2 肉の蔓
「じゃ、兄さんには連絡したから、夕方ぐらいに事務所に集合ってことで」
「あいあいさー」
「しっかり寝とけよ。どうせ最近ロクに寝てないんだろ」
「確かにそっちの意味ではあんまり寝てないかも」
「いや、あっちの意味でそのベッド使ったらぶっ殺すからな」
遠慮なくベッドに寝転ぶ藤田を置いて、阿蘇は部屋を出た。
……なんだかんだで、ヤツは夕方まで寝倒すのだろう。
鍵だけはしっかりと閉め、上司との待ち合わせ場所をスマートフォンで確認する。
――人に寄生し、生長する植物か。
藤田との会話を思い出してしまった阿蘇は、今は忘れてしまおうと片手で頭をガリガリとかく。
見上げた空は反吐がでるほどに青く、いかにもな晴天である。こんな休日に後輩の結婚式の打ち合わせなんざ行きたくなかったが、多分こういうものこそ俺の日常には必要なのだろう。
阿蘇は、約束の時間に遅れぬよう早足で駐車場へと向かった。
地震が起きたのは、カラオケ店を出てすぐのことである。
幸い数秒で収まった地震だったが、一警察官としては被害状況を見て回らなければならない。
そう思った阿蘇は歩き出し、まだ地震の余韻に興奮する人々をかき分けていった。
そして、二つ目の角を曲がった時にそれを見たのである。
「なっ……!?」
唐突に都市に現れた巨大な穴に、阿蘇は思わず声を上げ後ずさった。
――自分が行こうとしていた道が、丸々消えている。思いも寄らぬ異常事態に、彼は自分の目がおかしくなったのかと疑ったほどだった。
慌てて周りの人を見るが、穴の存在に気づいていないのか全く素知らぬ顔で行き交っている。強いて言うなら、血相を変えてキョロキョロとする男に不審そうにしているぐらいか。
……なんだ? 自分以外には、これが見えていないのか?
だが、穴に向かう人は誰一人としていない。みんながみんな、器用にそれを避けているのである。
「意味がわからん……」
何かの撮影か、イタズラだろうか。いや、それにしては手が込みすぎている。
阿蘇は、恐る恐る穴に近づいてみた。
膝をつき穴を覗き込んでも、全く底が見えない。
ただ、真っ暗な闇が広がるだけである。
試しに近くの小石を投げ込んでみた。小石はあっという間に見えなくなり、何の音も返らずに終わった。
阿蘇は唾を飲み込むと、体を引く。
――見ているだけで、吸い込まれてしまいそうだ。
兄に報告した方がいい。阿蘇はそう決め、踵を返す。
なんとなくだが、彼も自分と同じくこの穴を視認できるような気がした。
車を止めてある駐車場に行こうとする。しかし、二、三歩も歩かない内に彼はピタリと足を止めた。
視線の先で、ある一人の男が穴に向かっているのを見つけたのである。
「すいません、そこの人」
正直に言うと、少しだけホッとしたのだ。
やはり、自分だけがこの異常を見ているわけではない。その事実は、突如突き落とされた自分の混乱を和らげてくれるように思えた。
だが、そんな彼の期待はすぐに裏切られることとなる。
「……ッ!?」
走り寄って見た男の姿は、凄惨なものだった。
高そうなスーツは泥と血にまみれており、腕や指はあらぬ方向に曲がっている。その口からはだらだらと血が混ざった涎が垂れ、白く濁った目は何の景色も映していなかった。
――まるで、大型トラックに跳ね飛ばされた死体がここまで歩いてきたかのようだ。
阿蘇は、異様極まる男に言葉を失ってしまっていた。
「……」
しかし、男は阿蘇の存在など気にも止めずにヨタヨタと折れた足を引きずっていく。
そして穴の前まで着くと、四つん這いになって穴を覗き込んだ。
「危ない!」
ここで動いてしまったのは、警察官としての責任感からだろうか。阿蘇は男の汚れた背広を掴むと、落ちないよう後ろに倒したのである。
ぐるん、と男の顔が天を仰ぐ。その目は、阿蘇に向かって突き出されていた。
“ 突き出されていた ” のだ。濁った眼球は微かに尖っており、阿蘇が何か行動を取る前にグチョリと破れる。
中から出てきたのは、赤い肉の蔓だった。
視神経やら筋肉やら血管やらが複雑に絡みつき、一本の太い蔓になり、先端が膨らんでいる。それが蠢くと、液が飛び散り、血の匂いが辺りに充満した。
不気味だったのは、こんな状況にも関わらず、男が恍惚とした表情を浮かべていたことである。
「わ、あああっ!!」
とても正視に耐え得るものではない光景に、阿蘇はつい男を突き飛ばす。彼は一度よろめいたが、また四つん這いになって穴を覗き込もうとしていた。
――ヤツは、あの肉の蔓を穴に落とすつもりなのか?
阿蘇はどうしていいか分からなかった。阻むべきか、このままあの肉の蔓を底の見えない穴に落としてしまうべきか。
きっかり二秒迷った挙句、せめて男の身だけでも助けようと手を伸ばす。
だが、その手は強く男に振り払われた。
「は!?」
思わぬ抵抗に呆気にとられている隙に、蔓の先にあった膨らみがスルリとほどける。
開いたそれは、まるで花弁のようであった。
薄く桃色に透き通った四枚の花弁。思いがけず美しい花を目から咲かせた男の体は、ゆっくりと穴に倒れていく。
だが阿蘇の心臓は、目の前の情景ではなく別の胸騒ぎによって激しく高鳴っていた。
――人に咲く、花。
今朝藤田から聞いたばかりの話を思い出す。そういえば、さっきの男は大学教授と呼ばれても差し支えないぐらいの年齢だった。
……藤田は、とある教授と一晩を過ごしたと言っていた。
もし、花を咲かせ穴に落ちていった男が、例の教授だったとしたら。
――植物は、肉に寄生する。
ならば、教授と共にいたアイツは――!
「……藤田」
いてもたってもいられなかった。阿蘇はポケットに入れていた車の鍵を握りしめると、一度も振り返ること無く駐車場に走っていったのである。
 





