13 喫煙者の独り言
結局あの後、家に帰る気力すら使い果たした僕は、事務所に着くなりソファーに倒れこんで眠ってしまった。曽根崎さんはその辺りに放置である。大丈夫、あの人もいい年だ。
寝始めたのは夕方だったが、起きた時には朝になっていた。寝過ぎである。
そういえば、深夜に誰か訪ねてきた人がいた気がしたが……。顔を洗いながらその正体を思い出そうとしたが、とっくに起きていた曽根崎さんに声をかけられた事で、それは完全に頭からかき消えてしまった。
「こんばんは、怪異の掃除人」
街も寝静まった深夜に、何の前触れもなく現れたのは田中である。ドアを開けて迎えた曽根崎は、苦い顔を隠そうともせずに言った。
「煙草はダメですよ。中でうちのアルバイトが寝ています」
「おや、家に帰らせなかったのかい。愛の深いことだね」
「知らない間に勝手に寝始めたんですよ。まあ、あんな事があった後では無理もありませんが」
「用があるのは君だから構わないよ。寝かせてやりなさい」
声を潜め、田中は曽根崎に煙草を一本差し出す。曽根崎はそれを受け取りながら、事務所の外へと細長い身を滑らせた。
「屋上へ行きましょう。話はそこで聞きます」
鍵をかけて、曽根崎は煙草を咥えた。
久しぶりの煙草である気がした。星の見えない夜の空に煙を燻らせながら、曽根崎は指に挟んだそれに目を落とす。
正直な所、煙草の美味い、不味いはよく分からない。しかし、食事では味わえないこの煙を肺にためる感覚は、個人的に嫌いではなかった。
「いい夜だねぇ」
隣で早くも二本目の煙草に火を付けた田中が、しっとりと呟く。頬を撫でる夜風は心地良く、少し遠くの街灯群は目の毒にならない程度の明るさを放っていた。
……いや、事件を解決した日だからこその言葉なのかもしれない。田中の言葉に適当な相槌を打ちながら、曽根崎は思った。
膨大な正義感と平和への愛情故に、約束された権力がありながら自らが動くことを厭わない。そんなどうにも因果な男は、微笑みながら言った。
「今回も助かったよ、曽根崎君」
「どういたしまして。まあ、景清君と弟に大いに助けられましたが」
「君がいなければ根本的な解決はできなかった。これでも感謝してるのさ」
僕もお役に立てたようで良かったよ、とちゃっかり付け加え、煙を吐く。
「……箕洲は、うまいこと処理しておくよ。一部のメディアは騒ぐかもしれないが、なんせ本人が認めているんだ」
「精神鑑定は?」
「させると思うかい?」
手すりに頬杖をついて、田中は深い皺の刻まれた顔で笑みを作った。しかし曽根崎の無表情に、すぐつまらなそうに煙草を口にする。
「……今は体の治療が先だね。それが終われば、精神病院さ。アレに誘惑されて己の欲望が助長させられたとするなら、まともな頭に戻る見込みもあるかもだろ? 可能ならば、きちんと罪に向き合い大いに後悔して貰うのが、一番の罰になる」
「そうですか」
「一切興味が無い、といった風だね。冷たい男だ。僕が知らないだけで、既に全身の血がただの氷水に変わってやしないかい?」
「そんなことはありませんよ。私にだって人並みの情はある」
「情だと? 君がかい? それが渾身のジョークだとしたら、芸人への転身はオススメしない。五秒で食いっぱぐれる事請け合いだ」
「煙草咥えてたら黙るんじゃなかったんですか」
「不思議だよねぇ。ニコチンが入った舌はよく回るんだ」
「……」
まあ、あなたはそういう人ですよね、と曽根崎は続ける。田中の吐いた煙が風でこちらに流れてきたのが煩わしく、あえてそちらに向かって自分も煙をふかしてやった。
「煙たいな」
「お互い様というやつです」
「分かってるのか? 僕は君のパトロンだ。本来なら君は、僕の咥えた煙草に火をつけないといけない立場なんだぜ?」
「私の今の手持ちの火はこれだけですが、それで良ければ」
「誰が君の煙草から火を貰うかい。そんな事をするぐらいなら、まだロケット花火に顔を近づけた方が素敵な絵面になるね」
「はいはい。それで、本日のご用件は?」
老人の戯言を聞き流し、無理矢理本題に入らせる。もう少しやり取りを続けていたかったのだろう田中は不満気な顔をしたが、渋々ライターで煙草の火をつけて、言った。
