1 山神様の花婿
雨が降っている。
肌にまとわりつく湿気を振り払おうともせず、僕は目の前に横たわる男の顔を見ていた。思い出の中から生前の姿を引っ張り出そうとしたものの、どうもうまくいかず、諦めて首を横に振る。
その頬はこけ、いかにも病んでいたことがわかる死に顔だった。
――優しい人だった。少なくとも、こんな早くに亡くなるには、惜しいほどに。
僕は手を合わせて一礼し、着慣れぬスーツの膝を立てて身を起こした。
「線香の匂いがする」
やたら鼻が効くオッサンの言に、僕はしかめっ面をした。いや、別に言うのは構わないですよ。自由だよ。
何故メシ時に言う。
「葬式か?」
「葬式ですよ」
「葬式に出るほど親密な人間がいたとは驚きだな」
「お、バカにしました?」
曽根崎さんに手渡そうとしたご飯のお椀を遠ざけ、冷ややかに見やる。面の皮の厚い三十路のもじゃもじゃ頭は、それならばとテーブルに置かれていた僕のお椀を手に取った。
「それ僕のですよ」
「君は私のお椀で食べればいい。で、誰なんだ、その人は」
「児童養護施設にいた時の知り合いですよ。少し年上の方なんですけどね、世話好きな人で、僕もよく遊んでもらっていました」
「ふぅん」
「親戚などもいない天涯孤独の身だそうで。だからこそ、一時でも家族だった僕に見送って欲しいと施設から連絡があったんです。……正直、こんな再会はしたくありませんでしたが」
「見送りができて良かったじゃないか」
曽根崎さんは淡々と言いながら、味噌汁を一気飲みする。しんみりとした話をしているというのに、なんで平気な顔をして食べ進められるのかわからない。手を止めろ。
とはいえ、この人が雑なのはいつもの事である。アレコレ言うのも馬鹿らしく、僕もご飯を口に運んだ。
「見送りができて良かった、というのは確かにそうですね。久しぶりに施設の方にも会えましたし」
「葬式とは、故人に縁のある人間が集う場だからな」
「でも、まさかあの人が病気で亡くなったなんて思いもよりませんでした。施設にいた頃は、風邪の一つもひかないような人だったんです」
「案外そういう人間の方が大病を患ったりするもんだ。君も気をつけろよ」
「まあ僕は大丈夫ですよ」
自分で言うのも何だが、元気いっぱいである。むしろ不健康度合いだけでいうのであれば、目の前のオッサンに軍配が上がるだろう。
曽根崎さんが二杯目のご飯を僕に催促した所で、誰かが事務所の階段を上ってくる足音が聞こえた。
「……こんな時間にどなたでしょう」
時計を見ると、既に夜の七時を回っていた。僕のそんなささやかな疑問は、呼び出しベルすら使わない無遠慮なハスキーボイスの登場で鮮やかに解決する事となる。
「こんばんはァ! やっぱりまだいたわね、シンジ!!」
開け放たれたドアから颯爽と入ってきた彼女の名前は、月上柊。オカルト雑誌の編集者をしている絶世の美女である。
彼女は艶やかな長い黒髪をなびかせてツカツカと僕らの前まで来ると、人形のような目を細めて言った。
「感謝するわよ、景清。アンタのご飯が足止めしてくれていたおかげで、シンジと話ができるわ」
「どういたしまして」
「っていうか一緒に食べてんの? 仲良いわね」
「最近になってようやく、この人と晩飯を食べれば食費が浮くことに気付いたんですよね」
「涙ぐましいわね……。そうだ、そんな貧民のアンタにも関係があるかもしれない話を持ってきたわよ」
そう言うと、柊ちゃんは肩から下げた鞄を漁り始めた。取り出したのは、一枚のチラシである。
僕はそれを受け取ると、一番大きく書かれてある文字を読み上げた。
「……“ 山神様の花婿体験 ” ?」
