17 満たされない思いは
タクシーの料金を支払い、僕と曽根崎さんは閑静な住宅街に降りた。
ちょうど土地開発中の場所なのか、家数の割に明かりが灯っている窓は少ない。ひょっとすると展示用の住宅も混ざっているのかもな、と僕は思った。
「……曽根崎さん、あそこですね」
だからだろうか。数分前に派手な音を立ててクラッシュしたはずの車にも、一切の人だかりはできていなかった。
だが、その方が僕らにとっては具合がいい。「私から離れるなよ」と曽根崎さんは一言言うと、迷いの無い足取りでひしゃげた車に向かった。
エアバッグの開いたハンドルに上体を投げ出した女性に、薄ら笑いの男は声をかける。
「どうもこんばんは。起きていますか、奈谷さん」
その声に、奈谷は目に殺意の色を宿らせてキッと彼を睨んだ。
「アンタ……佳乃の……!!」
「お怪我はありませんか。……ああ、足が挟まっているんですね。見たところ折れてはいないようですが、病院には行くべきでしょう。すぐに救急車を手配します」
「……放っておいてくださる? 自分のことは自分でやりますので」
「おや、今朝はあれほど私に執心してくださっていたというのに、つれない人ですね。構いませんよ? 今の私は恋人といるので、貴女を助けても誤解される恐れはない」
「誰がっ……アンタになんか……っ!」
感情的になった奈谷が曽根崎さんに拳を振るうが、彼は車から体を離しあっさりそれを避けた。
……ところで、恋人とはやはり僕のことだろうか。否定したいが、喋れば男とバレるので黙っているしかない。
奈谷は悔しそうに曽根崎さんを見て、吐き捨てた。
「アンタみたいな不気味な男、私が好きになるわけないでしょう! 佳乃の好きな男を奪ってやりたかっただけ……アンタの恋人なんて、生まれ変わっても願い下げだわ!」
「……うん、なんだ、そんな所だろうとは思っていましたけどね……景子君、その『でしょうね』とでも言いたげな顔をやめろ」
お、前を向いているのに何故分かった。勘が働く人である。
曽根崎さんは咳払いをし、気を取り直して続けた。
「しかし、不思議な話だ。貴女は何故、光坂さんが私に熱を上げていると知っていたんです? そのような会話は、事務所か占い館の個室でしかされなかったはずですが」
「……」
「だんまりをするなら当ててあげましょう。貴女は、とある力を使って、光坂さんのいる場所を覗き見ていたのです。その力は大変便利なものですが、一方で人が犠牲になるというデメリットも有していた。……もっとも、貴女がそれをデメリットと認識していたかは疑問ですがね」
「……嫌な人。やっぱり、気付いていたのね」
「まあ、だいぶ遅れをとりましたが。……さあ、早く認めてしまいなさい。恐らく貴女がこうして静かにしているのも、あの黒い男を待っているからなんでしょう?」
曽根崎さんの何気ない指摘に、奈谷の目が驚愕に開かれた。
「な、ぜそれを……」
「一ついいことを教えてあげましょう。……あの男は来ませんよ。何故ならヤツは、 “ 終わろうとするもの ” に関心を抱くことはないからです」
人差し指を唇にあてて、内緒話でもするように彼は言う。
「貴女は、光坂さんに害を為して全てを終わりにするつもりだった。そんな貴女に、これ以上あの男が手を貸すはずがないのです」
「……嘘よ」
「嘘なものか。その証拠に、最後の事件においてあの男は証拠隠滅を怠ったよ。つまり、貴女の指紋がついた水晶が現場に残されている。因果関係が証明されれば、もう罪から逃れることはできない」
「……いえ……わ、私には、アリバイがあるわ! 私は何もやっていない!」
「残念、この手の事件にはこの手の事件専門の機関があるのです。貴女はそこに送られて、きっちり裁かれることになる」
