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バッカス様のお導き

作者: 松 勇

 東京都板橋区大山の商店街、遊座(ゆうざ)にある『バー・(かすみ)』は今日も静かだった。

 控えめな音量で有線放送のジャズと、グラスを拭く音だけが、空気を揺らしていた。


 無風だった。

 誰もいない。

 自分しかいない。


 日本全体が待ちに待った、新型コロナ感染防止の緊急事態宣言が終わってから一ヶ月半。

 飲食店に対する営業自粛要請があけてからも半月経過している。


 にも関わらず、今日も客はいない。



 この店のマスターである霞京太郎(かすみきょうたろう)は、ただただ、グラスを磨き続けた。


 正直心が折れそうになる。

 でも、彼の師匠なら言うであろう。


『常にお客様の来訪に備えろ。待つこともバーテンダーの仕事だ』


 さらに続けて言うだろう。


『憂鬱な顔で仕事をするな。バーに来るお客様がバーテンダーのそんな顔を見たいわけがない。美味い酒も不味くなる』


 そして、挫けそうな時は、ひたすらグラスを磨けと教わった。


 背筋を伸ばし、集中する。

 毎日、同じように行う習慣、姿勢が、自分の心を保ってくれるのだと。




 京太郎がこの『バー・霞』を開店したのは、二○二○年三月、ちょうど三十路の誕生日である。

 その直後、ご存知の通り、新型コロナ感染拡大による営業自粛が始まり、何度か短期間の営業再開があったものの、一人の常連もつかないまま、月日が流れた。



 二十五で大学卒業後に勤めていた会社をやめた。

 システムエンジニアの仕事だったが、どうも向いていなかったらしい。

 それでも、三年務めはしたのだが、三年経ってもプログラムは書けず、設計などちんぷんかんぷん。


 多少はコミュニケーション力には自信があったが、クライアントとの打ち合わせはうまくいかない。

 その場は、持ち前の明るさで話を盛り上げ、クライアント側の担当者のご機嫌は取れるが、そこで話したことを持ち帰ると、先輩エンジニアにはいつも大目玉を食らった。


 確認すべきことを確認せず、了承していただくべき事を言わず、間違った期待をクライアントに抱かせていたのだそうだ。


 正直社内の先輩エンジニアと話すことの方が、遥かに難易度が高いと感じていた。

 明らかに、先輩たちはコミュ障だと思うのだが、クライアントとの折衝は失敗しない。

 そして、プログラムも書けるし、設計もできる。

 システムの構築など、京太郎にはなんの苦行なのかとしか思えなかった。



 会社を辞めた後は、アルバイトで食いつないだ。


 会社を辞めたきっかけは、唯一の身内だった父親の急死。

 父は仕事中に脳卒中で倒れたのだ。

 京太郎は実家というものも失ってしまった。


 その葬式と、その後の片付けのために有給申請したところ、納期前で気の立っていた上司にクビを言い渡されたのである。



 その後、いくつかアルバイトをしているうちにたどり着いたのが『シーバードバー』という変わった名前のバーだった。

 カウンターのみ八席の小さな店である。


 初めて来店した時のことは忘れられない。

 バイト帰りにたまたま見つけて入ったところで、マスターが倒れていたのを発見したのだ。


 慌てて、救急車を呼んだ。


 脳卒中だったらしい。

 発見が早かったため、大事には至らず、体にも麻痺などの後遺症は残らなかった。

 しかし、倒れた時に強くぶつけたようで、手首の骨にヒビが入っていた。


「ありがとう。おかげで命拾いしました。ついでで申し訳ありませんが、店の玄関に張り紙をしておいていただけませんか?」


 マスターはそう丁寧に言って、『都合によりしばらくしてお休みします。店主』と京太郎に書かせた。


 お安い御用であった。


 実は、その日は身入りの良かったファミリーレストランの仕事をクビになり、暇だったのだ。

 ウェイターだったのだが、厨房(ちゅうぼう)から苦情があったらしい。


 ハンバーグに載せるチーズの量を増やせだとか、付け合わせは人参を抜けだとか、お客さんの変に細かい要求を聞いて厨房に持っていくことが、調理担当の怒りを買ったらしい。

 接客の仕事は性に合っていると思っていたので、落胆も大きかった。

 お客様に喜んでもらいたい、そうすればお店にとっても良いことがあると、そう考えてのことだったのに。


 破れかぶれで、最後に渡された給料を散財しようと訪れたのが、シーバードだったのだ。



 急いでシーバードに戻ると、驚いたことに入り口には何人もの常連と思しき客たちが、ドアの前で待っていた。


 そんなに流行っている店とは思えなかったのにだ。

 シーバードは、建物自体は商店街に面しているが、入り口は、建物の裏手、若干安全面が心配になる、非常用としか思えない外についた金属製の階段を登らなければ、入る事はできない。

