思えば拒めたはずだ。見た感じだと身長も体格も、だいたい同じくらいなので、酔っぱらってへろへろになった空に力負けするということもないだろう。
「こないだ僕がキスしたとき、岩名さん、拒まなかったんですか」
歯をみがき終わり、疑問をそのまま口にすると、同じく歯をみがき終わった岩名の顔が明らかに赤く染まった。
「拒まなかった。べつに嫌じゃなかったから」
ふてくされたような声で、顔を伏せながらそう言った岩名に、空は情欲をそそられる。あの日のことは覚えていないが、きっとこんなふうに岩名に対して感じてはいけない欲を抱いてしまったのだろう。
「嫌だったら本気で抵抗してくださいね」
空は言って、岩名の肩を掴み、その唇に自分の唇を押しつけた。
「今日は、舌入れないの?」
そっと唇を離すと岩名が小声で言った。細い目がとろんとしてさらに細くなっている。岩名も相当酔っぱらっているらしい。今度は、意識して深く口づける。アルコールくさくて、お互い髭が伸びてきているのでちくちくする。その感触がなんだかリアルで笑ってしまう。岩名の顔を見ると、無防備な様子で岩名も笑っていた。寝室に移動して、ふたりで倒れ込むようにベッドに入る。岩名のベッドはキングサイズで、成人男性二人が寝てもまあまあ余裕がある。もし売れたら、自分もこういう大きなベッドを買うのだろうか、と空は考える。そうしたら、空の家にも岩名を招待することができる。もう一度、岩名にキスをすると、岩名が幸福そうな笑みを浮かべた。ああ、この顔好き。そう思った瞬間、空の思考は、そこで途絶えた。
「そらくん、覚えてる?」
朝、目覚めると、となりで上半身を起こした岩名に言われた。
「覚えてます」
「昨日は、服脱がさなかったね」
「それって岩名さん的にセーフですか? アウトですか?」
「どうだろ」
岩名はそうはぐらかし、空にシャワーを勧めた。空は素直にそれに従う。岩名の家の風呂はなかなか広い。
「今度、いっしょにお風呂入りませんか」
リビングでコーヒーを飲ませてもらいながら空が言うと、
「やだよ」
岩名は驚いたようにそう言って、笑いながら首を横に振る。そんな軽いやりとりに、空はすっかり舞い上がっていた。
以来、ふたりは毎週のように会うようになる。ふたりだけで飲むときもあれば、他の芸人仲間を交えて会うときもあった。飲み会のあとは、だいたいいつも空は岩名の家に泊まらせてもらった。ゴールデンウィーク中は空のほうが劇場とアルバイトで忙しく、なかなか予定が合わなかったのだが、それが終わると、連休前のようにやはり週一ほどの頻度で岩名に会っていた。
そんな日常を送るなか、飲みの席で向かいの岩名を眺め、空はふと気づく。いっしょにいると忘れてしまいそうになるが、改めて、この人はすごい人だった、と思い出してしまうのだ。テレビ画面のなかの岩名は、やはりすごい。話をふられた際の切り返しや、ワードセンス、相方の由々との掛け合いもおもしろい。岩名は、本来ならば空が簡単に触れられるような人ではない。自分は、こんなすごい人を好きになってしまったのだ。
(3)
六月も終わりに近づいたころ、劇場で思うように笑いを取れないということが重なり、浮かれていた空は一気に地面に叩きつけられた。
空の出演する劇場では、昼のステージはアンケートによる投票でのランキング形式になっており、上位十組の芸人だけが夕方のステージに立てる。空はその週、一気に最下位の十五位まで落ちてしまったのだ。最近は順調に上位をキープしていただけに、空は自分でも思った以上のショックを受けていた。
その日、空の元気があからさまにないので、岩名が気を遣って、いつもよりも早く居酒屋を出た。ビールを一杯飲んだだけで、ほわほわと酔っぱらってしまい、空の歩みはふわふわと遅くなる。
「ちゃんと歩けよ、空くん。置いてくぞ」
立ち止まって振り返った岩名が言った。岩名は、少し歩きたいと言った空に付き合ってくれている。今日はまんまるい月が出ているので夜道は仄明るい。
「置いてっちゃ、やです」
呂律の怪しい声でそう返事をすると、心底弱った、という表情の岩名は、それでも空を待っていてくれる。街灯の下にいて、空の目には、岩名は強く光を放っているように見える。その光に照らされた空の周りには、影しかない。
