榎本武Ⅵ
人の法より神の法
客人を守るために自分の娘を差し出せ、贄のために息子を殺せ
それこそが最上の善である
街外れの廃劇場、そこに武とオリヴィアの二人はやってきていた。時刻はもう夜中の3時である、魔が蠢く時間帯だ
「ようやくついたのか、長かった」
「…全く、つくづく使えない下僕ね。堕天使固有のSAVの感知もできないなんて」
任務になると問答無用で堕天使の付近まで飛ばされるが今回は少し事情が違った。手違いか少し遠くに飛ばされたのである。敵の存在を感知できるオリヴィアがそこまで離れてはいないと察したからよかったものの、トラックが行きかう国道のど真ん中に転移されたときは本気で驚いた。一人では路頭に迷っていたところだ
「ここ、隣町じゃないか」
劇場の入り口には小さく〇〇市劇団と掠れた文字で書いてあった
(妙だな)
最初こそなぜか最寄りの白宮駅に飛ばされたものの、基本は日本のどこか訳も知らない土地に転送される。ここまで近くに任務が発生したのは一回目のアラエル討伐以来である、武は何か胸がざわつくのを感じた
「よかったわね、早く帰れるじゃない。これでまた朝帰りしたら親や妹に今度こそ体を売ってると思われるわよ」
「…」
武は基本的にオリヴィアとは会話しないようにしている。この少女は口を開けば苛烈な罵倒か陰湿なセクハラばかりで同じ空間にいるだけで疲れるからだ
「お前って、どういう育ち方をしたらそんな頭の悪い飛躍ができるようになるんだ?おれの家族が夜中抜け出しただけでそんな発想するわけないだろう。お前は普段からそうだ、さもそれが社会の常識かのように言うが馬鹿特有の視界の狭さでそう見えているだけで、普通の社会とは何もかも違う。前提から間違っているんだ。誰もが自分みたいにニンフォマニアだと思うなよ」
だがこの日は違った、一日の不備が多くて特段いらだちが募っていたので少女にぶつける形で侮蔑する。やらっれぱなしは癪だった
「あら、言うじゃない。ねぇ、なら普通ってなに?お前のいう普通の家庭は父も母もいなくて、夜中妹と姦通するような関係を表すの?」
一瞬で顔が青くなる武。いつものように殴られるだけだと思っていた武だったが口にされたのは一番知られたくない自分の秘密だった
「なんで、お前、どこまで知って…」
「あら。下僕の家庭環境なんて知ってて当然でしょう?カメラくらい仕掛けるわよ、異母兄妹にさんざ犯されて、虐待までされてそれが“普通”なんだから」
「良かったわね。大切な家族が気持ちよさそうで、けど首絞めプレイはほどほどにしたほうがいいわよ。あの様子だと、いくら頑丈でもいつか本気で殺されちゃうわね。私と違って愛でても治せないんだかから」
武は頭が真っ白になって、恥辱で顔が真っ赤になって早くこの女を消さないという衝動に駆られた
「この野郎...!!」」
オリヴィアに向かって本気で殺意をぶつける。刹那で抜刀すると、その黙らない口を切り落としてやると意気込む。だが聞こえたのは違う女の悲鳴だった
「キャァァァァァァァァァァァァァァ!!!!」
劇場の中から聞こえる、心底恐慌しているような女の声。急を要しそうだった。おおかた堕天使絡みの生命の危機だろう
武はオリヴィアに眼もくれず即座に方向転換すると女性の救助に向かった
「なに逃げるの?オカマ野郎」
「うるさい!」
怒りのまま錆ついた扉を開ける、ギシギシと不快な鉄の擦れる音が響いた。埃っぽい劇場内は暗くてよく状況をつかめなかったが鼻につく悪臭の正体はすぐにわかった
煙草だ。大量に捨てられた吸い殻が周囲のゴミと密閉された空間と相まって非常に煙たくなっている、特に嫌煙家なわけでもない武もこれには顔をゆがめる
どうやら、この廃劇場は不良やホームレスの集会場となっているらしい。かつて栄光を誇ったであろう、華美な仕上がりの紅い場内も、埃とこびついたヤニ、落ちたコンドームやガムで見る影もない
見るにも不快だったので悲鳴につられてさらに奥に進むと、舞台の上に発生源である若い女性がいた。同じ高校生くらいで今にも集団のヤンキーたちに回されようとしている
「おい!」
できるだけ露になった肌を見ないように声をかけると、一斉に反応する凶悪な外見の青年たち。薬物でもキメているのか所々目が逝ってしまっている者もいた。何やら魔術めいた儀式をしていたのか、劇場の上では動物の死骸や魔法円や蝋板なんてものもみえる
