11 僕のことを
事件現場は、一般的なビジネスホテルの一室だった。既に警察が入っており、そこはかとなく周りが慌ただしい。
「阿蘇さん、こちらです!」
若い警察官の誘導に従い、ホテルの廊下を早足で進んでいく。警察官の背を追う阿蘇は、息一つ乱れさせることなく尋ねた。
「現場は何階だ?」
「五階です」
「嘘だろ? 一階まで臭いが来てるぞ」
「それでホテル側もすぐ気付いたそうです。一刻も早く検証を済ませ、せめて臭いだけでも消してくれないと商売上がったりだとオーナーに泣きつかれました」
「叶えてやりたいが、現場の状態を考えると難しそうだな」
「ええ。なんせ今回は死体が出ましたから」
その言葉に、曽根崎は引き攣った笑みを浮かべた。一番後ろにいたので、不謹慎な表情が誰にも見られなかったのは幸いであった。
件の部屋に近づけば近づくほどに、鼻をつく悪臭は酷くなる。普段感覚の鈍い曽根崎ですら、袖で鼻を覆った。
「この部屋です」
ドアが開けられる。次の瞬間、今までとは比にならないぐらいの激臭が彼らに襲いかかった。
あまりの臭いにえづき、勝手に涙が出てくる目をこする。それでも、曽根崎と阿蘇は中の惨状を確認した。
室内は、思ったほどの荒れ方はしていなかった。
カーペットの所々にヌタヌタとした青色の膿がこびりついてはいるが、カーペットやカーテンは綺麗なままで、備品も整然と置かれている。
しかし、決定的に今までの事件と一線を画しているそれを目に入れた瞬間、兄弟二人は悪臭を忘れて立ちすくんだ。
部屋の隅で転がっていたのは、一人の老人の死体であった。
「いえ、彼は老人ではありません」
警察官は、鼻をハンカチで塞ぎながら言う。
「二十代前半の青年です。身体中の体液を抜かれています」
「死因は失血性ショックか?」
「だと思います。一箇所を除いて、目立った怪我は無いので……」
白い手袋を着けた曽根崎が、死体の服をめくり上げる。男が片手で押さえていた脇腹辺りに、注射針で刺されたような跡が残っていた。
「わざわざ注射器で全身の体液を抜き取ったのでしょうか? でも、何故そんなことを……」
若き警察官の声が震えているのは、恐怖からだけではないのかもしれない。曽根崎と阿蘇は目線を交わし、彼には別室で休んでもらうことにした。
だいぶ鼻も慣れてきたところで、曽根崎は腰に片手を当てて部屋を見回す。
「じゃ、改めて調査だな」
「おう」
「まず思うことなんだが……なんていうか、今までの現場に比べて部屋が綺麗じゃないか?」
「それは俺も思った。……で? これを見た怪異の掃除人はどういう仮説を立てる?」
挑発的な弟の発言に、曽根崎は顔色一つ変えずに腕を組んで答えた。
「普通に考えるなら、時間が無かったんじゃないか? 今までは死体を片付け、部屋を荒らす時間を作れたが、今回はそれができなかった」
「死体を片付けるのは分かるが、何の為に部屋を荒らすんだよ」
「そりゃ何かを誤魔化したいからか、アピールしたいからに決まってる」
「誤魔化す?」
「例えば、証拠品とかだな。ほら、木を隠すには森の中と言うだろ? 回収しにくいものなら他のものに紛れ込ませてしまえばいい。――例えば、この破片のような」
曽根崎は、被害者の周りに散らばるガラスのようなものを靴先で指した。
「ま、こればかりは他の事件との照会が必要だな。私の記憶が正しければ、全ての現場において窓なりガラステーブルなりが割られていたはずだが」
「オーケー、すぐ確認させるわ。……ちなみに、アピールしたいからってのはどういうことだったんだよ」
「世の中には一定数、自分の力を誇示したい人種がいる。よく分からんから詳しくないが、そういう性格のヤツが犯人だとこういう現場になったりする」
