19 赦してくれ
「ただいま、オレんち!」
「断じてお前んちではない」
本日も無事に生き延び、阿蘇に手を引かれてアパート前まで帰ってきた藤田である。階段ぐらいであれば目が塞がっていても全く余裕で上ることができる。彼にとって、ここはそれほどまでに馴染んだ場所だった。
「あ、ちょっと待て」
しかし、ドアの前にたどり着いた所で阿蘇が右腕を突き出し足止めをした。
……何か気になることでもあったのだろうか。尋ねると、阿蘇はしゃがみ込んだ姿勢のまま唸った。
「……誰かが家に入った形跡がある」
オイ大事件じゃん。
藤田は青ざめ、ここを離れようと阿蘇の肩を掴んだ。
「警察呼ばなきゃ」
「俺だよ」
「そうだった。えーと、曽根崎さんがコッソリ入ったとかじゃなくて?」
「あんなのに俺が鍵渡すわけねぇだろ。あ、でもアイツなら勝手に開けて入るか。クソッ、なんて兄だ」
「でも曽根崎さんだったら、後で教えてくれるよね。……しかし阿蘇、よくそんなのが分かったな」
藤田の疑問に、阿蘇は少し間を空けて答える。
「……まあ、出掛ける前にドアに挟んでた紙切れが落ちてたからな」
「何してんの?」
今日び探偵ドラマでも見ない小技である。
しかし、実際功を奏しているのでバカにすることはできない。藤田は一向にドア前から離れない阿蘇に焦れ、バシバシと腕を叩いた。
「今日は別んとこ泊まろうぜ」
「……いや、ここに帰る」
「何言ってんだ、危ねぇだろ」
「少なくとも今夜は大丈夫だ」
どうしてそんなことが分かるんだよ。
怪訝な顔をした藤田に気づいたのか、阿蘇は根拠を教えてくれる。
「敵が危害を加えるつもりなら、俺らがいる時間帯に来たはずだろ。が、留守を狙ったというなら、ヤツらの目的は別にあると考えるのが自然だ」
そして阿蘇はドアノブに手をかけ、ガチャリと回した。オロオロとする藤田を無視し、彼は一直線にある場所に向かう。
ガサガサと何かを引っ掻き回した後、彼は「あー」と困った声を上げた。
「やっぱレポートが無ぇわ。藤田ドンマイ」
「嘘、マジで?」
「マジマジ。兄さんに連絡しとかなきゃな」
阿蘇はスマートフォンを取り出し、曽根崎に電話をかけ始めた。……家に侵入されたというのに、やたらと落ち着いたものである。やはり、自分と彼とでは潜ってきた修羅場の数が違うということか。
どことなく、吹っ切れたような感じもするのだが。
「……だけど、なんでオレがレポートを持ってるって犯人にバレたんだろう」
腕組みをして考える。
事情を知っているといえば、まず曽根崎さんの事務所絡みの人間だ。その内の誰かから漏れたのか?
……いや、仲間内で疑うと果てがない。では、他の可能性はどうだろう。例えば、教授からレポートを奪った瞬間を見ていた人物とか……。
しかし、そんな藤田の思考は阿蘇の問いかけに中断させられた。
「藤田、お前、深馬って知ってる?」
「え、誰それ」
ソイツが怪しいのだろうか。だがそれを尋ねる前に、また阿蘇は電話に戻ってしまう。
「兄さん、藤田は知らないってよ。……うん、そう。ああ、今日は家に泊まるつもりだ。問題ねぇよ、俺もいるし」
藤田は、阿蘇の声を半ばうわの空で聞きながら、“深馬”について思いを巡らせてみることにした。
……誰だろうな。最近新しいセフレもできてないし、もしかしてセフレのセフレとか? や、そこまでいくといくらなんでも覚えが……。
……あれ、そういえば、学会でそんな名前を名乗る男が一人いたような……?
「よし、メシにしよう」
背中をトンと軽く押され、藤田はハッと振り替えった。
「手ェ洗ってこい、藤田」
「こんな時にメシって、お前ちょっと豪胆過ぎない?」
「ンなこたねぇよ。何にしても、食わなきゃ生きていけねぇだろ」
余裕のある彼の言葉は、謎の植物を抱え明日をも知れぬ自分の身に酷く染みこんでいく。ひょっとすると案外自分は参っているのかもしれないな、と藤田は思った。
……なんだか、昨日とは立場が逆転してる気がする。どっしりと構えているというか、阿蘇の焦りが消えているというか。
……。
「……ベッドの上での主導権は譲らねぇからな」
「譲ったことも譲られたことも、そもそもベッドの上で主導権云々が必要な行為をしたこと自体ねぇからな。首と胴体切り離すぞ」
「結構ダイレクトに死ねって言われた」
一発頭をはたいて、阿蘇はキッチンへと向かう。残された藤田は、大きく息を吐いてベッドにダイブしたのであった。
そんなことがあったからだろうか。その晩、藤田は妙な夢を見た。
――フラフラと道を歩いている。迷っているのではない。助かりたくて、既に思うように動かなくなった足を必死に引きずっているのだ。
目隠しは、いつのまにか取れてしまっている。構わない。今は無い方がいい。でないと、目的地を見失ってしまう。
ああ、それにしても目の奥が熱い。呼吸をするたびに、細胞が焼けていく。苦しい。痛い。とてもこのままではいられない。
早く、早く、早く、あの場所へ。
――やがて、目指していた場所に到着する。
藤田は、倒れるようにその場に跪いた。覗き込むのは、底が見えぬほどの深い穴。だが、肉を食む植物に侵された藤田の目は、そこに蠢く何かをハッキリと映していた。
目。
複数の目。
色も、大きさも、一つとして同じものが無い大量の目が全てこちらを向き、落ちてくる獲物を今か今かと待ち構えている。
獲物とは誰だ?