 看板は『Sea Bird Bar』とだけ書かれた紙をラミネートしただけのものだ。


 とりあえず、『ちょっと失礼』と常連たちをかき分け、ドアにガムテープを使って張り紙を付けた。


「おい、にいちゃんっ!マスターはどうしたんだっ?さっき救急車の音が聞こえたが、あれはマスターか?お前さんはなんだ?」


 血相を変えて、もう七十ぐらいではなかろうかという、髭をはやした老人が問い詰めてきた。


「えと、私が店に入ったら倒れていて、救急車を呼びました。幸い大事には至りませんでしたが、倒れた時に手首を骨折したので、しばらくはお休みだそうです」


 とりあえず、『大事には至りませんでした』という言葉に、老人と一緒にいた人々、彼らも結構高齢に見えるが、とにかく安堵した様子だった。



 翌日、バイトもなくなり、バーで散財しなかったせいで、懐も切羽詰まってはいない京太郎は、マスターを見舞いに訪れた。

 病室には前日に並んでいた常連たちがみんな来ていた。


「おう、にいちゃん。あんたがいなかったら危なかったんだってな。マスターを助けてくれて感謝するぜ」


 皆にそう言われ、悪い気はしなかった。

 老人たちにとっては、あのバーは毎日通う大切な場所であるらしい。


「申し訳ありません。検査やなんかで、退院は明後日です。すぐに店は開けますから」

「え、いや、その手じゃ、しばらくは、シェーカーも触れないだろう?」


 髭の老人が呆れたように言う。


「みなさん、他に行ける店はないんでしょう?うちの階段ぐらい昇り降りしないと、引きこもってちゃ健康に良くないですよ」


 昇り降りして酒を呑むのと、どっちもないのとでイーブンな気もするが、引きこもって一人で飲むぐらいなら、遥かにましであろう。


 などと思うが、さすがに手首を骨折していては、店をやるのは無理ではなかろうか。


「なに、ギブスで固定してれば、どうにかなるでしょう」


 なるわけがない。

 ちょっと力が入るだけで激痛が走るだろうし、無理をすればいつまでも治らない。

 いや、悪化するかもしれない。


 などと考えながら京太郎は、抑えがたい衝動が、自分の中に湧き上がるのを感じた。


 このマスターは、客のことを真剣に考えている。

 客をもてなすことを自分の義務として、いや、喜びとして、人生に欠かせない一つのピースとして、決して怠りたくはないと考えているのだ。


 ファミレスのバイトをクビになったことで、自分を全否定されたように感じていた彼にとって、このマスター、鳥海悟(とりうみさとる)との出会いは運命的なものであった。


「私に手伝わせてください。私がマスターの手足になります」


 思わずそう叫んでいた。

 マスターも、客の老人たちも、口をあんぐりと開けて驚いた。

 マスターが静かに口を開く。


「おにいさん、気持ちは嬉しいですが、時間はあるのですか?夜の仕事ですが、うちは三時まで開けています。勤め人の副業には向きませんよ」

「ファミレスで働いてましたが、今日からは無職です。昨日はやけ酒を飲むつもりだったんです」


 思わず正直に自分の事情を話してしまった。

 飲食店をクビになった。

 そんな人間を雇ったりするだろうか。


 そもそもなんであの時、あの、どう見ても見つけづらい、そして入りずらい店に入ってみようと思ったのだろうか。

 今思えば、何かにとりつかれたかのように、あるいは導かれるかのように、商店街の路地裏に回り、少し錆が浮かんで心もとない階段を登った。

 普段ならシラフでするようなことではなかった。


 マスター、鳥海は少しの間、目を瞑って考えた。


 今日から無職、何か事情があるのだろう。

 この青年に命を救われたようなものだが、それだけでなく、人柄には好感を持てる。

 こんな老人ばかりのバーで働こうなどという若者はそうはいない。

 この京太郎という男には、人と接し、いたわり、もてなすことに対する情熱が感じられた。


 バーテンダーの価値は技術だけではない。

 技術だけなら多少器用でさえあれば、あとは努力さえすれば、誰でも身につけられる。

 大事なのは情熱、客をもてなすことに無常の喜びを感じられることだ。


 やらせてみよう。


 ファミレスで働いていたのだから、飲食店の接客の経験はある。

 今話しても、病院で気付いたあとの自分への労りにも、十二分なホスピタリティが感じられた。


「あんまり高い給料は出せませんよ。それに、今は手本も見せられないから、酒作りはほとんど独学、私は口しか出せません。それでもやりますか?」


 道が開けた気がした。


 ファミレスの前はハンバーガー屋で働いていた。

 何もかもがマニュアル化され、自分で考える余地などなく、ロボットのように接客していた。


 その前はラーメン屋。

 おもてなしなどと言う概念はなく、食わせてやっているという態度にプライドを持っているような店だった。


 自分がやりたい事はバーにある。

 そう、確信した。


「やらせてください!」

「わかりました。ちなみに、こちらの皆さんも口だけはたくさん出すでしょう。大変厳しく」


 好々爺(こうこうや)のようでいて、どこかちょっと意地悪な笑み。

 目は孫を見るように慈愛に満ちたものなのに、口元は妙に歪んだ笑顔を浮かべながら、鳥海は言った。


「皆様、未熟者でまだ何もできませんが、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」


 京太郎は深々と頭を下げた。

 接客のためのお辞儀ではない。