「そういうもんかね」
阿蘇が電話している間に、曽根崎は他を調べ始めた。
被害者の体を探っていると、ポケットに財布があった。中をあらためてみると、案の定占い館「ダスク」のカードが出てくる。
やはり、この繋がりは間違いなさそうだ。
ところで、青い膿を肉眼で見たのは初めてである。息を止めてよくよく観察すると、落ちた膿周りのカーペットまで侵食され汚く変色してしまっていた。
「兄さん、それ、触るなよ」
電話を終えた弟が言う。
「匂いが取れなくなるとかじゃない。毒性も強いらしいんだ」
「じゃあ臭いを嗅ぐのもアウトじゃないのか」
「直接皮膚に触れなきゃ大丈夫だとよ」
いずれにしろ、この物質の正体も不明なままだという。だからこその曽根崎案件なのだろうが。
曽根崎は、顎に手を当てて思案した。
「……何故、今回の犯人は今までと違って死体を片付けなかったんだろう」
「アンタさっき時間が無かったからだっつってたろ」
「あれは “ 普通に ” 考えた時の話だと言ったはずだ。被害者の死亡推定時刻は出たか?」
「ざっと三時間前で、発見されたのは三十分後ぐらいだな」
「その間、防犯カメラに不審な人物の外出はあったか?」
「今調べてるが、恐らく無いだろう」
「被害者による抵抗は?」
「殆ど無い。刺されて驚いているうちに、といった感じだ」
「それじゃあまとめると、犯人はあんな細い針で一瞬でショック死相当の血を抜き、出て行く姿も見せずに立ち去ったということになる」
「おう」
「ならば犯人像は、そんな殺し方を会得しているという前提で次の内どれかに絞られる。遠隔操作で人を殺せる、姿を消せる、異次元空間を移動できる」
「絞られる、じゃねぇよ。いるかよ、ンなビックリ人間」
「……」
「……いたなぁ。姿消せるヤツこの前見たわ。クソッ、ロクな事件に関わってねぇ」
痛むこめかみを押さえる弟の肩を叩き、原因の一端でもある男は慰めた。
「そう言うな。全身の血を抵抗する間も与えず抜き取るようなヤツだ、一般人なはずないだろ」
「うるせぇよ」
「しかし、だ。ここで今回の件を考えると、さっき挙げた三つの犯人像全てに矛盾が生じてしまう」
「あ? どういうことだ」
「遠隔操作も姿消しも異次元空間移動も、その気になれば時間に縛られることなく行動できる能力だと言ってるんだ。それこそガラスを割る暇ぐらい、いくらでも捻出できるだろ」
「……よく分かんねぇんだけど、つまり何が言いたいんだ」
「今回の事件は、今までと違う」
最初の議題に戻ってんじゃねぇか! と阿蘇は怒鳴りかけた。この男は、まどろっこしいことを嫌うくせに自分が話すとなるとえらく遠回りなるのである。
曽根崎は、ようやく推理の核心を淡々と述べ始めた。
「……肝心なのは、最低限の状況は同じという点だ」
「青い膿が残されて、人が危害を加えられているという所か」
「その通り。恐らく今まで失踪した人達も、この被害者同様生きてはいないだろう。では、何故今回の事件では “ 部屋が荒らされていない ” “ 死体が残された ” と相違が出たか」
阿蘇は息を詰めたまま、自分の目の前に立てられた兄の長い人差し指を見ている。
曽根崎の言葉が、流れるように紡がれた。
「――答えは一つだよ。先述した超能力を持った “ 協力者 ” が、今回はいなかったからだ」
「協力者?」
「これは私の推測だが、これら一連の事件には主犯と実行犯がいるんじゃないかと思う。犯罪を望む主犯と、それをサポートし後始末をする実行犯だ」
「ま、待て。ってことは、複数犯による事件ってことか?」
「珍しいことじゃないだろう? 以前起きた連続殺傷事件も、インストラクターとブヨブヨの二人体制だった」
