榎本武Ⅳ
月下の自然公園。夜12時を過ぎるころには人一人いない静謐な空間へと変わるはずだが今宵は苛烈な戦闘が繰り広げられていた
緑地に開いた巨大な穴、そこから這い出てくる夥しい数の蜘蛛型の異形。それを男女二人が、いや男一人が抑え切ろうと努力していた
「はぁ…はぁこれで33匹目…本丸の王と巣は爆破したのにまだ出てくるのか」
「狩りにもだいぶ慣れてきたじゃない。一匹一匹は話にならない雑魚とはいえ短時間でここまで駆除できるのは大したものよ、そろそろ壊滅まで追い込めるわ」
「お前もそろそろ手伝ったらどうなんだ?」
「は?いやよこんなキモイ虫なんて触りたくない」
お前の武器なら肌一つ触れることなく殲滅できるだろうが、と口にしたくなる武だったがこの唯我独尊をいく女に言ってもまた殴られるのがオチだと思ったため控える
そんな味方もいない状況で心労と疲労が募る武を蜘蛛たちは最後の抵抗とばかりに包囲する。武はうんざりするように顔をあげると手にした日本刀を瞬時に抜刀したのち太刀裁きで一斉に攻撃してみせた
向上した身体能力が齎した名人の如き居合術。刀の抜群の切れ味と執行者の膂力と相まって蜘蛛どもの頭部が切り離されていく。青い炎が武の肉体に収まった
明確な成長。オリヴィアと共闘もとい、執行者の務めを始めてからこれで一か月目、堕天使と戦うのはこれで八回目である。毎回死地を経験しながら碌に協力してくれる仲間もいないなか武はここまで生き残ることができた、腕が上がるのも当然である
「運が良かったわね。あんまりにも軟弱そうだったからすぐにでも死んじゃうと思っていたけど、強力な権能に感謝しなさい」
「ハァ…ハァ…、そりゃ…どうも」
息も絶え絶えで地に横たわる武。傷はそこまででもないが疲労が深刻だ、最近の堕天使との連戦でもう休む暇がない。ひとつ物を“創造”するのにも体力を使うのである。口内に広がる鉄の味は過労によるものだとすぐわかった
「その刀は大事にしたほうがいいわよ。咄嗟に作った武器のくせになかなかどうして業物、失ってもまた同じものが創れるとは限らないわね」
「そうか」
「それにしてもずいぶん必死で戦ってたじゃない。傍から見ててもすぐわかったわ、何かを守るために戦ってるって」
オリヴィアは不思議そうにその嗜虐的な鋭い目を細めて武を見る
「…この横山自然公園は、近くに神社があるんだ。あんまり派手に暴れられたらそこが壊されてしまう。それを防がないといけないと思ったら自然と刀が創れた」
「立派な信仰心だこと、宗派が違うとはいえ神を想う気概はあるようね。存在が罪しかない堕天使のくせに」
「一応、ミッション系の学校に通ってるからな」
学校。この後すぐ起きて高校に行かないといけないと考えると凄まじい憂鬱が武を襲った、サボルか考えるかぐらいだが中学から引継ぎの成績や出席単位が危ういので出ないといけない
「日本は自由でいいわね。洗礼を受けてないのにカトリック教義の高校に通えるなんて
「外国が異常なだけだろ」
他愛ないやり取りをした後、ゲホゲホとせき込みながらさっさと帰ろうとする武。だがオリヴィアは逃がさないとばかりに瞬時に武を押し倒して首を絞める
(ぐっ、さっきまで退屈そうに寝っ転がってたのに…ここだけっ!!)