「なんだお前」
リーダー格の豚面の男は武が一人でわかると即座に舞台を降りて胸倉をつかんできた。有無を言わさずアッパーの拳を決めてやると、全員襲い掛かってきた。ナイフを持っている者もいる
武は無言で一人一人処理していくと不良の一人が今度は銃を取り出してきた。武も呼応するように虚空からリボルバーを生成する
「あぁ!?てめぇどっから」
驚いた鼻っ面に肘を決め込むと、鼻血を噴出して気絶した。残りの武器を持った輩も恐ろしく弱い
これが暴力か、と武は心から感慨した。そうだ、いつもこれに支配されてばかりだったが今では自分が振るえるじゃないか。あの時みたいに敵を消せるじゃないか
募りに募った疲労が解消していくのを感じた。そうだおれは強いんだ、もう虐げられるだけじゃないんだと
「ははは」
笑いながら青年たちを嬲っていく、全員ノックダウンさせたところで鉄パイプを創造してひたすらに殴りつけた
「あぁ、気分はどうだ下衆ども。お前たちの弱者を貪る道楽は伝染病なんだ。放っておくだけで周囲を腐らせる唾棄すべき破滅なんだ」
だからこいつらはここで再起不能にする。これ以上被害が広がる前に、オリヴィアや父親のような悪逆無道の輩が増殖する前に
「これでお前たちの業もこれまでだ」
だがリーダの男の右腕を打撃でへし折ろうとしたタイミングで急激に脱力する
「なっ!?」
「いまだ、かかれ!」
よろけたところを正面から二人に体当たりされ、衝撃で床に倒れ伏してしまう。何が起きたと振り返るとオリヴィアの憎たらしい微笑みが目に入った。力を没収されたのだ
奴に対する怒りを膨れ上がれさせる前に靴裏が顔面に飛んでくる。すんでのところで回避したが第二の蹴撃は腹に直撃した。一瞬で内臓が縮み上がるような痛み。いつだったかのスパイクで舐られたそれより苛烈だった
「ゲホ!」
「よくもやってくれたな」
不良たちは先ほど少女を犯す前のような狂喜した様相に変わり始め、世にも陋劣な興奮の声を上げながら動けなくなった武を捕縛していく
「これより遊蕩を行う。紳士の皆さま方、さぁさぁ“お勃ちあい”」
「あぁ、女ってのは不思議なもんで、暴力を振るわれたら全力で抵抗する癖に目的が“それ”だとわかったら急に身が竦んで、非力な無能になっちまう」
「殺されるより、犯される方が嫌なのか?チンケなプライドが影響してるのか?あぁ!?」
「俺がお前を女にしてやるよ」
男たちはさんざん武をリンチすると履物をおろし、この世のものとは思えないほど醜怪な下疳や膿疱、潰瘍やらに罹患した梅毒極まりない下半身を露呈させるとスーツを裂こうとしたがそれがなかなか何かに保護されているように傷つけられず、痺れを切らしたのかそのまま直接入れようとする
そんな馬鹿なことが通用するはずがない、いつものように目を瞑って苦痛と屈辱にこらえようとする武だったがいつまでたっても衝撃が来ないことに気づく、すると男は、いや男たちは青白い炎の環の中でぐにゃりと歪んでいた
「んだこれ?体がメキメキ割れていくよ…」
「あ、あ、あ、あ!」
ぐるぐるとマイマイのようにその肉を回しながらソーセージ状になっていく元人間たち。突然のことで武も何が何だかわからなかったが、オリヴィアだけが事の真相に気づいていた
「来たわね、大逆者が」
時空が、歪んでいく
「
我を過ぐれば憂ひの都あり、
我を過ぐれば永遠の苦患あり、
我を過ぐれば滅亡の民あり
義は尊きわが造り主を動かし、
聖なる威力、比類なき智慧、
第一の愛我を造れり
永遠の物のほか物として我よりさきに
造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、
汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ」
【地獄の門よ、開け】
虚空から鶏の体に首の異様に長い髭面の死体が現れた。戦慄するような疎ましい外見とは裏腹にやけに高い声で鳴いている。最初こそ鶏鳴にしか聞えなかったが徐々に事態が現実味を帯びていくにつれて男の声の内容もおぼろげながらつかめてきた
【常に悪を欲し、喚起せよ、されば黄金の夜明けが訪れん】
悪魔か、堕天使か、その判断すらどうでもいいと思えるほどその存在の強大さは肌に感じる悪寒でわかる。対峙しているだけで魂を抜き取られるかと思えるほどだ