「ああ、あれも複数犯にまとめるんだな。そんじゃやっぱり……」
「そう。敵は少なくとも、一方は人間ではない」
阿蘇は帽子を取り、ガシガシと頭を掻いた。……分かっていたが、突きつけられるとどうしようもない気持ちになる。
しかし、曽根崎の推理はまだ終わらない。顎に手を当てる代わりに首の後ろをさすり、彼は目を閉じた。
「ところがそうなると、今度は共犯者はどこに行ったのかという疑問が出てくる。主犯に見切りをつけたか……」
「……あるいは別の用事ができて、そっちにかかりきりになっているか」
「とりあえず、牽制と確認の意味を含めて今一番怪しい人間を訪ねてみよう。忠助もついてきてくれないか」
「おう。でも住所とか分かんの?」
「調べたらすぐに分かったさ。SNSは本当に便利だぞ? 住んでいるマンションからの景色、歩いて三分のスーパー、自転車で五分の公園……。情報を組み合わせれば、部屋番号ぐらいすぐに突き止められる」
「兄さん、ストーカーに向き過ぎだろ」
「私も正直、こんな自分が誰か一人にのめり込んだらと思うと怖い」
「俺も怖ェよ。もうやってることほぼ犯罪なんだから、私生活は自重しろよ」
酷い臭いがこもる部屋を出て、若い警察官に状況を説明した後、二人はホテルの正面玄関へと向かった。
外は既に陽が落ちているというのに、湿気の残る空気は生ぬるい。それでも、思い切り深呼吸することができるのはありがたく、曽根崎も阿蘇もしばらく何も言わず外の空気を堪能した。
「……あれ?」
まず、それに気づいたのは阿蘇であった。両膝についていた手を離し、上体を起こしてある方向を見る。
「兄さん、誰か近づいてきてんぞ」
「何?」
言われて曽根崎も同じ場所に目を向ける。公園の木々のせいで都会にしては珍しい暗闇だったが、目を凝らすと確かに人影が見えた。
「……女の子?」
肩までの髪に、一歩ごとにふわりと揺れるスカート。心なしか足取りは覚束ないものの、その女性はまっすぐにこちらを目指して歩いてきている。
そんな彼女の姿に阿蘇は怪訝そうに眉根を寄せていたが、曽根崎はすぐ思い至った。
「あれ、景清君じゃないか?」
「え!? 景子!?」
「なんであの格好のまま出歩いてるんだ? いや、大体彼にここが分かるはずないんだ。なのに何故彼はこの場所が分かって……」
考え込んでいた曽根崎は、ハッと目を見開く。そして、その人影に向かって駆け出した。
「兄さん!?」
「お前はそこにいろ! 私が様子を見てくる!」
――『お前』と来たか。走り出そうとしていた阿蘇は、ぐっと力を込めて足を止めた。
一方俊足の男は、あっという間に景清の元へと到着する。曽根崎は彼の両肩を掴み、どろんとした瞳の高さに自分の目線を合わせた。
「景清君! 何が起こった! 何を見た!?」
「……」
「クソッ、自分が分からなくなっているか……!?」
「大丈夫ですよ」
ふいに溢れた景清の言葉に、曽根崎は驚いて手を離す。反動で少し体が揺れる景清だったが、まだ口は虚ろに動いていた。
「大丈夫です、大丈夫。……僕が、ちゃんと見ますから」
「景清君、何を……」
「あなたを、僕は、見なければ」
「見る? どういうことだ。しっかりしろ!」
「だから、どうか、曽根崎さん……」
景清の顔が笑みに歪む。
だけど曽根崎には、それがまるで泣き顔のように見えた。
「――」
景清の小さな声は、脇をすり抜けていったトラックの走行音にかき消される。
しかし唇の動きで彼が何を言ったか察した曽根崎は、黙ってはっきりと頷いた。
それを合図とするように、何かを掴んだ彼の手が、曽根崎に向かって掲げられたのであった。
 