 礼儀ではなく、謙虚な願いを込めた、赤心の礼であった。


「おう、気に入った!だが俺たちの舌はマスターの酒で肥えているからな。覚悟してろよ!」


 髭の老人が威勢よく言い、思わぬ力強さで京太郎の背中を叩いた。




「あれは、なかなかきつかったな」


 グラスを拭き終わった京太郎の口から独り言が漏れた。

 無心になっているようでて、物思いに耽ってしまう。

 実際はそんなもんだと、鳥海に笑って言われたのは、もう、シーバードで働き始めてから三ヶ月たってからだった。

 鳥海の骨折も治り、京太郎の拙いステアでも、髭の老人がマティーニを呑んでくれるようになった頃だ。


 髭の老人は大学教授で、国際法の権威だと言う事だった。

 相当に酒にうるさい人物で、最初のうちはマティーニを作っても、ステアの仕方を見るだけで口もつけず、口に運んでも一口でやめてしまう。

 これが一番悔しく、必死の思いで練習したのが思い出された。



 半年が経過した時、鳥海は銀座で知人がマスターを務めるオーセンティックバーに京太郎を紹介した。

 町場(まちば)のバーとしては一流の店で、給料も良く、そこで五年を過ごした。

 昼の間は別のアルバイトもしながら、爪に火をともすような生活で貯めた金で、今の店を始めたのだ。


 しかし、コロナ禍の直撃。


 バーであるためフードのテイクアウトで凌ぐわけにもいかず、フードデリバリーサービスの運ぶ側となり、家賃補助と協力支援金でどうにか店を維持したのだ。


 銀座からも、シーバードのあった大井町からも遠い、板橋区大山の商店街、遊座。

 かつての顔見知りのバーホッパーも足を運ぶには遠く、急転直下の状況の中で鳥海と連絡を取ることもなかった。


 バー霞はシーバードとよく似た店だ。


 商店街に面した建物だが、入り口は裏手にあり、外階段からしか入る事はできない。

 看板は店の名を書いた紙をラミネートして、階段前の壁に貼り付けただけ。

 街灯の頼りない灯りがなければ、注意深く探しても見つける事はできないだろう。


 あの店こそが京太郎のやりたい店だった。

 銀座での五年間も、この店を始めるためのものでしかなった。


 しかし、客は来ない。


 緊急事態宣言の合間、蔓延防止の自粛要請中は早い時間から店を開けてみたが、誰も来なかった。

 生活と店の維持を考えて、今年に入ってからはフードデリバリーに精を出すしかなかったのだ。

 それも今は需要は減り、人あまりになったため、やっても収入は少ない。


 いよいよ持って万事休すか、そう言う思いが込み上げても来る。

 グラスを拭くことが現実逃避になっているかもしれなかった。




 悪い事は立て続けにやってくる。


 

「いらっしゃいませ!」


 この挨拶を口にしたのはいつ以来だろうか。

 コロナ禍の間は、誰も客は来なかった。


 だから一年半前、まだ銀座にいた頃以来ということになる。

 咄嗟に言えたのは、長い接客業の経験ゆえであろう。


 店のドアを開けた男は、何も言わなかった。

 風態は普通といえば普通。

 あまり、オーテンティックバーに入るには相応しく無いかもしれない。


 つばの広い野球帽を被り、黒いジャージ姿。


 帽子のつばと、コロナ明けでもみんなつけているマスクで、顔はわからない。

 バーテンダーは客の手をよく見るので、そこそこ高齢だと言うことがわかる。

 バーテンダーは客の手を見て職業や性格を当てたりする。

 占いのように、一種の座興として行うこともあるが、酒の好みや接っし方の参考になるからだ。


 その手が、震えていた。

 そして、アイスピックが握られていた。


「か、金を、だ、出せ」


 途切れ途切れの声は、やはり老人のものだった。

 老人の割には背筋はピンと伸びているのだが。


 京太郎は、なぜか怖くはなかった。


 自身、半分やぶれかぶれ、誰も来ない店でひたすらグラスを磨いていたのだ。

 招かれざる客、手に凶器を持つ者であっても、話し相手になるならありがたい、そう思ったのかもしれない。


 それにしても、なんでまたこんな店に強盗に入ったのだろうか。

 客のいない、店主のみの店なら、確かに強盗は楽かもしれないが、余分な金などあるわけがない。


 そもそも、よく見つけたものだ。


 電車内などで、死刑になりたいなどと言う動機で、無差別に刃物で殺傷したり、火をつけるなどと言う事件が増えている。

 この老人もそうなのか。

 あるいは、生活に行き詰まった老人が、刑務所に入りたくてやると言うやつであろうか。


 京太郎は無言で手提げ金庫をカウンターに置き、開けて見せた。

 小銭が綺麗に詰まっている。

 つまり、釣り銭がまだ一度も使われていない。

 あとは千円札が、数十枚程度。


「生憎、これだけしかありません」


 こんな時でも、丁寧な言い方をしてしまうのも、職業病であろう。

 時刻は午前0時を過ぎている。

 アフターコロナはこの時間で客が来ないなら諦めムードだ。

 皆、夜鷹(よたか)して飲むと言う習慣を一度絶ってしまったので、なかなか元には戻らない。


 とは言え、そんなことがわかるのは、飲食店を営む者ぐらいであろう。


 怒り出すかもしれない。

 自分の財布にはもう一万円ぐらいは入っているがその程度。

 銀行口座に入っている分を含めても、二、三十万。


 それが京太郎の全財産だ。

 銀行から借りた分もあるので、あと二ヶ月もこの状況が続けば、首を括るか、自分の方が強盗でもしない限り生きてはいけない。

 