「いつものSAV値の回収がまだ済んでないわよねぇ。逃げるんじゃないわよ」
「…ならさっさとやれよ」
オリヴィアに濃厚な口づけをされる。武はSAVの引き渡しの時間が苦痛でしかなかった、好きではないどころかむしろ嫌いな女に舌を入れられたキスをされるのだ。それは舐られるようで口内を蹂躙されるようで、どんどんと抜けていく酸素と相まっていくら美少女とはいえきつい。犯されているような錯覚を受ける
それが屈辱的で仕方なかった。しかし、いくら抵抗しても力で勝てないのはわかっている。武は首を締めあげられる苦痛と口をふさがれる苦しみに耐えながら長い髪をかき上げながらおいしそうに口腔を吸い上げる彼女を見上げるしかなかった
「ゲホッゲホッ!」
「ぷはっこれは堕天使の遣いね。そこそこ力のある悪魔群だったけれど増殖性に目をつけられて堕天使に支配されたみたい、哀れねー」
暫く酸素不足と首を絞められた痛みにあえぐ武だったが悪魔と聞いて目を丸くして驚く
「悪魔?ちょっとまてこの世界も悪魔もいるのか!?この蜘蛛は堕天使ではないのか」
「えぇそうよこのSAVは間違いなく悪魔由来のもの。天使がいるんだから悪魔もいるわ、常識じゃない」
「そんなの漫画やアニメの中の話だろ?冗談じゃないぞ、全く堕天使だけでも精一杯なのにこの上悪魔相手にも戦わされるのか」
「まぁ精々頑張ることね。あたしのために」
SAV値、Soul augmentation valueの略称。青い炎のような形状をもつ熱エネルギーで天使、堕天使、悪魔など高位存在が現世において物質体を維持するために必要なものである
つまりオリヴィアが力を保ち続けるためには堕天使や悪魔、人間が有するSAVを回収しないといけないのだ
そこで天使のための剣であり、盾である執行者が天使にSAVを供給する。天使とはリンクしているのでオリヴィアが力を失えば執行者ももともと持っていた権能以外力を失うのでやらないわけにはいかない。任務があるのに執行者としての膂力やインセンシティを失ってしまっては命を失う
「そんな…」
いつまでこの毎日が続くのか、武は真に絶望した。夜になるたびに任務のアラームにおびえ堕天使との戦闘に慄き、少女の悪意に晒され、そのうえ悪魔なんてまた疎ましいものと戦う死地に送られる
もう精神が限界だった、かといって反抗すればまた“あんな目”に遭わされる。それだけで抵抗する気が失せた。躑躅色の目に浮かぶ涙、表面上は強がってはいるが武は少女、オリヴィアに対して絶大な恐怖を抱えていた
彼女の黒髪が揺れるたびに背中がすくむ。碧眼を見るたびに悪寒が走り、体が戦慄く。武はたった連日の任務で会うたびにどうしようもないほど下僕としてオリヴィアに畏怖してしまった
「フフ、あたしが怖いの?こんな年もほとんど変わらない小娘なのに?情けないわねぇ、でも“あんなこと”されちゃったらもう元の生意気な態度には戻れないか…」
「今だって強がってはいるけど、こんなに泣いちゃって泥だらけで血化粧もされて、フフとっても綺麗」
オリヴィアは武のブロンドを梳きながら恍惚そうにボロボロの武を見つめると、頬に軽いキスをした
「じゃあまた明日…ね」
そういってオリヴィアは結界を解き、白翼を羽ばたかせると空の彼方に飛んで行った。どういう意味だと聞き返す前に。武は呆然自失して座り込んでしまう
また明日、その言葉に度し難いほどの嫌な予感を感じながら
***
榎本武の朝は早い。それでもギリギリまで寝ていたいためアラームは始業のチャイムがなる1時間前にセットする、普通ではという声も上がるかもしれないが彼は電車通学が必要になる高校に通っているためこれでもギリギリなのだ
6時半に起きたら朝食も食べず、洗面台に直行。カルキまみれの水道水をがぶ飲みした後、歯を磨いて、起き抜けの脳を起こすため冷たい水で顔を洗う。乱雑に顔を拭いて、ふと鏡を見るとそこには少女が写りこんでいた
もう高校生だというのに中性的を通り越して、まったく女性にしか見えない顔。この顔自体にコンプレックスはない、問題は髪と瞳の方だ
これを指摘されるのが嫌で学校は服装髪型自由なところを選んだ
黄金の長髪と鮮やかなマゼンタカラーの瞳。およそ普通の日本人で生まれた者では、いや通常の人間ではありえないような特異な容貌
別に奇異の目で見られるのは構わない、むしろ美しいと言われるのは素直に嬉しかった。女顔だと罵られても気にしない、全く気にも留めなかった。ある時までは
この髪と双眼のせいで母親まで悪く言うまでは
浮気だ、混血児だと揶揄されおしどり夫婦だった両親の仲は引き裂かれた。成長していくにつれてみるみるうちに歪んでいった父の顔は今でも武の脳内に焼き付いている
堕天使の生まれ変わりというのも少し考えれば納得だった、誕生する前から業を持っていたからこんな目にあう。こんな目にあっているのだと思わなければ心が壊れそうだった
―――自分のせいで母を離婚させてしまった、父を孤独にしてしまった
なんて
だから武は誰もがうらやむ美貌を持っているのも関わらず多大なストレスを抱えながら学校へ向かうのだ
パイプオルガンが鳴り響くチャペル、朝の礼拝のために冬見聖啓学院の生徒たちが集まってきていた。その中に武の姿もある、やはりというかひと際目立っていた。眠そうに眼をこする顔を男女問わずどこか熱を籠った視線で見つめるやつがいる
北山いつきもその一人だった。武に寄り添うにしてチャペルに入るとそれとなく話しかける。隣の席に座る腹積もりでもあった