「岩名さん」
名前を呼んで、シャツの袖口をつかむ。先に行かないでほしい。いっしょに、となりを歩いてほしい。
「いつもは、こんなじゃないんです。一杯くらいで、こんな……」
いいわけのように言うと、「いや、初めて会ったときも、そらくんはこんな感じだったよ」と岩名は笑った。
「疲れが溜まってるんだ。だから、通常時のように、体内でアルコールの処理ができない。若いからって無理しちゃだめだって」
岩名がそんなことを言い、空は岩名の言葉を理解することが億劫で、ううん、と、ただ唸る。袖口をつかんだままのその手を、ぐずる子どものようにゆらゆらと揺らす。
「そらくん。ほら、ちゃんと歩けって。自分が歩きたいって言ったんでしょ」
そう言って、岩名はまた歩き出す。空も慌てて、足を踏み出す。アスファルトがふにゃふにゃしているみたいで、足元が心許ない。真っ黒な沼に、ずぶずぶに沈んでしまいそうな気がして、こわくなる。岩名さん、たすけて。泣きそうな気分で、そう念じる。横顔を見ると、その目はまっすぐに前を向いていた。こっちを見てほしい。自分のことを見てほしい。少しだけでもいいのに。つかんだシャツの袖口は、そのままだ。岩名が振り払わないので、空はそのままでいる。
「僕、今日、岩名さんち行きます。岩名さんち、行ってもいいですか」
「うん、いいよ」
空の言葉に岩名は頷いてくれる。
「飲みのあとは、いつもきてるじゃん。改まってどうしたの」
岩名のその言葉に、
「そばに」
いさせて。そう言おうとして、なにかがちがうような気がした。いさせて、はちがう。いてほしい、だ。岩名に、そばにいてほしい。自分が。
「岩名さん」
「うん」
立ち止まって、岩名は空を見た。
「今日はへとへとのくたくただな、そらくん。満身創痍って感じ」
優しげな声が、夜風に溶けこんで空の耳に届く。
「そばにいてください、今日は」
ずっと、とは言えず、岩名の袖口をつかんだ手に力だけがこめられる。
「うん、いいよ」
岩名は短く言って、袖口をつかんでいる空の手を引っぺがし、その手をそのまま握った。
「行くぞ」
「はい」
言われて、従順に返事をする。岩名に手を引かれて歩く夜道。夜道を照らすのは岩名なので、空は、岩名の放つ強い光について行くしかない。追い越せないのなら、ついて行くしかない。となりを歩けないのなら、ついて行くしかない。
「岩名さん」
「うん」
「僕、もっと、ちゃんと、しっかりしたいんです」
空の口から出る言葉は、いまの空の思考そのままだ。
「僕はもうずっとだめで、だけど、岩名さんはずっとすごくて、僕はなんにもできてなくて」
「支離滅裂だな、そらくん」
「僕、いちごカルチャーを初めて見たとき、すごいって思って。感動したんです。だから芸人になろうって思って。なのに全然だめで」
「え、ちょっとそれは初耳。いつのなにで観たの?」
「大学のときの、学祭で」
「それ、いつごろ?」
空は回らない頭で、自分が十九歳のときだったか、と考え、「たぶん、六年くらい前です」と答える。
「てことは、俺、二十六くらいか。え、そのとき、いちごカルチャー全然売れてなかったでしょ。よく覚えてるね」
「おもしろかったから。僕んち、なんか妙に厳しくて、テレビとかニュース番組以外はあんま観せてもらえなくて、僕、学祭で初めてコントっていうか、お笑いみたいなの観たから衝撃で」
「未知との遭遇だ」
「僕も、あれやりたいって思ったのに」
「そらくん」
「なのに、全然……」
「そらくん」
岩名は無理矢理空を立ち止まらせて、慌てたように顔を覗き込んできた。
「そらくん、泣いてるじゃん」
言われて初めて、自分が泣いていることに気づく。
「そらくんは、よくやってるよ。ひとりでネタつくって、ひとりでステージに立って、ちゃんとがんばってるじゃん」
至近距離、必死な様子で岩名が言う。繋いだ手はじっとりと湿っている。どちらの汗なのかわからない。たぶん、自分のものだろうと思うけれど、もしかしたら岩名のものかもしれない。
「がんばるだけじゃ、どうにもならないんです。結果を出さないと」
「まあ、そうなんだよね」
