34 もう少し
そもそも、幻聴かと思ったのである。
死ぬ間際の脳が聞かせた、この世のどこにも存在しない声だと。
だから、雨の中凄まじい形相で迫りくるソイツを見た瞬間、驚きで一気に脳が覚醒した。
「阿蘇ーーーーーーーーーーーっ!!!!」
――普段の飄々とした爽やかさなんざ、かなぐり捨てた男が。
泥を蹴散らし、何の後先も考えていないだろう友人が。
ただ俺だけを目指し、全力疾走していた。
――いや、なんで?
だが、それを考えるのは後回しにしなければならなかった。このままでは落下地点に藤田が間に合ってしまう。
一瞬の間に目まぐるしく脳が働いた。しかしこの場で出せる結論など一つしかない。
「……ッ!!」
全神経を集中させる。そして、大きく息を吸い込んだ。
「ロックさん! そのニーサン捕まえて!」
焦ったような怒鳴り声を背に、藤田はダンと床を蹴って外に走り出した。青ざめる六屋さんと驚いた顔をした景清を押し退け、雨でぬかるむ地面に着地する。
――ここはどこだ。
辺りを見回す。しかし明敏な男は、巨大な穴を見つけた事で即座に自分の状況を理解した。
……自分にとって最後の記憶は、秘密基地でのものである。つまりそこから記憶が飛んで穴近くの救急車に乗っていたとなると、恐らく自分のミートイーターの処置が何かしら済んだ後であり……。
だとしたら、なんでずっと近くにいた阿蘇の姿が見えないんだ?
その答えはすぐ上空で見つかった。治されたばかりのぼやけた目は、しかしはっきりと黒い男に拘束された友人の姿を捉えたのである。
「クソッ!」
そちらに向けて駆け出す。
間に合うだろうか。
否、間に合わさねばならない。
阿蘇から視線を外さずに、藤田は走った。黒い男が次に取る行動を予測し、そこから導き出される軌道をイメージする。
胸が苦しい。息がし辛い。体がだるい。
知るか! 後だ後!! 後で何日だって入院してやるから、今は耐えろ、オレの体!!
自分がどうなるかなんて考えもしなかった。“友達だから”、“救ってもらったから”、“神様だから”なんて余計な事も一切考えず。
“危機に瀕した阿蘇忠助を助けねばならない”。今の藤田直和には、それだけであった。
黒い男が、阿蘇を掴んだ腕を振り上げる。それが払われた刹那、藤田は友人の名を叫んでいた。
足を動かす。腕を振る。雨粒が痛い。心臓が悲鳴を上げる。構うものか。
間に合え、間に合え、間に合え、間に合え!!
そいつを殺させるものか。死なせてたまるものか。
お前の命は、人一倍重いんだよ!!!!
両腕を伸ばす。阿蘇に少しでも届くように。
地面を蹴り飛ばす。指先が彼の体に触れる。
――頼む。もう少し。
息を止める。体を前に出す。そうして阿蘇の体の下に身を滑り込ませる寸前、彼の鋭い目と視線が合った。
――あ。
オレ、後で怒られる。
そんな確信が胸をよぎった瞬間、オレは阿蘇に押し潰されていた。