「おはよう、武君。眠そうだけど大丈夫?隈がすごいよ」
失敗した!といつきは嘆いた。いきなり会話そうそう隈のことを指摘するのはないだろう、と。いつも完璧な彼の美貌に違和感があったからつい口にしてしまったのだ
「おはよう。昨日夜更かしちゃってね、毎朝つらいぜ全く」
だが武はまったく気にしないとばかりか、他者と会話することすら限界のような疲弊しきったような声色を出す。これには隣に座った途端横顔に見惚れていたひかりもまじめに心配する
「最近いつも疲れてるよね武君。部活がきついとかなら私に言いなよ、なんとかできるかもしれないから」
「いやそういうわけじゃないんだ、部活は楽しいよ。4年にしてレギュラーにもなれたしただやることが増えちゃって睡眠時間が減っただけさ」
「それ無理しちゃってるよ。ただでさえ高等部になってから課題とかやることの量増えてるのに部活も勉強も全力で睡眠もとれないなんて…」
「はは仕方ないよ、おれは中等部のころ引きこもってほとんど来れなかったからね。今からでも取り戻ないと」
「でも…」
「ありがとね、心配してくれて、でもいいんだ。ほら斉唱始まるよ」
そういうといつきの手を優しくとって立たせてくれる。余所行きの武はお淑やかで紳士然としているので幻想的な美貌も相まって一度気になってしまえば二度と戻れない虜になってしまうのだ
「~牧人ひつじを~守れるその宵」
「あぁ…(好き好き好き好き好き好き)」
ステンドグラスからさす朝の光が武の金髪を縁取り王冠のように輝く。透き通るような白皙の肌と桜色の薄い唇、そこから発せられる男性にしては少し高いテノールボイス。そんな姿に北山いつきは完全に魅了された
そうなるとどう彼を手に入れようかみな権謀術数の限りを尽くすのだ。武が通うこの冬見聖啓学院は冬見台という金持ちや華族の末裔などが住む地域に建っており、中高一貫校ということもあり御曹司やお嬢様などが一合に会す場所なのだ。そんな場所で武はアイドル的ポジションとして男なのにマドンナをやっている
いつきは本当に女子高に通わなくてよかったと思った。男なんて馬鹿とまではいかなくても芋くてむさい人しかいないと思っていたのでこんな武のような顔面国宝がいるとは思わなかったのだ
あとはどう武を手に入れようか考えるだけである。いつきの家はこの学院の中でもトップクラスに入る名族の一つで金もかなりあるのでとれる手段は多い、聖書朗読を聞き流しながら彼女はどうやってこの天使を独占するか考えた
「終わったね。一緒に教室行く?」
そんななか、夢中になっていると朝の礼拝は終わっていて、始業のチャイムが鳴る。いつきは慌てたように準備をするが、武がまた付き添ってくれた
彼女はもうそんな彼が愛しくて愛しくて、ずっとこんな穏やかな学校生活が続けばいいのにと、切に願った。それは周りのクラスメイト達も同じで、皆武の健康や幸福を願っている。こんなにも見目麗しく誰にも困っていたら手を差し伸べてくれる人を脅かして、虐めて、不幸や破滅を望んでいる人間などいるはずもない。この時は、まだ
そう、そんな平穏への祈りや、尊い人といる黄金の日々は幻想に打ち砕かれることになる。ほかならぬ、闖入者によって
「今日からこのBクラスの新たな一員が加わる。なんとドイツから来た交換留学生だ。みんな仲良くするように」
礼拝が終わったあとの朝礼。担任の衞藤がとんでもないことを言ったのである。「編入生?10月のこの時期に?」「ドイツ人!?女!?」「留学生の受け入れなんてあったんだ」と一気に騒がしくなる教室、だがその時、瞬時に静寂に包まれる
「オリヴィアさん、入っていいぞ」
衞藤が許可を出すと小柄で華奢な非常にかわいらしい容姿の少女が入ってきた。黒髪に碧眼。上品そうに制服のスカートを裾をつまんでカーテシーを行って見せる
「今日から編入することになったオリヴィア・マルレーン・バウムガルトです。クラスメイトの皆さん、まだ日本になれてなくて色々と拙い所をお見せしてしまうかもしれませんがよろしくお願いしますね」
その一言は教室内を熱狂の渦に巻き込んだ。それも当然だ所詮御伽話のような理想の留学生の体現が現れたのだから。質問の際にはにはドイツのどの町から来たのだの趣味はなんだの矢継ぎ早に話しかけていく
彼女はそれに丁寧に答えながらもどこか困り切ったような表情である程度の応答をしていく。いつきはそれがつまらなくてつい横の武を見ると、なんと彼は心底絶望しきったような今にも泣きそうな青い表情を浮かべていた。どうしたの!と大声をかける前にあるやり取りがいつきの耳に入る
「えっと…次の一限の教室。選択科目なんですけど物理の授業とってる人少なくて、教室がわからなくて…」
「なんだそんなことか。ちょうど席は武の後ろになるから彼に聞きなさい、物理をとっているはずだ」
武の顔が見るからに歪んだ。わかりましたと、心から嬉しそうな笑顔で答える少女。なんだろう、なにかよくないといつきが直感する前に少女は、オリヴィアは群がる人の山をものともせずにかいくぐると言う
「これで朝礼は終わりですよね?ではあたしは先に武君と教室に向かってきます。皆さま今日からよろしくお願いしますね、ごきげんよう」
そして彼女は軽快に教室を去っていった。まるで今から恋人との逢瀬があるかのような楽し気な足取りで。周囲は妖精のように可憐だと褒める一方で、いつきは気づいてしまった
オリヴィアが武の手を無理やりつないで強引に引っ張っていくのを
一瞬見えた武の陰った様子の横顔は、まるでこれから犯される少女のように見えた