岩名があっさりと認め、空は絶望したような気持ちになった。
「とりあえず、今日はゆっくり休め」
空は首だけでうなずいて、
「手つないでくれて、うれしいです」
ありがとうございます。礼を言うと、岩名は少しだけ笑った。岩名の笑った顔が好きだ。空は、光を放つようなその顔に見惚れてしまう。いつもいつも、見惚れてしまう。
「たまにはこういう日もあるよ。疲れたら休めばいいじゃん」
岩名は言う。
「休んでたら忘れられちゃうじゃないですか」
「……うん、まあ、それもそう。この業界ってそういうとこある」
岩名は諦めたようにそう言い放った。
「そらくん、さっきから正論ばっか言う。俺、弱った後輩芸人を元気づけるの初めてだから、どうしたらいいのかわかんないよ」
「じゃあ、僕を慰めて、後輩芸人を元気づける練習してください。きっと岩名さんのこれからの役に立ちます」
「なに、えらそうに。結構、元気じゃん」
ほっとしたように岩名が笑うので、空もやっと笑った。泣きながらではあったけど。
「忘れられちゃいけないから、ちょっとずつ休もう。とりあえず今日は、いっしょに風呂入って、いっしょに寝よう」
そう言って笑う岩名は、やはり眩しくて、とても手が届かないように思えるのに、いまこの瞬間、空と岩名の手は繋がっている。そうか。自分はいま、普通に幸せなんだ。そう思ったとき、絶望はどこかに消えてしまい、ふにゃふにゃだったアスファルトが、しっかりと地面を固めた。
「帰るぞ、そらくん」
岩名が言う。
「はい」
空は返事をする。繋いだ手は、やっぱり、じっとりと湿っている。
「あの。さっきの、岩名さん言ってた……あの、本当にいっしょにお風呂入ってくれるんですか」
空は岩名が先ほど、さらっと発した言葉が気になっていた。
「そらくんが嫌じゃなければ」
「嫌じゃないです。いっしょにお風呂うれしいです」
「それはよかった」
「でも、他の人を慰めるときにはそういうことはしないでほしいです」
「するわけないじゃん」
へとへとのくたくたに弱っているはずなのに、風呂のことを考えたら股間に血液が集まってしまう。情けない。
「見て、そらくん。満月」
そんな空の様子に気づかない岩名は、邪気なく夜空を指差した。
「六月の満月は、ストロベリームーンっていう」
「赤くないのにですか?」
「うん、いちごの収穫時期の満月だから」
「なんでそんな雑学知ってるんですか」
「まだ全然売れてないころに、そういう企業イベントにコンビで呼んでもらって、司会とかしてたから。ほら、コンビ名がいちごカルチャーだろ。ただそれだけの理由で呼んでもらってた」
「そっか、いちごカルチャーだから」
「なにが仕事に繋がるかわかんないもんだよ」
岩名の家に到着し、我慢できなくなった空は、玄関先で岩名にキスをする。
「そらくんのキスは、いつも酒くさいよね」
岩名が言った。
「じゃあ、次はシラフでさせてもらいます」
冗談交じりの空の言葉に、
「うん。楽しみに待ってる」
岩名はそう返した。
「楽しみなんだ」
思わず、敬語を忘れてそう言った。
「楽しみだよ」
岩名は意地悪そうに笑う。
その夜、岩名は本当に風呂にいっしょに入ってくれた。空は心臓が破裂するかもしれないと思いながら、なにも身に着けていない岩名の姿を凝視してしまった。
「あんま、見んな」
岩名の言葉に、慌てて視線をそらす。
今夜は眠れないかもしれない。そう思っていたが、ベッドに入ってゆるゆると岩名の身体をさわりながら、空はすとんと落ちるように眠ってしまった。
朝、思ったよりもすっきりと目覚めた空は、スマートフォンで「ストロベリームーン」を調べてみる。ストロベリームーンの企業イベントとはなんだろう、と思ったからだ。岩名のいいかげんな説明と同じような内容の記事がヒットし、それとは別に、「好きな人といっしょに見ると結ばれる」とも書いてあった。そのジンクスにちなんで恋愛成就イベントなどを開催する企業があるらしい。
岩名は、このジンクスを知っていた。知っていて、空に六月の満月を見せた。
となりの岩名を見ると、幸福そうに寝息を立てている。
(4)
「そらくん」
自分を呼ぶ岩名の甘い声で起こされて、
「おはよう、そらくん」