獲物とは、自分だ。
だが、それが救いなのだ。脳を、目を、全身を蝕む苦しみから逃れるには、おぞましき寄生体をここに落とすしか無い。
穴に向かって頭を突き出す。
底で我が身を待ち望む目が大きく開かれる。
目の周りにびっしりと生えた白濁色の歯が剥き出しになり、瞬きのたびにカチカチと耳障りな音を立てていた。
――喰わ、れる。
藤田は、己を呼ぶ神への喜びに身を投げた。
「――アッ、わ、あ」
そこで飛び起きた。呼吸と動悸は荒れ、全身びっしょりと汗をかいている。
指で触れた目隠しは、ちゃんとまだ自分の目を覆っていた。
それなのに、震えが止まらない。床に敷かれた布団の上で、藤田は冷たい自分の身を両腕で抱えた。
――あれは不浄だ。この世の汚れだ。
あの穴は、罪を犯した自分を呑む為に神から遣わされた断罪である。永劫救われない自分は、あそこに突き落とされることで贖罪を果たさねばならないのだ。
そう思い込みかけて、藤田は頭を振る。左腕に残る傷痕に爪を立て、強く引っ掻いた。
――教祖は死に、教団は解体した。もう存在しないものが、今回の事件と関わってくるはずがない。
何より、あの時他でもないこの自分が、自らの意思で肉から切り離して捨てただろう。
だから、ヤツらは追ってこない。二度と蘇らない。
二度と僕の何もかもを縛り、傀儡とすることはない。
そう、亡霊でもない限り、ここには誰も――!
「藤田」
――闇に落ちた一滴の声に、藤田の心臓は跳ねた。
何も見えない夜の中で、混乱に惑う彼は咄嗟にその波紋へと手を伸ばす。
まるで深い沼から引き上げるように、すぐに大きな手が手首を掴んできた。
体が引っ張られる。耳の近くで、優しい声が聞こえた。
「どした」
その温度は、冷たく真っ暗な世界で唯一の生きた熱だった。
「……」
――彼は、すぐそこにいるのだ。
安堵と不安がないまぜになった感情が喉奥から噴き出しそうになるのを堪え、藤田は掠れた声で友の名を呼んだ。
「……た、だくん」
「うん」
「ただ君」
「うん」
「僕は……怖い、夢、を」
「うん」
「……ッ」
突然記憶が蘇った。
穴から吹き上げる風が前髪を浮かせる。ギョロギョロとした目が、穴の底で生き餌を食む歓喜に歯を打ち鳴らしている。
――喰われる。喰われる。喰われる。
耐えがたい恐怖に、藤田は思わず空いた方の手で阿蘇の胸元を握りしめていた。
「……大丈夫」
その手に、彼の手が重なる。幼馴染の声はどこまでも優しく、確かな強さを伴って自分に降ってきた。
「心配するな。絶対に俺が助けるから」
「……阿蘇」
両手を取られる。彼の温かい血が、皮膚越しに自身の血管を流れていくようだ。
だが、なおも頭の中の怪物は消えない。こびりついた死に、正気と記憶がぐちゃぐちゃにかき混ぜられている。
……体の震えの止めることができない自分など、見るに耐えなかったのだろうか。阿蘇はため息をつくと、小さな声で藤田にとある提案を持ちかけた。
その内容を聞いた瞬間、ビクッと藤田の肩が揺れる。目隠しをして何も見えない目を、恐る恐る彼の顔へと向けた。
「……阿蘇。ダメだ。それだけは……」
「俺はいいから」
「お前は、オレにとってそんなんじゃ……!」
「言ってる場合かよ」
――ダメだ。それでも、これだけはダメなんだ。
しかし藤田が躊躇っている間に、阿蘇は自分のベッドに上がってしまう。
「今は何も考えるな。……ナオ」
繋がれた手が、解かれる。
そうなるともう全ていけない。
「……」
藤田は彼の前に膝をつき、ただ自身に絶望していた。
――この男に己が望む咎を与えられたなら、もう抗うことはできない。
振り払うことができない。
――オレは弱いんだ。本当に弱いんだよ。
「……いいのか」
「おう」
「本当に?」
「おう」
そうか。
それならば、もう従ってしまおう。
両手の指を絡め、それを自分の唇にあてる。
声が、彼以外に聞こえないように。
言葉が、彼以外の場所に逃げないように。
そうして、己の全てを捧げる。
「……すまない、僕を赦してくれ」
彼は何も言わない。何故なら、それがルールであるからだ。
そうだ、こんなことは健全ではない。
永遠に続くものでもない。
だというのに自分はずっとやめられず、彼も受け入れ続けてくれている。
互いが消耗するだけの、脆弱で、不毛なこの時間を。
誰も彼もが眠る夜。
何の変哲も無いあるアパートでは、ひたすらに静かな時が流れていた。