「奴はアリトンね。水を司る強力な悪魔だわ、連中黒ミサの真似事もしていたみたいだけど、守護天使もなしに悪魔を使役するなんて、自殺行為を通り越して、コタール症候群を患っていたようなものね」
「御託はいいからさっさと力を返せ!」
麻痺したように動けなかった体がすっとまるで翅が生えたかのように軽くなる。実際に翼を展開して、空中に踊りだすと左手に持った神器で光線弾を悪魔の左目に撃ち込んだ
この神器。オリヴィアは「タクティカルランス」と言っていたか、最初の武器、スキャン型ピストル「タクティカルアナライザー」の上位互換とされるが性能は全く別物だ
「タクティカルアナライザー」は即死させる攻撃性能が売りだったがこの機構型の光線銃は%を溜める必要がなく高強度の陽子レーザーをばらまける
リチャージには時間がかかるが、堕天使の出鼻をくじいて怯ませるのは無二の強みを誇る。エネルギーの塊を食らってよろけた所を加速したまま顔面を蹴り上げた
「動くな」
四方から鎖を出現させ雁字搦めにすると悪魔はその虚無の瞳を見開いたまま大きく口を開けて断末魔のような悲鳴を上げた。周囲が血のような紅に染まっていき、武は精神を揺さぶられた挙句轟音の波動を直に食らい吹き飛ばされた
「かはっ!」
頭のてっぺんから足のつま先まで何かが流れ落ちるような冷たい感覚、どうやらあの絶叫で呪詛をまき散らしたらしい。血がどんどんと流れ、そのまま腐っていく。不潔だった空間は不吉な呪術と赤黒い血で更に不浄に染まっていった
「まだだ!」
抜刀し、今度はその長い細頸に切りかかるも、また絶叫にあおられ弾き飛ばされる。今度こそ鼓膜が破れ、耳から血が噴き出した
何も聞こえず、朦朧とする思考。だが武はあきらめてはいなかった。自分の権能を、最強たる創造の能力を信じていたから
(こっちにこい!!)
ただ無為に血を垂らしながらさながら走り回る。まるで餌のようだったが、実際これは釣り餌だ、奴を引き付けるための罠
この呪詛空間の中では時間をかけるだけで不利。しかし積極的な攻勢も無意味であるならやはり待ちの姿勢に入るしかない。だが奴は浮遊していて足元の小細工は無意味、ならどうするか
答えは、爆破である
カウンターするにも奴自身が近づいてこない限り不可能なので、このまま待っていれば勝てる相手は接近してはこないだろう。そこで餌としての価値を上げる。どうやらあの悪魔は祭壇を見る限り供物に動物の血を要求していたりと血にご執心のようなのでこのまま負傷した状態で逃げるだけでいい
この鮮血の空間が領域上になっているなら必ず終わりがある。獲物がせっかく自身の巣に入ったのにみすみす逃す捕食者はいないだろう、必ず追ってくるはずだ
(来た!!!爆破だっ!)
全身血だらけでもう虫の息の命、絶叫一つだけで鎧袖一触する相手だと思ったのだろう。刀による反撃も弾き返すような勢いで突貫してきた。まさか自爆覚悟で打ち負かしに来るとは思っていなかっただろう
一つの星屑が炸裂した途端、連鎖する爆破音。武は悪魔の凶相をとらえたのを最後に足元にプラスチック爆弾を大量に生成し爆破した
失っていく血液と早鐘のなる心臓の中、もうすべてがどうでもよくなっていたのかもしれない。過去の罪も蝕まれるだけの現在も、もううんざりだった
人の気持ちを顧みない人が苦手で、力でものを言わせようとする放蕩者が憎くて、そんな連中に食い物にされている自分が嫌いで、気づいたら雷管を握っていた
暖かいような、冷たいような、そんな正も死も曖昧な炎に包まれたまま、悪魔のもだえ苦しむ顔を見て武は満足そうに消えていった
(あぁ、おれは、ぼくはここにいたよ。お父さん、お母さん)
あぁどうか来世なんてものありませんように、ただ滅びゆくだけの価値しかないのだからいっそ初めから生まれてこない方がマシなのだ。
***
「また、”逃げるの”?全く、手間かけさせるわね。まだ理解してなかったなんて」
死とは解放である。リィンカネーションというプログラムの性質上、武はオリヴィアとは何度か死について語り合ったことがある。たとえ永遠に神に囚われたままでもお前のような畜生の奴隷になるくらいなら今すぐ自殺した方がマシだと
そういうとオリヴィアは微笑みながらもし自殺をしたらお前の親族と友人全員を殺すと武に宣言した。彼女が人を殺すことも、命を壊すことも息を吸うように簡単にしてしまうことを彼は知っていた