「……例の件の進捗について」
「はい」
「差し支えなければ、聞いてもいいかな?」
……嫌な本題を出してきたものだ。曽根崎は携帯用の灰皿に吸い殻を突っ込み、田中に片手を出して次の一本を催促する。
「吸いながらでないと、話す気にもなりません」
「構わないよ。むしろ付き合ってくれるのなら、いくらでも吸ってもらいたいね」
「どうも」
「で、どうなんだ」
煙草を吸い、肺に煙をためる。
そして、言葉と一緒に吐き出した。
「何も」
ありがたいことに、少しの感情も介入することは無かった。
「何もできていません」
対する田中は、銀縁眼鏡の向こうにある目をギュッと縮めた。
「まずいじゃないか」
「まずいですねぇ」
「どうするんだい」
「どうしましょうねぇ」
「ふざけているのか」
「とんでもない」
まるで自分の事のように苛立つ田中を横目に見ながら、曽根崎はため息をつく。夜風が、指に挟んだ煙草の煙をさらった。
「仕方ないでしょう。相手が相手なんです」
曽根崎の隣で舌打ちが聞こえた。立場の割に、品の無いジイさんである。
「……この事、景清君は?」
「知りません」
「フン、青臭いことだ。どうせこれ以上巻き込みたくないとか、アレコレ絞りカスみたいな脳を捻って考えてるんだろう?」
「……」
「自覚も無いとはね。ノッポで間抜けな愛しい愚者め。タロットカードの一枚でも飾ってみるかい?見た目は死神のクセに何とも生意気じゃないか」
「よいしょ」
曽根崎にも限界はある。田中の膝裏を蹴たぐり、冷たいコンクリートの床に膝をつかせた。
「やめてくれよ! 膝の皿が割れたらどうするんだ!」
「金ならあるでしょう」
「あった所で!」
「とにかく、これは私の話です。興味本位で首を突っ込まないでください」
「興味本位? バカ言え。心配しているだけだよ、単純に」
吐き捨てて、田中は手すりを支えに身を起こす。曽根崎はじっと街の灯りを見ながら、また煙草を吸った。
そこに並び、田中は曽根崎の横顔に忠告をする。
「……彼の話は聞いている。これ以上、背負わせるなよ」
「あなたに言われなくても」
「分かってないんだろうねぇ、僕の言葉の意味。だがここで教えるのもアレだからな。宿題にしておいてあげよう。三十路にもなって課題を出されるなんて、いっそ新鮮だろう?」
「解けたらいくらくれます?」
「君、あのアルバイト君に似てきていないか?」
敢えて真似をしただけである。彼の言葉は、どうもこのジイさんをいなすのに使えるようだ。
「……冷えてきましたね。戻りましょう」
煙草の火を消して、曽根崎は言った。お喋りなバリトンボイスはまだ話し足りないようだったが、風に身を一つ震わせると大人しく従ってくれた。
「そうだ、金はいつも通り振り込んでおくからね」
「ありがとうございます」
「ついでだ、ガニメデ君を慰安旅行に連れて行ってやればどうだい?いい宿を知ってるよ」
「まあ気が向けば」
曽根崎は服についた煙草の匂いを払い落としながら、田中の背を押して屋上を後にした。
暗い事務所で、一人分の寝息が聞こえる。
その穏やかな呼吸を邪魔しないよう曽根崎はソッとドアを開け、閉めた。自分の事務所であるのに、とんだ気の遣いようである。
それにしても、ジイさんとの会話は疲れる。景清の眠るソファーの向かいに身を沈め、曽根崎はため息をついた。
「……曽根崎さん?」
闇の中で、寝ぼけ声がした。曽根崎は慌てて謝罪する。
「すまん、起こしたか」
「……煙草」
「え?ああ、屋上でちょっとな」
景清がゴソゴソと寝返りを打つ。こちらに向けていた顔が、あちらを向いたようだ。
そして、一言だけ呟いた。
「……臭っ」
傷つく。
曽根崎の心中など一切気にしないだろうお手伝いさんは、そのまま眠りに落ちたのかまた静かな寝息を立て始めた。
ビルの外を車が走り、少しの時間だけ明るくなる。遠い光に照らされながら、曽根崎は携帯灰皿を取り出し、見つめた。
「……控えなきゃなぁ」
同意する声も反対する言葉も無い事務所で、一人曽根崎は目を閉じたのだった。
第1章 完