眩しそうに微笑んだ岩名が、空の額にキスをしてくれた。夢じゃなかろうか、と思った。夢だった。
「ありえない」
覚醒して呟いた第一声がそれだ。
七月に入った。劇場のランキングでは、空はなんとか十位内をキープしており、夕方のステージにも立てている。なるべく無理せず目の前の仕事をこつこつとやり続け、先日はネタ特番のオーディションにも受かった。順調といえば順調だ。相変わらず、岩名との特殊な交流は続いていたが、素面でのキスは実現していない。それだけは、なかなか順調とはいかず、空は大事なことをなにも言葉にしないまま、岩名との関係を続けていた。
となりを見ると、無防備に寝息を立てている岩名がいる。裸に近い状態で、岩名の部屋で、岩名のベッドで、岩名のとなりで目覚める。この状況だって、本来ならばありえないことだ。だが、空はそのありえない状況を毎週のように享受していた。起きているときよりも幾分か幼く頼りなげな岩名の寝顔をうっとりと眺めて、夢みたい、と思う。なりゆきと言ってしまえばそうなのかもしれないが、一応同意の上で、ときどき、ふたりでじゃれあうように少しだけいやらしいことをする。とはいえ、それはせいぜいキス止まりで、いつも決して一線は超えない。無意識に自分にセーブをかけてしまっているのかもしれない。岩名からなにか決定的な言葉があったわけではないし、空からも直接的な言葉は口にしていない。お互い大人なのだから、そういうものなのかもしれないが、やはりちゃんと言うべきなのだろうとも思う。
だが、おそらく空はこわいのだ。自分の気持ちをそのまま言葉にして全力投球することが。言葉にするよりも、情欲に従っていたほうが容易い。十代のころなんかは、恋愛に対して全力投球だったように思うのに、いつの間にこわいと思うようになってしまったのだろう。だけど、空が岩名に触れるたびに、岩名は普段絶対に見せないような甘やかな表情を浮かべるので、そんな顔で見つめられたら、たまらなくなって、思わず本音をぶつけてしまいたくなる。その時の岩名を言葉に起こすなら、やはり「幸福そう」だ。あんな顔をされたら、自分がすごく「いいもの」になったような気がしてくるから不思議だ。岩名にとっての「いいもの」に、空はなりたいと思う。きっと、そういうことを伝えればいいのだろうが、なぜだかうまく言葉にできない。もやもやして、イガイガして、空はまた、岩名のあの表情を見たくなる。空のキスを受けて「幸福そう」な岩名を見たくなる。くりかえしだ。自分の気持ちをちゃんと言葉にしないまま、岩名を消費してしまう。空は自分のことを、卑怯で不誠実だと思う。
岩名からは絶対にこういうことをしてくれないだろうから、と空のほうから岩名の額に、ちょん、とキスをしてみた。すると、平らかだった眉間にみるみるしわがより、岩名はうるさそうに、てのひらでごしごしと額を擦ったのだ。眠っているときのこととはいえ、虫に刺されたみたいな反応に地味にショックを受ける。僕のキスは虫か。
少し笑って、ベッドから抜け出し服を着る。時間を確認し、一旦家に帰って着替えよう、などと考えていると、
「そらくん?」
「はい」
呼ばれたので、返事をする。ベッドのほうへ顔を向けると、眠たそうな顔で身体を起こした、岩名の裸の上半身が目に入る。
「もう、行くのか」
「はい。岩名さんはゆっくりしててください」
空は今日も劇場とアルバイトがあるが、岩名は今日は休みだと言っていた。
「そらくん」
岩名が、空に向かって両手を差し出した。
「え?」
なんの動作だろう、と戸惑っていると、
「おいで。だっこしてやる」
岩名が言った。耳を疑った。岩名の口から、発せられるはずのない言葉が発せられた。
だっこ? 固まってしまった空に、
「いらないなら、いいよ」
岩名は差し出していた両手を下げ、もそもそと布団をかぶってしまった。
「や、待って。いる、いります」
慌てて言うと、「もう遅い。時間切れだ」と笑いを含んだ声が返ってきた。
「そこをなんとか」
空も笑いながら、布団にくるまった岩名にすがりつくようにして甘えた声を出す。
「岩名さん、だっこ」
岩名は、ゆっくりと身体を起こし、
「ん」