「そ。一週間、多間村ってトコに客人として行って、山の女神様のお婿さんになるんですって。村の行事に参加してもらうからっていうんで、なんと参加費は無料。今アンタの大学、長期休暇中でしょ?」
「はい。うわ、しかもその滞在中は衣食住の保障付きですか。破格ですね」
「景清君」
「でも結構条件が難しくてねー。まず、二十代の男で、彼女がいないこと」
「そこはクリアしてますね」
「景清君」
「まだあるわ。できれば、親とは死別してるか、縁が切れていることが望ましい」
「そこも問題ありません。ですが、その条件を聞くと一気に怪しさが増しますね」
「景清君」
「そうなのよ。で、ここからが本題なんだけど……」
「あ、ちょっと待ってください」
そろそろ、無視できないほどに茶碗が僕に押し付けられているのである。痛い痛い。子供かよこの人は。
「やめてくださいよ、曽根崎さん」
「お代わりをくれ」
「僕は話してる途中でしょう。そういう時は自分でよそってください」
「次からそうする」
「そんな事言って、実行した試しが無いじゃないですか」
チラシをテーブルに置いて、ご飯を茶碗によそってやる。柊ちゃんは僕の隣に腰掛け、ちゃっかりきゅうりの酢の物を摘んでいた。
「……マレビト信仰とやらか」
向かいにいる曽根崎さんが、いつの間にやらチラシを手に取って眺めている。聞き慣れぬ言葉に、僕は眉をひそめた。
「マレ……なんですか?」
「マレビト。少々乱暴に説明すると、村の外からやってくる人間を神と定めて歓迎する風習だよ。で、このイベントは、村の外から男神を呼んで、自分の村の山に住む女神と結婚させるもののようだな」
「なるほど。体験にやってくる人は神様だから、一週間破格の待遇を受けられるんですね」
「その通り」
神様となるのだったら、大いに胡散臭い条件も納得だろうか。このご時世、漫画に出てくるような得体の知れない村というのもあり得ない話だしな。
「……一応、他の人よりも恵まれない環境にある人を歓迎してあげたいって名目らしいわよ」
口の中できゅうりを咀嚼し終えた柊ちゃんが言う。どうやら、僕の料理をお気に召してくれたらしい。
「でも、それもどこまで本当だかね。ボク、この村は相当怪しいと思ってるわよ」
柊ちゃんは、ニヤリと形の良い唇を歪めて笑った。その言葉に、曽根崎さんはご飯をかきこみながら耳を傾ける。締まらない絵面だ。
だが、それを気にしないのがこの二人である。
「――“ 変わらずの村 ” って噂を聞いたことがあるかしら?」
鞄の中から、二枚の写真が出てくる。相当古い写真が一枚と、比較的最近撮られただろう写真が一枚だ。
しかし、そこに写っていた三人の姿に、僕は息を飲む。
「……この二枚の写真の時間は、百年も離れてる」
一世紀を経た二枚の写真に、柊ちゃんは細い指を乗せた。より鋭くなった曽根崎さんの真っ黒な目が、指の行方を追っている。
「……でも、同じなの」
ぽつりと、彼女は言った。
「三人が三人、顔も姿も、まるきり同じ」
そう。
その二枚に写っていた三人は、着ているものや風景は違えど、全く同じ人間だったのである。
「……これは、異様だな」
ゾクリとして自らの両腕を抱えた僕を気にもとめず、曽根崎さんはお椀を置いた。
「そうでしょ。だから、ボクはアンタに依頼しに来たの」
柊ちゃんは、相変わらず笑ったままだ。ただでさえ美しい容姿であるのに、こうなると益々美形に凄みが増してしまう。
その美麗を曽根崎さんに近づけ、彼女は言った。
「……景清をエサに、この村の調査をしてきなさい」
面白おかしく、知的好奇心を満たす記事をヨロシクね、と、柊ちゃんは不審者面の耳に妖艶に囁いたのである。