 

 だが、男は怒り出しはしなかった。

 がっくりと、膝から崩れ落ちる。

 アイスピックが手からこぼれ落ち、少し軋む床を転がっていく。


「大丈夫ですか?」


 そう言って、京太郎はカウンターから出た。

 強盗に親切にするのもおかしいが、老人に親切にするのは性分である。


 それでも、放心したような老人に近づく前に、転がったアイスピックを拾った。



 手に取とると、アイスピックはよく使い込まれたものだった。

 やたらと手に馴染んだ。

 よく手入れもしてあり、店を開く時に購入したものよりも、使いやすそうだ。


 などと感想を思い浮かべている間に気がついた。


「このアイスピックは・・・」


  声が震えた。


「三十年以上、俺が使い込んだもんだ」


 老人が独り言のようにつぶやいた。


「そうだよな。うちの店だけじゃねぇ。今の時代じゃ、場末のバーはどこもこんな感じだ。馬鹿だよな。潰した自分の店と、似たような店に強盗に入るだなんて・・・」


 老人の声は聞こえていたが、京太郎はそれどころではなかった。


 信じられなかった。


 老人のアイスピックは、半年のシーバードでの修行の間、鳥海に借りてずっと使ってたものだ。


 老人が帽子を脱ぎ、マスクを外す。

 そして、顔を上げずに、向き直って土下座をした。


「申し訳ありません。クラスターを出してしまって潰した自分の店と似ていたので、無性に腹が立って、こんな馬鹿なことをしてしまいました。警察を呼んでください」


 丁寧な言葉遣いになり、突然別人のように感じられた。


 そして、懐かしかった。


 何も言わない京太郎に、(いぶか)しく思ったのか、老人は顔を上げた。

 呆然とし、涙を流す京太郎を見て驚愕した。


「霞君・・・」

「マスター・・・」

 

 やっとお互いの顔をまともに見たのだ。

 帽子のつばとマスク、それだけで二人はお互いが既知であることを認識できなかった。

 コロナで必須アイテムとなったマスクがなければこんな事はなかっただろう。



 京太郎は鳥海が立ち上がるのを手伝い、カウンターの椅子に座らせた。


 店は閉める。


 本来閉店は一時と決めていたが、どうせ誰も来ないのだ。



「申し訳ありません」


 シーバードをやっていた頃の、丁寧な物言い戻った鳥海だったが、羞恥と後悔のあまり、肩を落とし、ちぢこまっていた。


 以前よりずっと小さく見えた。

 バーテンダーは常に背筋を伸ばせと言い、背中に鉄板が入っているかのように、いつもしゃんとしていたと言うのに。


「何があったんですか?クラスターっていつ?」

「今年の八月です。うちの店は高齢者ばかりですから、私も含めてワクチンは打ち終わっていました。皆、うちを開けて欲しいと言う。そこまでは補助金を申請していましたが、それをやめて店を開けてしまいました」


 二○二一年八月、確かに高齢者については東京ではだいぶワクチン接種進んでいた。


 しかし、緊急事態宣言の真っ只中である。


 巷には補助金を申請しておいて、こっそり営業している店もあったが、生真面目な鳥海にそんなことができるわけがない。


「蓄えはあったし、お客様を危険に晒すわけにはいかないと思いながらも、ワクチンは打ったんだからと、懇願に負けて店を開けてしまったのが間違いでした」


 店はよく換気し、アクリル板の仕切りを置いて対策はしていたのだと言う。


 しかし、高齢者といえどもワクチンは任意で打つものだ。


 強制ではない。


 接種済みと嘘を言って集まってくる老人たちもいたのだ。


「接種済証明書を確認するような事はしませんでした。嘘を疑う事は失礼だと思ったんです。しかし・・・」


 結果は五人が陽性。

 ワクチンを接種していても感染する事はある。


 五人のうち二人は未接種を隠して来ていた。

 そして、そのうち一名が翌日に容体が急変、三日後には自宅で冷たくなっていた。


「愚かでした。そもそも店を開けるべきではなかった。開けるなら接種証明を確認しないといけなかった。私がちゃんと考えていれば、正田(しょうだ)先生は死ななかったんです」

「しっ、正田先生が亡くなったんですかっ?!」


 正田三郎、京太郎に毎日マティーニを作らせた、髭の老人である。

 鳥海と並んで、自分の師匠、恩人と思っていた人だ。


「お客様を、長年カウンターで語らった仲間を、私の軽率な考えで死なせてしまったのです。もう、シェーカーを振る資格などありません。まして、アイスピックをこんなことに使ったバーテンダーなど居ていいはずがない」


