11 壁の絵
埃っぽくて冷えた空気が肺を満たす。微粒子の刺激に咳き込んだ僕は、慌てて口元を袖で覆った。
「……ここか」
ガラスの破片を踏み潰し、曽根崎さんは広いホールの真ん中に立つ。僕らが今いるのは、二十年ほど前に閉鎖したホテルの廃墟。
――十年前、僕と慎司が足繁く通った場所だった。
「では案内してくれ」
「はい」
少し進んだ先に、壊れたエスカレーターがあったはずだ。あの時は何の考えも無しに使っていたが、十年の時が過ぎた今では更に老朽化が進んでいるだろう。
一段一段、僕は慎重に上っていった。
「……」
無言で歩く。もうずっと、僕の心臓はドキドキとしていた。
――僕は、自分の見てきたものを頼りにこの先に“例の絵”があると確信していた。けれど、よくよく考えれば、あれはあくまで“とある面での出来事”なのである。ならば、今僕が観測している面の歴史の中にそれが確定されている保証はどこにも無い。
……だけど、もしこの先に絵が残っていたら?
それは、曽根崎さんがあの慎司であることの証明になるのではないだろうか。
……いや、必ずしもそうとは言えない。何故なら、“僕の観測した慎司”が間違いなく面を辿っているとは限らないからだ。つまり結局の所、真実は本人に聞かないと分からないわけで……。
少し後ろをついてくる曽根崎さんの顔を盗み見ようとして、やめた。複雑な思いを抱えたまま、薄い光が差す廃れた廊下を進んでいく。
「この部屋です」
そして、僕らは最上階にある一番奥の広間に到着した。
ふいに脳裏を過ぎったのは、全身から腐臭を漂わせる四つ足の不浄。
……あの時、死んだはずだよな? 僕についてきてしまっている、なんて無いよな?
一抹の不安を振り払い、勇気を出してその壁を見る。僕の右側で、曽根崎さんが息を呑んだのを感じた。
「……!」
――絵が、あった。
黒と白の線が絡み合った、だけど随分と風化した、巨大な絵が。
「……あれか」
曽根崎さんの呟きに頷く。曽根崎さんは迷いの無い足取りで絵の前に立ち、全体を眺めていた。
「どう、ですか」
僕なりに、聞きたいことを一言に凝縮した問いだった。けれど、曽根崎さんはこれをシンプルな質問と解釈したようである。
もじゃもじゃ頭が、僕を振り返った。
「一見した所では、ただの乱雑な絵にしか見えないがな。君は何を根拠に、これを異次元を封印する魔法陣と判断したんだ?」
「あ、その、えーと」
問われて、僕はかつて見た白と黒の不気味な人型が興じていたゲームについて説明をした。壁一面を盤としたゲーム。白は異次元を開けること、黒は閉じることが勝利条件だった。
そして今、口を開けていたはずの異次元は黒線を最後に封印されている。
だから僕は、彼らの絵を利用すれば、あの穴を塞ぐ魔法陣を作ることができるのではと推測したのである。
その話をしている間の曽根崎さんは、ずっと無表情で顎に手を当てていた。
「……なるほど」
白線の一部が剥がれ落ちた壁を、長い指でなぞる。
「確かに君の推論を聞く限りでは、この絵は異次元封印の図式である可能性が高い」
だが……と彼は眉間に皺を寄せた。
「効力があったとして、だ。それを発揮させるには、この図を丸々再現する必要があると私は思う」
「再現……」
「そう。一筆目から、最後の線まで。白と黒の線で交互に編むんだ」
曽根崎さんは空中に何か描くような仕草をした。
「これを印刷して穴に貼ることで終わればいいんだがな。ゲームとしての体裁を成している以上、その過程の手そのものが呪文としての役割を果たしていると考えた方がいい」
「でもそれって、すごく大変じゃないですか?」
「大変だし、本音を言うならやりたくないな」
――しかし、できる。
そう言うと、曽根崎さんはスマートフォンを取り出し写真を撮り始めた。僕にもやるよう指示を出すも、残念ながら僕はスマートフォンすら持っていない。深馬を追い詰めた際に爆発に巻き込まれ、吹っ飛んでしまったからだ。
そんなわけで、仕方なく一人でパシャパシャと写真を撮る曽根崎さんである。けれど何十枚目かの後、背筋を伸ばして困ったように嘆息した。
「……これ、X線の出番もあるかもだなぁ」
「X線?」
「もし線の下に線が重なっていたら、目視で分からないだろ。念の為、田中さんに連絡しとくか」
こうして端的な電話も終え、隅々まで写真を撮り終えた曽根崎さんは「行こう」と声を上げた。
「次は警察病院に行かなければ」
短く同意の言葉を返して立ち上がる。
そういえば、今は何時なのだろう。時が止まったようなひんやりとした空間で、僕は最後に絵を振り返った。
古びた絵は、結局何も確かめられなかった僕を責めもせず、ただそこで朽ちていた。
「ここで二手に分かれるってどういうことです?」
警察病院の入り口前。唐突な提案に、僕はオッサンの真っ黒な目を睨みつけて凄んだ。
しかし腹立たしい哉、ヤツは実に落ち着いたものである。
「そう不安そうな顔をするな」
「してませんが」
「そうか? まるで初めて見た外の世界で主人からリードを外されたヒヨコのようだぞ」
「例えド下手か! なんだよヒヨコって!」
「まぁ落ち着きなさい。実は君に頼みたいことがあってね」
……頼みたいこと?
