参-黄鬼
■参-黄鬼
家の中から聞こえてきた梅子の言葉は、間違いなく「仮病」だ。なるほど、だから医者を拒んだというわけか。
棒で柵を作っただけの小窓から中を覗くと、桃さんが梅子の口を手で塞ぎ、シーッと、指を口にあてていた。
「桃太郎ってヤツ、まだなのか?」そうは言われても、悪いが、今はそれどころではない。
しかし、桃さんは、なぜ仮病を? あんなに強いのに――
初めて桃さんに会ったのは、僕がまだ三歳のときだ。人間という生き物を見てみたい、そう思い、大人の鬼たちに黙って村に来た時のことだ。
そこで木の陰から見たのは、山から下りてきた体長二メートルを超す熊と対峙する、身長一メートルにも満たない子どもの桃さんだった。
桃さんは襲い掛かってくる熊に臆することなく、刀の峰で一閃、熊の首を打つと、熊はその場に倒れた。
そして桃さんは、気絶した熊を担いで、山に入って行った。
人間は弱い、そう聞いていた僕は、その光景に度肝を抜かれると同時に、強さと優しさを併せ持つ桃さんに憧れを抱いた。
ここ数年は鬼と人間の関係性もあり、疎遠になってしまったが、七歳頃までは大人の鬼たちに隠れて、桃さんとよく遊んだものだ。
それほど強い桃さんが、仮病を使ったのだ。いったい、何のために。僕は小窓を覗き続けたが、背を向けて小声で話す二人の言葉は聞き取れなかった。
「うん、分かった!」梅子が嬉しそうに言った。
「しかし、お前が貨幣の裏表勝負を挑んできた時は、いったいどうなることかと思ったぜ!」
「あー、また忘れてる。桃ちゃん、今まであの勝負で誰にも勝ったコトないじゃん」梅子は笑いながら言った。
「あれ? そうだっけか?」
しばらく泳がせることも考えたが、僕はそこまで器用ではない。
「仮病って、なんですか!」僕は扉を開けると同時に言い放った。
二人はビクッとしたが、すぐに平静を装った。
「仮病?」桃さんは言った。「ああ、人間特有の病気で、酷い頭痛のコトだ」
「腹痛でしたよね?」「頭痛と腹痛な」桃さんは即答した。
僕は首を大きく横に振った。誤魔化されるわけにはいかない。「なんで、嘘を吐いたんですか」まっすぐに桃さんの目を見据え、僕の本気を伝えた。
すると、桃さんは観念したように口を開いた。「……なんか、戦う気分じゃねえから」
「は?」そんな理由? 僕がどれだけ苦労をしていると思っているのだ。「僕は桃さんのために、仲間になってくれる三匹の動物まで連れて来たんですよ!」
「猿、豚、河童?」
「どこ行くんすか!」桃さんに経典はまだ早い。「犬、猿、雉です」表に待たせている。
「よわそー!」桃さんは不満を露わにした。
「いやいや、よわ……」そう口にした時、ある推測が頭を過った。
「まさか……桃さん、実は弱い、とか?」
今まで考えもしなかったが、強い桃さんを見たのは、子どもの頃だけだ。確かに当時は強かった。それに間違いはない。しかし、己の力に慢心し鍛錬を怠り、女に現を抜かしてしまった結果、脆弱な男になってしまったというのはあり得ない話ではない。
「はぁ? 強ぇに決まってるし」「そうだよ!」梅子は桃さんに同意した。
「一人ではとても勝てたもんじゃない。だから、弱い仲間だと不満なんですよね!」
「仲間なんて関係ねえよ!」
「だったら、堂々と戦えばいいじゃないですか!」
「だから、そんな気分じゃねえんだって!」
埒が明かない。
「……分かりました」僕は扉を開け、頭を下げた。「失礼します」
「おい、どこ行くんだよ」
「帰るんですよ、鬼ヶ島に。『桃太郎など、気にする価値もない』帰って、赤鬼さんにそう伝えます」桃さんに戦う気がないのなら仕方ない。
「……分かったよ! 行けばいいんだろ!」なぜか、桃さんの気が変わった。「で、病気で苦しんでる人間をみんなで甚振って殺せばいいだろ!」
「あんた、仮病でしょうが!」しかし、なぜ行く気になったのだ。
「桃ちゃん、いいの!?」梅子にとっても予想外だったようだ。
「おう、鬼退治セット出してくれ」桃さんは立ち上がった。「う、うん」梅子は部屋奥の物置へ向かった。
「あら、黄鬼くん?」外から戻って来た婆さんが言った。「久しぶりねえ」
「ご無沙汰しています」僕は丁寧に頭を下げた。
「大きくなったね。ほら、上がりなよ」隣にいる爺さんが、三和土に立つ僕に言った。
「いえ、僕はここで」
「そうかい」爺さんが囲炉裏の傍に腰を下ろした時、大きな葛籠を抱えた梅子が戻ってきた。「これだよね?」
「おう、それだ!」桃さんは葛籠を開け、刀や防具を取り出した。
「行くのか」
「ああ」穏やかに訊く爺さんに、桃さんが答えた。
「あら。じゃあ、きびだんごを作らないとね」婆さんが炊事場で言った。
「まだ作ってねえのかよ」桃さんは続けた。「黄鬼、そういうことだから、作るのに一週間待ってくれ」
「団子づくりに一週間!?」和菓子細工でも作るつもりなのか!
「何言ってんだい。一時間もあればできるよ」婆さんは腕捲りをしながら言った。
「そんなに待ってらんねえよ」どの口が言うのだ。
「あのさ」梅子が口を挟んだ。「きびだんごって確か、動物を仲間にするためのモノだよね?」
「だったら何だ」
「仲間はもう居るんだから、きびだんごは必要ないんじゃないの?」
「いえ、彼らにはあとで報酬を渡すという契約で来てもらってますから」僕が答えると、梅子は肩を落とした。
「報酬は、きびだんごじゃなくてもいいのか?」爺さんが優しく尋ねた。
「ええ、それは構いませんが」
「なら、ワシに任せておけ」爺さんは壁に立てかけてある弓矢を手にし、玄関に向かった。「家の前で、焼き鳥にしたら美味そうな雉を見つけたんだ」
「%※$ーッ!」僕たち三人は、言葉にならない声で爺さんを制止した。犬や猿にしても、さっきまで同行していた仲間の肉を出されて、喜んで食べるとは思えない。
自身の思いやりの気持ちを踏みにじられたことに対してか、爺さんは不機嫌な様子で、部屋の隅に腰を下ろし、婆さんは黍の収穫に出かけた。
一時間後には鬼ヶ島に向けて出発できる。
そう思っていたところで、新たな問題が生まれた。正確に言うと、問題ではなく単なる桃さんの難癖なのだが。