 さめざめと、鳥海の目から涙が流れた。


 誰かの支えになりたい、傷ついた友を癒したい、そこまでできなくなくとも、彼らの人生の中にわずかながらの彩りになる時間を作りたい。

 それがこの老バーテンダーの生きがいだったのだ。


 そこからは転落の人生だった。

 クラスター発生は地域のニュースになり、とても同じ街には住めなくなった。

 店を閉め、二十三区内でも遠い板橋のボロアパートに引っ越した。


 家族のいない鳥海は、老後の資金は貯めていたから金の心配は無い。

 だが、生きる気力はなかった。


「残った在庫の酒を雑に飲み漁るだけの毎日でした。もう、誰にも会いたくないし、死ぬのを待つだけだと・・・」


 とは言え、生きる気力はなくとも、人間腹も減るし、在庫の酒もいつかは無くなる。

 食事は缶詰だけ、料理をする気など起きないし、できるだけ人に会いたく無いと言う思いから、一度、大量に買い込んだあとは、それを食べて過ごした。


 そして、酒も缶詰も尽きたのが今日。


「これが最後だと思いました。最後にどこかのバーで酒を飲み、死んでしまおうと遊座に足を踏み入れたら、自分の店とそっくりなバーがある。なにか、無性に腹が立って、一回自宅に戻り、アイスピックを持って来てしまったのです」


