9 火町
――仕方ないだろ。だってどう考えても関係ありそうだったんだから。
「初めまして、暁闇出版の月上です。で、こちらはオカルト専門フリーライターの曽根崎」
「よろしくお願いします」
「え、ええ……こちらこそ……」
場所は柊の行きつけの喫茶店。彼女は持ち前の美貌をくしゃりと崩し、向かいに座る女性――火町詩子に笑いかけた。
結局、柊に一通りの事をバラし、同席させてもらうことにした曽根崎である。
ただし、ミートイーターが藤田に植えられているという事実は伏せたので、あくまで彼女はいつもの曽根崎案件と思っているのだろうが。
火町は、猫っ毛の茶髪を青いリボンで無造作に結んだ、覇気の無い女性だった。なんとか柊の笑顔に笑い返そうとしたものの、柊の隣に鎮座するおどろおどろしい男の顔を見て目を伏せてしまう。
……そんなに怖いか? 私の顔。
「お面でもかぶる?」
「大きなお世話だ」
ヒソヒソ声で茶化す柊を、ぴしゃりと跳ね除ける。
柊はすぐにふざけるのをやめると、火町に向き直りまた微笑んだ。
「このたびは、取材をお引き受けてくださりありがとうございます。お約束通り、火町様の本名や顔等の個人情報は決して表に出しません。何でも遠慮無くお話しいただければと思います」
「はい……」
下を向いたまま弱々しい返事をする火町は、とても積極的に何かを話してくれるようには見えない。
本当に大丈夫だろうか。
しかし、存外早く曽根崎の予想は外れることになる。
火町は下を向き、猫っ毛をいじりながら「ふふ」と自嘲気味に笑った。
「私、多分頭がおかしくなってるんです」
その言葉を皮切りに、一気に彼女は語り始めた。
「実は私、数ヶ月前から精神科に通ってるんです。でも全然症状は良くならなくて、だから最初はとうとう幻覚が見え始めたんだと思ったんです。だけど、どんなに周りの人が穴を見えないと言っても、私は穴に近寄って触ることすらできて……。こんなの、とても普通じゃない。このままじゃ本当に頭がおかしくなりそうで、とにかく誰でもいいから、私の話を聞いてもバカにしない人に、この話を聞いてもらいたかったんです」
「……そうだったんですね」
柊は、優しい声と共に頷いた。
「ご事情は分かりました。……安心してください。私達はあなたの話を笑ったりなどしませんよ」
「……ありがとうございます……気休めでも嬉しいです」
「あら、気休めなもんですか。何を隠そうこちらの曽根崎、彼も穴を視認できる人間の一人なのよ!」
「ん!?」
早速バラしたぞコイツ!
慌てて否定しようとした曽根崎だったが、驚いた火町が目を輝かせてこちらを見てきたせいで、言葉を飲み込まざるを得なくなった。
「本当ですか? 曽根崎さん……」
「……ええ、まあ」
「お、大きな穴ですよね? 直径五十メートルくらいの……」
「はい。しかも底が見えず、小石を落としても音はしないような深さの」
「あああ! やっぱり私だけじゃなかったんだ……!」
心底安堵したように、火町は両手で曽根崎の手を取った。あまりに気が緩んだせいか、その声には涙が滲んでいる。
「私、ずっと怖かったんです……! ただでさえ周りの人が信じられないのに、自分まで信じられなくなるなんて……」
「はぁ」
「……でも、だとしたら何故私や曽根崎さんにだけ見えるのでしょう。何か共通点があるとも思えないですし……」
「それは……まだ分かりませんね」
曽根崎は半分嘘をついた。きっと、彼女もあの黒い男が始めた不愉快極まるドミノに巻き込まれてはいるのだろう。しかし、だからといって、彼女がどのピースに当たるかは不明だった。
火町の幸薄げな顔に、曽根崎はできるだけ真摯に話しかける。
「だからこそ少しお話を聞かせてください。貴女と私に共通点が見つかれば、あの穴の正体も解明できるかもしれません」