そこで先日機嫌を損ねただけで殺された可愛がっていた野良猫を思いだし、妹があのように内臓を露呈させて息絶えることを思うと、あれだけ憎かった気持ちもすっとなりを収め、オリヴィアに服従した
「そうそれでいいのよ」
その日終始この少女は上機嫌だった
最後の懺悔すら敵わず、少女の稚い声が響く
「お前はあたしの物なのだ。人形のような顔をしているのだから捨てるも愛でるもあたしが決める。勝手に逃げることは許さない」
不都合な未来は削除された。命は目覚めて再び時を紡ぎだす
武が目覚めたとき、ことはすべて終わっていた。眼前には二人の少女、二人とも制服を着ていた。片方は聖啓学院のボレロを、もう片方は初めて見るブレザーを着ていた
オリヴィアと助けた女性だった
「なんで…」
「あのっ、助けていただいてありがとうございました」
「なんで…」
「よかったわね武。この子、何かお礼がしたいそうようよ。不出来なお前には勿体ないほどの可愛い娘じゃない」
「そうじゃない!なぜまだ生きてる…!!!お前、いったい何をした」
「…」
死に至る病とは絶望のとこだ。現実での絶望は有限のうちに沈むが、この有限性の絶望は罪である。神の前で自分の弱さに閉じこもり、神からも自己からも逃避することは真の罪だからである
武は現実を直視できず引きこもった過去が何回もあった。そうして今回も、自殺という安易な解放の手段を使って逃げおおせようとした
だが、それは悪なのだろうか
人間が悪と呼ぶ働きのすべては根源的な意味においては善である
神は人を罰するために地獄から死と罪という概念を送ったが、この二つの概念は“悪”ではない。否定の力に属する働きのある概念は生成、創造の力と対局にあり、その生み出すという行為は、必然的に滅びをもたらすことになるという意味では、必ずしも絶対的な善であるとは言い切れない以上、それが絶対的な悪とは言い切れないからである
無意味な生成の繰り返し、滅びへと回帰するだけの苦悶の檻から抜け出して永遠の安息を得ることはむしろ根源的な意味においては善なのだ
だがすべてが誤算だったのは死や時間すら愚弄する超越者が近くにいたことだ。それこそが少年の不幸の始まりだったと言えよう
「熾天使ミカエルの眼は、未来が見えるの。それでお前が死ぬ未来を見て、過去からその時間を破壊したわ」
「一部の出来事を消すだけもできるからお前がアリトンを爆殺して、“道連れになって自殺した”の事象だけを消去したわ。これでお前はこの時間軸では華麗に悪魔だけを爆破して、余波からは抜け出したヒーローになってるわよ。めでたいことね」
体が戦慄いて、うまく声が出せなかった。前提がひっくり返ったような気がして、すべてが瓦解した。死すらこの女の前では無力なのか
「それで…連絡先を交換してほしいんですけど、RINEってやってますか?もしくはフォトグラムでもいいんですけど」
「最も、この子も悪魔が出た瞬間からその事実は消しているから、ただ暴漢を退治しただけにしか見えないけどね。でもヒーローはヒーローよ」
武はすべてがどうでもよくなってナイフを首に突き刺した。一発で絶命できず苦しかった。それを、繰り返した
何度やっても過去に戻った。発狂するフリをしようとしたがそれもやめた。狂うにも体力がいる。ただ、逃げたかった
「武さんっていうんですね、かっこいい名前。あたしは凛っていいます、三滝凛」
「あぁ…」
「また…会えますよね?毎晩連絡するので予定があったらどこかで二人で遊びにいきましょう、では本当にありがとうございました」
そういって頬を赤く染めた少女は薄暗い劇場から消えていった。そんな光景を見て武はすさまじいほどの吐き気に襲われて、吐いた
不気味な光景だ、不気味な光景だ、不気味な光景だ、不気味な光景だ
ぶきみだぶきみだぶきみだ
“だってあの少女は悪魔に巻き込まれて死んでいる”!!!!!!!!!
隣の女が、女が、この世界はなんだ、ちゃちなプログラムの中なのか?シミュレーション仮設か??だとしたらこんなクラッカーが存在していいのか
あぁ、死にたい
オリヴィアはどこまでも莞爾と微笑んでいた、武は何かが吹っ切れて棒切れのように思考しなくなった
「実は、さっきの悪魔はちょっとしたアクシデントで、実はこの先に本丸がいるのよね。ついてきてくれる?“あたし”の執行者」
「はい」
武はオリヴィアの手を取ってどこまでも闇の中を進んでいった