 ここまで、途切れ途切れに話した。

 京太郎はずっと黙って聞いていた。


 無言で京太郎はカウンターの向こう側に移動して、しゃがんだ。

 カウンターのバックバー側の足元には冷凍庫がある。

 そこに、大きなキューブ状に切り出した氷が入っていた。


 それを一つ手に取り、鳥海が持って来たアイスピックで丁寧に削り始めた。

 リズミカルに、破片が大きく飛ばないように、慎重に、軽やかな手つきで。

 アクリル板の向こうで鳥海が訝しそうにこちらを覗く。

 京太郎の手つきを見て、僅かに目を細めた。


「マスター」

「私はもうマスターでもバーテンダーでもありません。この店のマスターはあなただ。氷を割るのもずいぶん上手くなりましたね」


 少しだけ、鳥海の口元が綻んだ。


 京太郎はその後は無言で、氷を削り続けた。

 ほんの数十秒で、氷は美しい球体に削り出される。


 それをロックグラスに入れ、バックバーから取り出した酒を注ぐ。


「ワイルドターキーです」


 そう言って、鳥海の前にグラスを置いた。

 ショットを切る手の動きは、全て鳥海に教えられた通りだった。


「私の練習に作った酒の口直しは、いつもこれでしたね。鳥海さん」


 名前を呼ぶときだけ、少しぎこちなくなった。


「・・・」

「ロックは出来るだけ早く口をつける。そして、味の変化を楽しみながらゆっくりと飲む。それがあなたの飲み方でした」


 ウィスキーは水を加えると香りや味が変化する。

 水と一対一で割るトワイスアップは、香りを開き、刺激も程よく落ち着いてうまいと言われる。


 しかし、おとなしいだけの酒では、テイスティングするならともかく、楽しんで飲むのならつまらない。


 ウィスキーのロックは、時間の経過とともに氷が溶けることで、そこにドラマを生み出す。


 最初はストレートに近い強い酒精が精神を鼓舞する。

 少し氷が溶け出すと、芳醇な香りが広がり、酒の中に心が漂う。

 さらに氷が溶けると、グッと冷たくなり、心地よく甘い世界から飛び出して、余韻を残して旅は終わる。


『バーボンのロックは一杯の冒険だ』


 少し恥ずかしそうに言うのが口癖だった。


 鳥海は遅滞せずに、グラスを口元に運んだ。

 まず、香りを楽しみ、多過ぎず、少な過ぎない量を口に含む。

 それを飲み下すと、ため息をついた。


「あなたは、私に忘れ物を届けに来てくれたんです。このアイスピックと、あの頃の、駆け出しの頃の、初心を」

「初心か・・・」


 シーバードにいた頃、店が終わると、鳥海は京太郎にさまざまなカクテルを作らせた。

 初心者の作る酒がそんなに上手くいくわけがない。

 氷の形はいびつ、味のバランスは崩れ、時に水っぽくなったりもする。

 亡くなった正田は客であるから、それを口にしなかったが、鳥海は全て飲んだ。

 そして、何が悪いかをこと細やかに説明した。


 最後にワイルドターキーのロックで口直しをしながら話すのが、毎日の習慣になっていたのだ。


「ここは、タバコは大丈夫ですか?」

「ええ。そのかわり食事は出せないので、ハモンセラーノは諦めました」


 京太郎は灰皿を出した。

 鳥海は愛煙家だ。

 仕事中は決して吸わなかったが、閉店後はタバコを吸いながらカクテルを吟味し、バーボンをやる。


 コロナ禍の中、特にバーが苦しかったのは、東京都の副流煙防止条例の施行が重なったことだ。

 バーに来る客には酒にタバコは付き物と考えている者が多い。


 多くはシガーバー、喫煙目的の店とすることで喫煙可能な形を取ったが、そのかわり食事を出す事はできなくなった。

 結果、テイクアウトできるようなフードメニューは無くなり、居酒屋ならできることもできなくなったのだ。


 お通し、つまみ程度のナッツやスナック菓子なら出せるが、深夜に腹をすかしてやってくる客のための、パスタなどは出せない。

 京太郎はハモンセラーノ、スペイン風の生ハムを、丸ごとカウンターに置いて、目の前で切って出すことに憧れていたのだが、これも諦めざるを得なかった。

 食事として食べるもの、要するに炭水化物以外ならつまみという扱いで出せなくは無いが、コロナ禍では食材をカウンターに出しっぱなしにしておくことはできない。



「弟子まで、客を死なせたバーテンダーにするわけには、いきませんね」


 ロックの氷が少し小ぶりになり始めたところで鳥海はそう言った。

 背筋が伸び、バーテンダー、鳥海悟が帰ってきた。




「しかし、立派なりましたね。もう、一人前のマスターだ」

 

 京太郎は気まずい顔をした。


「実は・・・鳥海さんが初めてのお客様です」

「え?じゃあこの店はいつから」

「昨年の三月です」


 鳥海は絶句する。

 この男もなんて不運なのだと思った。


 しかし、開店直後にコロナ禍になったとしても、緊急事態宣言や営業自粛要請が終わってからも日数が経っている。

 今日は客がいなかったのは、金庫の釣り銭を見ればわかるが、今まで一人もいないとはどう言うことか。


 鳥海は、ふと気づいた。


「霞君、君、この辺りに知り合いは?」

「いえ、安い物件を都内全域で探して、一番気に入ったのここだったので、特に縁はなかったです」

「それで、あの看板・・・宣伝は?」

「そう言うことは、鳥海さんもされてなかったのでやってません。シーバードみたいな店にしたくて」


 鳥海はあんぐりと口を開けたまま、しばらく固まった。


「参りました。そう言えばバーテンダーに必要なことは一通り教えましたが、マスターとしての仕事は教えていない。ましてやオーナーとなると・・・」


 途方に暮れたように空を仰いだ。


 シーバードのような店を作りたいと言ってくれたのは嬉しいが、初めからああ言う店だったわけでは無い。

 出来てから数十年経った店と、新しい店ではやるべき事に違いがある。


「私は若い頃、あの近くのカフェで働いていました。あのあたりは大学もある。正田先生もまだ大学院生で、シーバードを開いた後は友達を連れてよく来てくれました」


 その友人たちがまた別の友達を連れてくる。

 彼らが卒業して社会人になると、職場の同僚や取引先の人間を連れて来てくれる。

 そうやって常連が増えていくのだ。


 オーセンティックバーの入り口のドアは重い。


 多くの人々にとっては敷居の高いものであるし、まして、シーバードのような貧乏くさい店はいきなり足を踏み入れるのには躊躇するものである。


 だから、バーの開店には人脈が重要である。

 友人知人、修行時代の常連や働いていた店の紹介など、とにかく最初のお客様が居なければ何も始まらない。

 地縁が何よりもの武器となる。


 それが全く無い土地で、宣伝もなしでいきなり店を始めては、全く客が来ないのも当然であった。


「バーテンダーとしては一人前でも、シーバードのような店を目指すのは、あなたには十年は早いのです」


 これは比喩では無い。


 シーバードの雰囲気、仲間のような常連たちが集う店というのは、結果として出来上がるものであって、初めから目指していきなりできるものでは無い。


 京太郎がシーバードを理想とするあまり、いきなりそこを目指してしまったのは、自分の不徳の致すところだと、鳥海は思った。


「これは、私の忘れ物だったのかも知れませんね」

「忘れ物?」


 京太郎はまだよくわかっていない。

 どうやら自分が致命的なミスをしていたことは理解できたが、どうすれば良いのかまではわからない。


「弟子に大事なことを教え忘れてました」

「な、なんでしょう?」

「バーテンダーとは職業ではなく生き方だと私は教えましたが、自分の店を始めるとそれだけでは済まなくなるんです」


 ホスピタリティと技術があれば、客をもてなせる良いバーテンダーにはなれる。

 しかし、自分の店を持つと、そのホスピタリティと技術を商売にしなければ、店を続けることができない。


 ビジネスと生き方のバランスを取る。

 あるいは両立できるようにする。


 それがマスターやオーナーの仕事であり、雇われのバーテンダーとは違うところなのだ。


「などという話は、大抵の人はホスピタリティとか技術以前にわかっているものなのですが、霞君、君という人は・・・」


 言われてみればその通り、自分は商売を始めたという感覚が薄かったのかもしれない。

 ただただ、お客様をもてなすことだけを考えていた。

 そもそも。お客様がいないというのに。


「まず、店の名前を変えて、せめて木の板でいいから看板をかけなさい。シーバードは常連さんのための店だから、あんな感じにしていたんです。元々はちゃんとライトの入った看板を出してました」