「はい……わかりました」
「ありがとうございます。ではまず、火町さんのご職業からお聞かせ願えますか」
火町は一瞬躊躇った後、自分は神菅大学の院生であると言った。ただし半年ほど前から体調を崩し、現在は休校しているのだという。
「当時お付き合いしていた人と別れた時に、とても……粘着されたんです。いえ、私も問題があったのですが……。それで、その、精神的に参ってしまって」
「そうですか」
その辺りは興味が無かったのでスルーしようとした曽根崎だったが、柊が首を突っ込んできた。
「問題があったってなぁに? もしかして、なんかマズイ対応しちゃったとか」
「あ……ええと、そんなんじゃないんです。私が、別の人を好きになってしまって……」
「それならよくある話よぉ。ちゃんと別れ話持ってっただけ誠実だわ」
「あ、いえ、その……」
すっかり砕けた調子の柊に対し、なんとも歯切れが悪い反応である。そんな火町を眺めていた曽根崎は、ふと思いついた疑問を投げてみた。
「……もしかして火町さん。その問題とは、和井教授に関わる何かではありませんか?」
「……!」
サッと火町の顔が青ざめる。まさかドンピシャだとは思わなかった曽根崎は、しかしそれを悟られないよう口の前で手を組んだ。
「な、なんでその人のことを……?」
火町は、唇をワナワナと震わせている。
「で、でもそれって、私が見える穴には関係ないでしょ!? あ、あ、もしかして、あなた達、雑誌記者じゃないわね!?」
「火町さん、落ち着いて……」
「教授の奥さんに雇われた探偵か何か!? ひ、酷いわ! 私、教授に言われて付き合ってたんだから! ふ、不可抗力よ!!」
聞く耳持たずとなった火町は、最後は人目を憚ることなく叫ぶように言い訳を吐いていた。彼女は椅子を倒して立ち上がると、鞄を引っ掴みあっという間に走り去ってしまう。
カランカランとドアベルが鳴る。残された曽根崎と柊は、彼女の豹変と迫力に呆気に取られぽかんとしていた。
「……いや、半年前から始まって今も続いてるんならそれ不可抗力じゃないわよ……」
「正論だな……」
柊の呟きに、つい曽根崎は賛同してしまった。
それでやっといつもの調子に戻った彼は、彼女に取材相手を怒らせてしまったことを詫びる。
「すまなかったな。しかもここは君の行きつけの喫茶店だろう」
「あら、優しいのね。お気になさらず、これぐらい案外日常茶飯事なんだから」
「それはそれで落ち着かない店だな」
ともあれ、やはり今回の謎は和井教授を取り巻く関係から見えてきそうだ。曽根崎は火町に見せ損ねたエアーメールを思い出し、自分の至らなさを少し後悔した。
さて、そろそろ帰ってここまでの情報をまとめるとしよう。お手伝いさんの授業も終わる頃だろうし、彼に意見を求めるのもいいかもしれない。
曽根崎は柊に礼を言うと、五千円札を置いて喫茶店を出たのであった。
「……それ、どういう意味なんですか」
誰もいない事務所。ブラインドが下がったままの薄暗い室内で、竹田景清はスマートフォンを耳にあて立ち尽くしていた。
「いや、意味が分かりません。だって僕は、昼まで彼と一緒にいたんです」
彼はひたすらに困惑していた。足元に落ちたビニール袋からは、買ったばかりのジャガイモが転がり出ている。
電話の向こうにいる世話焼きな男は、なんとか言葉を選んで事態を伝えようとしていた。しかし、その努力も虚しくとうとう景清に臨界点が訪れる。
息を吸い込み、景清は絶叫した。
「だから! 曽根崎さんの死体が見つかったってどういうことなんですか!!」
がらんとした事務所に、彼の声が反響する。
――爪が食い込んで血が滲むほどに、彼は拳を握りしめていた。