キョトンと首を傾げる僕に、曽根崎さんはとある窓を指差す。
「今のこの時間、レントゲン室には忠助と藤田君がいる。そこで君には、彼らを狙う襲撃者がいると“忠助にだけ”伝えてほしいんだ」
「あ、あの深馬が雇ったという暴力団組織の」
「その通り」
「でも、なんで阿蘇さんだけなんです? せっかくなら二人まとめて知らせた方が……」
僕の意見に、曽根崎さんはチッチッチと指を振った。気障な仕草だ。なんだコイツ。
「この三日間、藤田君に第三者を想起させるような不審な素振りは無かった。よって彼は、ついぞ我々の存在を知らなかったと考えていい」
「それはそうですね。歴史に無いのなら、僕らも敢えて藤田さんと接触すべきではないということですか」
「まさしく。そしてこれは忠助にも伝えてあるから、君も徹底してくれ」
「分かりました」
納得した僕は、早速阿蘇さんに伝える内容を吟味すべく、彼の身に起こった事を思い返した。
「えーと……確か、今日の昼間に阿蘇さん家に泥棒が入るんでしたよね」
「そう、ミートイーターのレポートを盗む為にな。この点は、八時以降に帰るよう言っておけば問題無いだろう」
「で、明日の朝に阿蘇さんの留守を狙って藤田さんが襲われると」
「うん。ああそうだ、それに一つ加えてもらいたいことがあってな」
曽根崎さんは、僕に手帳とボールペンを差し出した。メモを取れということらしい。
それを受け取り白紙のページを開いたのを見て、彼は続ける。
「君は、警察関係者から襲撃者らのアジトの場所を聞いたことがあるか?」
「いえ」
「私もだ。しかし、一日後の丹波部長の元には、忠助からアジトの場所を告げる連絡が入っていたらしい」
「ほう」
「これはつまり、彼が自力で情報を集めてくれたということだろう。敵を捕まえネタを吐かせ、丹波部長に報告するよう頼んでおいてくれ」
「……」
「なんだよ」
背筋を伸ばして淡々とほざく曽根崎さんを、ジトッとした目で見る。
……なんというか……つくづく、つくづく……!
「阿蘇さんの負担が大き過ぎじゃありません?」
「これしきのことなら大丈夫だ。なんたってこの私の弟だからな」
「はあああああ」
「だからなんだよ」
「今世はもう手遅れだけど、せめて来世では曽根崎さんの弟に生まれませんように……!」
「私を不幸の源泉みたいに言うな」
ひとしきり天に祈りを捧げた後で、再びこれから起こる出来事を思い出す作業に戻る。
……襲撃者に遭遇してから、しばらく阿蘇さんと連絡がつかなくなっていた。多分あれも、予め僕が彼に指示していた可能性が高いだろう。
「そうだな」
僕の推測に、曽根崎さんも同意してくれた。
「明日、彼らはスマートフォンさえ捨て置き、二人だけの逃避行を決行せねばならない。それが私達の観測した彼らの“歴史”だ」
「……明後日には、藤田さんがミートイーターに乗っ取られると分かっていてもですか」
「ああ。我々は確定した歴史をなぞらねばならないからな」
「……」
――雨の中で横たわる藤田さんと、身と正気を削りながら黒い男に襲いかかる阿蘇さん。
“あの歴史をもう一度なぞる”。それは僕にとって、両手を広げて迎えたいような未来では決してなかった。
「それでも、だよ」
僕の心情を察した曽根崎さんが言う。
「忠助に多大な負荷を課すのも、凄惨な光景に辿り着こうとするのも。全てはそこに“未来”を付与し、終焉の幕を引き千切らんが為の足掻きだ」
――そうだ、そうなんだよな。
曽根崎さんの手帳に事項を書き込んでいた僕は、無言で頷いた。
――どんなになぞりたくない歴史でも、その先にみんなで迎えられる未来があるのなら。
か細くとも、確かに存在しているのなら。
僕らは、そこを目指すのだと決めたのだ。
「……景清君、いけるか?」
曽根崎さんがニヤリとこちらを見る。僕は顔を上げ、笑ってやった。
「ええ、任せてください」
「良かった。今の私が完全に繋いでいられるのは君しかいないからな」
「そこはお互い様ですね。……ところで、二手に分かれると仰いましたが、曽根崎さんはどうするんです?」
「私か? 私は一つ段取りをしてくるよ」
「段取りですか」
「そう」
曽根崎さんは、あえて眠たそうな目をして気怠げに言った。
「……面倒くさがりやの先生に、力を貸してもらおうと思ってね」