空に向かって両手を伸ばした。そのまま空の首の後ろに腕をまわすと、頭をぐっと自分のほうに引き寄せ、かき抱く。いいこ、いいこ。そんな感じで頭をなでられると、自然と涙がこぼれた。自分の肩口が湿ったことで異変を感じたのか、岩名は空の頭を抱いていた腕を解き、「どうした、そらくん」と顔を覗き込んでくる。
「わかりません。たぶん、うれしくて」
空の返事に、岩名はほっとしたようだった。前もそうだったが、自分が泣くと岩名は心配してくれる。そう思うと、また涙が出た。
「岩名さん、岩名さん」
空は岩名にしがみついて、泣きながらその名前を呼ぶ。
「おい、そらくん。本当にどうした。こわい夢でも見た?」
子どもじゃないんだから、と首を振ったが、岩名はいたって真剣な様子だ。それに、空がいましていることだって子どもがぐずっているのとなにも変わらない。
「なら、なにかまたしんどいことでもあった?」
岩名はあやすように空の背中をぽんぽんと軽く叩きながら言う。
「岩名さんは、僕のこと」
口走ってしまったのは、そんな言葉だ。慌てて口をつぐむ。自分の気持ちも満足に言葉にできないくせに、先に相手の気持ちを確認したがるなんて、ずるい。情けないにもほどがある。
「そらくんのこと、好きだよ。だから、安心しろ」
岩名の声が、空の耳もとで甘くやさしく響いた。
「ひえっ」
空は悲鳴に近い声を上げてしまう。しがみついていた身体を離し、岩名の顔をまじまじと見つめた。
「なんだ、その声と顔は」
岩名は不服そうに眉根をよせる。
「いや、意外で」
「俺がそらくんを好きなことが、そんなに意外か」
「というよりも、そんなにあっさり言ってくれるとは思わなかったんで……」
「あっさりなもんか。勇気をふりしぼったんだぞ、これでも」
岩名は怒ったように言う。
「俺は、そらくんよりだいぶ年上だし、そらくんはこれからの人だから。俺がそういう若い人の未来を独占しちゃいけないんじゃないかと思って、なかなか言えなかったけど」
「年齢なんて関係ないです」
反射的にそう言った空に、
「それは、そらくんが若いから言えるんだって」
岩名はそう返し、
「でも、やっと言えた。すっきりした」
顔をくしゃくしゃにして笑う。
空は、決定的な言葉を岩名にのほうから言わせてしまったことを、申し訳なく思う。そして、それ以上に、岩名が自分のためにふりしぼってくれた勇気に空は歓喜し、浮かれていた。
「どのくらいですか?」
「ん?」
「僕のこと、どのくらい好きですか?」
調子に乗って尋ねる空に、
「……面倒くさいやつだな、そらくん」
岩名は呆れたように言う。
「そんなの、もう知ってるでしょう」
そう言うと、それもそうか、と納得して、岩名は少し考え、「夢に見るくらい」と言う。
「夢? どんな夢ですか?」
岩名も、今朝空が見たような夢を見たりするんだろうか。そんな淡い期待を抱いていると、
「そらくんがなあ、コオロギをくっつけるんだ。俺のおでこに」
その答えに絶句してしまう。もしかして、空が岩名の額にキスをしたとき、そんな夢を見ていたのだろうか。
「やだったなあ、あれは」
「あの、なんか、すみません」
思わず謝ってしまった。やっぱり、あのキスは虫だったらしい。そう思うと、おかしくなる。それはさておき、「あの、いまさらですけど」と空も、岩名の気持ちに応えるべく、勇気をふりしぼって口を開く。
「実は、僕も岩名さんのこと、好きなんです。大好きなんです」
夢に見るくらい、大好きなんです。
「本当、いまさらだけど」
岩名はそう言って、再び空を抱き寄せて頭をわしわしと撫でてくれた。
「知ってたよ」
岩名の声と鳴り止まない心臓の音を、空はそのこめかみに聞く。
「ストロベリームーン、またいっしょに見てください」
「うん。来年の話?」
「ストロベリームーンを好きな人といっしょに見ると結ばれるって」
「うん、知ってるよ」
岩名は言い、「だから、そらくんといっしょに見れてよかった」と続けた。たまらなくなった空は岩名から身体を離すと、その肩を掴み、岩名にそっと丁寧に口づける。
「僕、いま、ちゃんとシラフなので」
そう言うと、岩名は幸福そうに笑い、「でも、まだ酒くさいよ」と言う。
了
ありがとうございました。