 これでやっと京太郎は理解した。

 十年以上かけて常連が集まり、出来上がった店がシーバードであって、いきなり真似をしてうまくいくはずがなかったのだと。


「名前、だめですか?」

「自分の名前をつけたかったんでしょうが、捻りがないし、バーで漢字一字だとスナックっぽく思われてしまいます。それに苗字だから申し訳ないが、霞じゃ、すぐに消えてなくなりそうです」


 最後の方には苦笑いだが、スナックっぽいと言われればその通り。

 これでわかりやすい看板をあげていたら、女性やカラオケ目的の客が来てしまうかもしれない。

 実際、東武東上線を挟んだ隣の商店街、大山ハッピーロードには、『香澄』という名のスナックがある。

 こちらの名が売れていたら混同されたことだろう。


 店側のスタイルと客層が一致しないのは不幸である。

 店としては簡単に業態を変えるわけにはいかないし、客側にとっては期待を裏切られたことになる。

 

 実際、定食屋になってしまった居酒屋や、蕎麦屋だったのがカラオケスナックになってしまった店まである。

 それでよしとするかどうかは店主次第だから良いのだが、京太郎はカラオケスナックをやるつもりはない。


「お客様、というよりその可能性がある方に、店がどう見られるかをよく考えないといけません。看板は、まあ今ならお手製でも結構立派に作れます。お金も大してかけずにね」


 ホームセンターから木板を買ってきて適度な大きさに切る。

 それをカラースプレーで黒く塗り、余った方に店の名を印刷した紙をつけて、(きり)糸鋸(いとのこ)を使って文字を切り抜く。

 切り抜いた文字に色を塗って、黒い板の方に貼り付ければ完成である。


 やはりホーセンターで売っている、アーム付きのライトでも使って、光を当てれば十分である。

 階段の手すりにくくりつけてもいいし、イーゼルに置いておくことにしても良い。


 こうしたことを事細かに説明するのが鳥海の癖である。

 カクテルの作り方を教えられた時と同様、微に入り細に入り、順を追って説明する。


「あとは、店の特色です。名前もそこから考えるのが良いでしょう。力を入れている酒は何ですか?」


 そう言われて、京太郎はニヤリとした。

 もう、鳥海には悲壮感はない。

 不祥の弟子を鍛え直すつもりで、いろいろ言ってくる。

 あの、駆け出しの日々と同じように。


 とは言え、あの時とは違う。

 早く見せたいものがあったのだ。


 バックバーのすみの方から一本の瓶を取り出し、カウンターに置く。


「これは、え?カストリ?」

「はい。粕取り焼酎(かすとりしょうちゅう)です」


 カストリ、または粕取り焼酎。

 日本酒を作る際の副産物である酒粕を原料にした酒である。


「しかし、カストリと言うのは・・・」


 粕取り焼酎と言う酒は昔からある。

 日本酒の副産物であるから、造り酒屋が粕漬けなどの用途では処分しきれない酒粕を利用して作ったのだと思われるが、甘みがあり、独特の癖はあるが悪くない。


 しかし、第二次世界大戦直後、飲用ではない工業用アルコール、時には有毒なメチルアルコールなどを入れた粗悪な密造酒が『カストリ』と呼んで売られたため、混同されるようになり、すっかり印象が悪くなってしまった。

 粕取り焼酎とカストリは全く別物なのだが、特に高齢者には悪い印象がある。

 若者にとっては、カストリの方を知らないのでそんなエピソードは関係ないのだが、『カス』と言う言葉の語感がどうしても、良いものに感じられない。


「アフターコロナ、コロナの去った後って、戦後みたいなものだと思うんですよね。特に我々飲食で働く者にとっては」

「確かにそうですね」


 変わったことを考える男だと思う。

 バーに焼酎、そう言う店はなくはないが、それも粕取り焼酎を置くと言うのはなかなか発想にない。


「なら、ここからバー文化を復興するのには、粕取り焼酎から始めるのも良いかなと思いまして。あちこち探して、先週やっと手に入れたんです」

「お客もいないのに、そんなことに精を出してたんですか」


 嘆息混じりの鳥海の言葉に、もう一度京太郎はニヤリとした。


「バイトがわりのフードデリバリーのついでですよ」


 間違いなくこの男は働き者なのだ。

 手間を惜しむ、骨折りを拒むと言うことがない。

 しかし、その努力の向き先が時に、滑稽なほど間違っていることがあるので、注意が必要なのだ。


 空になったロックグラスを下げ、ショットグラスに粕取り焼酎を注いで置いた。

 鳥海は微妙な顔をしながら口をつける。


「ほう、意外と悪くないな。癖も思ったほど強くない」

「酒造会社も粕取り焼酎を復活させようと、新しい製法を開発したようです。ロックにしたり、冷やしたりするとさらにスッキリします。レモンやライムを加えてもいいようです。ロングカクテルに使っても面白いかもしれません」