曽根崎さんの薄ら笑いが、嘲笑に変わった。
「――覚悟するがいい。連続殺人事件もストーカーも、貴女の今後一生の自由を奪う罪だ」
――うああ、ああ、あ。
奈谷の口から、絶望と諦めのこもった呻き声が漏れた。ぐったりと座席に沈み込み、虚空を見上げる。
彼女は、罪を認めたのだ。
「なんで」
そして、力無く本音が吐露され始める。
「なんで……なんで私は満たされないの? どれだけ佳乃を貶めても、見つめても、知っても、ずっと私は渇いている。これは何? 何なのよ……」
「……」
「ねぇ、他の人間がどうなろうと、私は知ったことじゃないの。だって、私が一番大事にしなきゃいけないのは、私自身でしょう? あの時、佳乃もそう言ってくれたの。だから、私のせいで人が死んでも、何とも思わなかったわ。本当よ? その分、私は佳乃を見ることができたんだから……」
「……」
「でも、本当は見たくないの。知れば知るほど佳乃は醜い女になるし、私は渇いていく。なのに止められない。どうしても見てしまうの。ねえ、助けてよ。これは何なのよ……!?」
「――転移性恋愛」
「え?」
ずっと沈黙を保っていた曽根崎さんは、組んだ腕を人差し指でトントンと叩き、呟いた。
答えが返ってくるとは思わなかったのだろう。奈谷は、ポカンと口を開けて彼に睫毛の長い目を向けた。
「本来は臨床心理の場で使われる言葉でね、患者が治療者に実の伴わない恋愛感情を抱くことを指すんだ。治療回数を重ね二人の信頼関係が構築されるにつれ、患者がかつて別の人間に対して抱いていた感情を、信を寄せる目の前の治療者に転移させていく……。『この人を私は愛し、自分もまた愛されているに違いない』と錯覚してしまうんだ」
「……」
「貴女が光坂さんと出会ったのは、占いの場でしたね? 当時恋人に裏切られ心身共に弱り切っていた貴女は、光坂さんの親切で献身的なセラピーに心を癒されただけでなく、あろうことかその恋人の代わりをも彼女に求めてしまった。勿論、無意識下でのことでしょうが」
「……あ……」
「そこを、黒い男につけこまれたのでしょう。『もっと彼女を知りたくありませんか』『彼女に近づきたくはありませんか』などと言われて」
呆然とする奈谷の目を覗き込み、曽根崎さんは追い詰めていく。
「……先程貴女は、光坂さんにいくら関わっても自分が満たされないと言った。当然ですよ。貴女が光坂さんに求めていたのは “ 恋人としての繋がり ” なのです。貴女を一人の客としてしか見なしていない光坂さんに、満足させられるはずがない」
「あ……あ」
奈谷は、震えていた。叫びたいだろうのに声は掠れ、走ったわけでもないのに息は切れている。
「そんな……だって、私は、佳乃を憎いと、醜いと……!」
「愛する相手がつれない態度だと憎くもなりますよ。普通のことです」
「私達は女同士なのよ!? 同性に恋をするなんて……!」
「関係あります? まぁその点も、貴女の感情がこじれる遠因にはなったのかもしれませんね」
不気味な男に精神の脆い部分をえぐり取られた奈谷は、とうとう次の言葉を失い、ただ涙を流すだけになった。
そんな彼女の感情をなおも逆撫でするように、曽根崎さんは静かに告げる。
「何にせよ、貴女はもう終わりです。じきに警察も来るでしょう。そうなれば、貴女は二度と生きて光坂さんに会うこともない」
「……佳乃……」
「名前を呼ぶのは自由ですがね。倫理観だけでなく黒い男の協力すら失った貴女では、もはや何も届きませんよ」
「あ……う……あああああ!!!!」
いきなり奈谷は叫んだ。まるで獣のように手当たり次第引っ掻き、美しくマニキュアの塗られた爪が折れる。
そして、助手席に置かれて半分潰れた鞄に手を突っ込み、無理矢理何かを引きずり出した。
