46 咆哮
その瞬間、地面が脈動した。
僕らは座っていることすらままならず、転がるようにその場に這いつくばる。
獣の唸り声をまとった風が穴の底から吹き上がる。そのあまりの忌まわしさに、僕は絶叫した。
あれは、歓喜の咆哮だ。
笑っているのだ。
招かれざる客が、一方的な蹂躙を前に、身の毛のよだつような喜びを露わにして。
僕は、紛れもなく彼の最初の餌だった。餌であるが故に、捕食者に最悪のタイミングで道を作らされたのである。
“解放”たる、白い線を描くことによって。
「……あ……うわ、あ」
少しずつ、自我が戻ってくる。手が震えている。呼吸が細切れになって、体に力が入らない。当然ペンを持ち続けるなんてできなくて、音も無くその場に落とした。
――僕は、一体何をしてしまったんだ?
「景清君!」
今にも崩れ落ちそうな僕の両肩を、曽根崎さんが掴んだ。彼の漆黒の両目を見た途端、自分がしでかしてしまった事への自責の念が噴き上がり、僕は彼に縋りついた。
「そ、そそ、曽根崎さんっ……!」
「気をしっかり持て! 私がわかるか!?」
「ど、どう、しましょう! ぼ、ぼ、僕、と、とんでもない、事を……!!」
「大丈夫、君は間違っていない! たまたま君の一手が穴を開く手だった、それだけの事だ!」
曽根崎さんに断言された僕は、そこでようやく廃ホテルで見た光景を思い出した。……そうだ。あの時の白い浮浪者は、殆ど異次元を開ききる一手を打っていたではないか。
タブレットに目をやると、僕の手が間違いでなかった証拠に、次の手である黒い点線が表示されていた。
「……だが、君の様子を見る限り、何者かからの介入があったようだな」
彼の両手の親指が、僕の口角を持ち上げてみせる。これは、先ほど僕がしていた顔だ。
「しかし負けるなよ、景清君。奴が君に介入し穴を解放させたのだとしたら、次は私の封印を阻もうとしてくるだろう。……そうでなくても最後の一手なんだ。邪魔が入る可能性は高い」
「ぼ、僕に、どうしろ、と」
「私が妙な事をし始めたら止めろ。君自身が妙な考えに至りそうなら思考を止めろ」
無茶を言う。けれど、そうするしかなくて僕は頷いた。
「ならやるぞ。ここが耐え所だ。――“アレ”がこのまで這い上ってくる前に、封印の図式を完成させる!」
それだけ言い残すと、曽根崎さんはタブレットに向かった。
その途端、穴の底からの“圧”が急激に強くなる。
ぐらり、と目の前の曽根崎さんの体が何かに殴られたように傾いた。
「曽根崎さん、大丈夫ですか!」
「……ああ」
彼は、自身の膝に爪を食い込ませて耐えていた。
黒いペンを持ち上げる。最後の一手は、実にシンプルな直線だ。下方の隙間を埋める、それだけでいい。
曽根崎さんは苦しそうだ。こんな状況下に置かれているのだ、至極もっともな反応である。
だからこそ、僕が止めてやらねばならない。
ただでさえ常に正気を彼岸へと置こうとする人だ。ならば僕もその場所まで行き、彼を地獄へと突き落とすべきだ。しからば僕は最も誉れ高き第一の供物として緑の目の神の舌へと――。
「……違う!」
僕は頭を振った。――違う。違う。それは僕の思考じゃない。
僕のすべきことは、曽根崎さんの殺害だ。
――いや、これも違う。これはとある村で終わった話だ。本当は、助けなければならないのだ。我々が救い難き存在である以上、緑の目の神に食まれ潰され哀れに滅ぼされなければ決して安らぎが訪れる事は……!
「……恐れるものか。振り返るものか。景清君は、絶対に私を殺さない」
曽根崎さんの声に顔を上げる。
僕の見た彼は、未だ黒いペンを握ったまま動かず、タブレットを睨んでいた。
鬼気迫る横顔だった。きっと画面には、黒い点線ではなく何か別の醜悪な幻が映っているのだろうと僕は思った。
目の下に濃いクマを引いた男は、ニヤリと唇を歪める。
「……貴様は知らないだろうが、あれは案外私に懐いている」
「誰が! 懐いてるか!」
「ほーら、本物の声が聞こえた。思った通り、貴様の言うことは嘘ばかりだ。くたばれ妄言者」
そして、曽根崎さんの腕が真っ直ぐに動いた。
『――――――――!!!!』
――地の底からの、咆哮が。
地を揺るがすおぞましい叫びが、僕らの鼓膜を貫いた。
穴の上には、寸分違わず描かれた黒の線が出力されている。
白と黒によって編まれた封印の図式。それが、とうとうあの廃ホテルの壁の絵の通りに完成したのだ。
こうして、巨大な穴は僕らの手により、その口を縫いつけられた。
――はず、だった。
「……どうし、て」
自分の目を疑った。今だけは、これが幻覚であってくれと願わずにいられなかった。
煩わしい咆哮は止まない。それなのに、張りつめたワイヤーの軋む微かな音だけは僕の耳に届いている。
何も聞きたくなかった。何も見たくなかった。耳を塞いで目を閉じ、認め難い現実に向かって僕は叫んだ。
「どうして、まだ穴が残ってるんだよ!?」
穴の主は、愚かなる僕らを嘲笑う為だけに再び地を揺らした。