 面白いことを考えるものだ。

 和風のカクテルと言うのは、鳥海も挑戦したが、日本酒を使うとどうしても他の酒やジュースに味が負けてしまう。

 芋焼酎や米焼酎の場合は香りと癖が強すぎ、今度は合わせた材料の方が負けてしまう。


 しかし、粕取り焼酎ならいけるかもしれない。


 こいつは面白い。

 霞京太郎と言う男は本当に面白い。


「こんなのも用意してみました」


 少々得意げに、もう二本の瓶を取り出す。

 マールとグラッパ、どちらも葡萄の搾りかすから作る蒸留酒で、日本では『ブランデーのカストリ』などと呼ばれることもある。

 マールはフランス、グラッパはイタリアで作られるもので、特にグラッパはイタリア料理店で食後に飲まれたりする。


「なるほど。日本のバーではあまり見かけないが、マールやグラッパのカクテルは現地にはあるし、面白いですね」


 元が葡萄であるから果実味もある。

 一方ワインとは違って蒸留酒であるから度数も高いし、ブランデーほど洗練されてない分、工夫の余地はいろいろある。

 何より、バーに通い慣れた酒飲みであっても、あまり飲みつけない酒であるから、新しい酒として紹介できるかもしれない。


「これだけ面白いことを考えているのに、誰かに知ってもらおうと言う工夫がなさすぎます。待っててもお客様は来ないのですよ」

「いや、ほんと、面目ありません」


 二人は堪えきれずに笑った。

 二人とも、笑ったのはいつ以来だろうか。

 何かの発作でも起こし方かのように大笑いし、涙まで出てきた。

 

「では、店名もカストリちなんだものにするのも面白いですね」

「バー・カストリ、ですかね・・・」

「捻りがなさすぎます。それに、カストリの専門店になるわけではないしょう?」


 半分呆れて言う。

 何より語感が良くないない。


「では、ちょっとだけ捻って、カストリーズではどうでしょう」


 京太郎は伝票を一枚取り出し、その後ろに字を書いた。


『Castries』


 そう筆記体で書き出されると、なかなか字形も悪く無い。


「ほう、響きは悪く無い。どう言う意味ですか?」

「カリブ海のセントルシア島にある地名です」

「変なこと知ってますね」


 随分とマニアックな地名に思える。

 セントルシアについては、鳥海がクラスターを起こした直後、部屋に引きこもっていた頃に見た東京五輪の開会式で紹介された記憶がある。

 しかし、カリブ海となると、バーならラムだ。


「ラムもやりたいなと思っていまして、セントルシア産のものは多くはないですが、入ってきています」

「でも、まずは粕取りでしょう?まあ、語呂合わせでカストリーズ、話の種にもなるので良いんじゃ無いでしょうか。それに・・・」


 鳥海は、おほんと大袈裟に咳払いをし、少し照れた様子で改まって言葉を続けた。


「あなたと私の名前も入っていますからね。霞と鳥海でカストリーズ。漫才のコンビみたいですが、二人でやっていくにはちょうど良いでしょう」

「二人で・・・え?」


 少し残っていた粕取り焼酎をグイと煽った。


「バーテンダーとしての腕は、もう私より上かもしれないが、マスターとしてはまだまだです。サブバーテンダーとしてこの店を盛り立てさせてもらいますよ。ね、マスター(・・・・)


 あの、慈愛に満ちた目と歪んだ口元の笑みを浮かべた。

 京太郎も同じような笑みを浮かべた。


「あんまり高い給料は払えませんよ。何せ、まだお客さんがいないんですから」

「何、食ってくぐらいの蓄えはあります。あなたとは違ってね」


 もう一度、二人は笑った。

 本当にこんなに気持ちよく笑ったのはいつ以来であろうか。


 このバーは、ここから始まるのだ。


「では、今日はもう店も閉めたんですから、この店の始まりを祝って二人で一杯やりましょう。その、グラッパでもいきましょうか」

「いえ、その前に・・・」


 京太郎は、足元の冷凍庫から、ジンの瓶を取り出した。

 ビフィーター・クラウンジュエル。

 ビフィーターはカクテルのベースとして一般的なジンだが、クラウンジュエルはそのプレミアムボトルである。


 ステアグラスに氷を入れ、メジャーカップを使ってクラウンジュエルをそこに注ぐ。


「なるほど、確かにそいつが先ですね」


 鳥海はうんうんとうなずいた。


 カクテルグラスに少しだけ、ノイリー・プラットのドライを垂らし、グラスを回して内側に広げ、余分な酒はシンクに捨てる。

 それを、三つ用意した。

 ステアグラスから酒を注ぎ、オイル漬けのオリーブを落とす。


 カクテルグラスは、鳥海の前と京太郎の前、最後の一つだけは鳥海の隣の席に置いた。


「正田さんが毎日飲んでいたレシピ通りです」


 鳥海は隣に向き、グラスを掲げた。

 少しだけ、目が潤んだ。


「正田さん、私の考え足りず、本当申し訳ありませんでした。しかし、この霞君があなたの愛したこのマティーニを引き継いでくれます。どうか、見守ってください」


 鳥海は目を瞑り、黙祷する。

 京太郎もだ。


 そして、なんの合図もなしに、二人は同時に目を開けた。


「献杯」

「献杯」


 二人のバーテンダーは、同時にマティーニを干した。



 『バー・カストリーズ』は、この翌日から始まることになる。

 腕はいいが少し抜けているマスターと、老バーテンダーのコンビは、コロナ禍からの復興を志し、再び前に進み始めるのだった。

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