それは、ガラスのはめ込まれた三十センチ四方の窓枠だった。
「佳乃っ……佳乃!!」
奈谷はそれを鷲掴みにすると、ガラスに割れた爪を立て、横に引きながら何やら呪文を唱え始める。
――これが、彼女の覗き穴か。
「景清君、今だ!」
「はい!」
曽根崎さんの合図と共に、僕はワンピースの中に隠していた護身用の鉄製ステッキを振り上げた。車内に勢いよくステッキを突っ込み、奈谷の持っていた窓に打ち付ける。ガラスは、彼女の手の中で呆気なく粉々になった。
作戦通りである。
「あああ、あ、アンタ、アンタよくもおおおおおお!!!!」
「うわっ!」
「景清君!」
錯乱した奈谷に掴みかかられそうになるが、間一髪曽根崎さんが襟を後ろに引いてくれたおかげで逃れることができた。
「窓が! 私の窓が! 返しなさい! 今すぐ! 私の佳乃を!!」
窓から女の腕が出てくる。しかし、足を挟まれている以上奈谷の攻撃がこちらに届くことはない。
それをよく分かっている曽根崎さんは、頭をかきながら鷹揚に返した。
「割れたものはどうしようもないだろ。……ま、あの取り乱しようだと、予備は持ってなさそうだ。景清君、よくやってくれた」
「あーもう、本当怖かった……。うまくいって良かったですね」
「うん、彼女なかなか獲物を出さなかったから、どうしようかと思ったけどな。そのせいでうろ覚えの知識まで引っ張り出さなきゃならなくなるし……。転移性恋愛云々の話は、適当に言っただけだから真に受けるなよ」
「奈谷さんが怖すぎてその辺りあまり聞いてなかったので、大丈夫です」
「コイツ」
――事前に、タクシー内で話していたのだ。
今から奈谷の元へ行く最大の目的は、彼女が隠し持っている覗き穴を作る道具を破壊することだと。その為に、まず曽根崎さんがどうにか頑張って奈谷を追い詰め、彼女が道具を出した所で僕が割り込み壊さねばならないと。
……僕が壊すのは構いませんが、曽根崎さんの方が位置的にやりやすいんじゃないですか?
「私が拘束される可能性もあるし、何より今の君は可愛い女の子なんだ」
曽根崎さんは、僕のウィッグをクルクルと指に巻きつけながら言った。
「相手も油断するだろ?」
オッサン、とことん僕の女装をいじるな?
実際のところ、相手は我を失っていたので女の子云々は関係なかったのだろうが。
背筋を伸ばした曽根崎さんは、軽く腕をストレッチして言う。
「よし、これで彼女は手足をもがれたも同然だ。あとは忠助が来るのを待つだけだな」
「レッカー車もいりますよ、これ。手配しときます?」
「いや、いい。とりあえず彼女を然るべき場所で拘束して……」
言いかけて、曽根崎さんのスマートフォンに着信が入った。阿蘇さんからだ。曽根崎さんは僕にも聞こえるようスピーカーフォンにしてくれると、応答した。
「はい、こちら曽根崎」
『兄さん、俺今事務所なんだけど』
「えらく遅いな。てっきり、もうそろそろこちらに到着する頃だと思ってたよ」
『兄さんに言われた水晶を探してたんだよ。景清君のズボンのポケットに入ってるって言われたけど、無くってさ。どこか別の場所に落ちてるんじゃないかって今見てんだ。心当たりねぇ?』
彼の言葉に、曽根崎さんの口角が上がる。あれは、恐怖と不安に動揺した時の表情だ。
「景清君」
違和感を悟った阿蘇さんの声を無視し電話を切った曽根崎さんが、こちらを向かないまま低い声で僕に呼びかける。
――背後の車の中から、呪文のような言葉が聞こえてきた。
「逃げるぞ」
突如彼に腕が引っ張られる。僕は何がなんだか分からないまま、曽根崎さんに続いて足を動かした。
どこからともなく、何かが腐ったような凄まじい悪臭が漂ってきた。





