13 手
「おはようさん、今日の予定はカメラチェックです」
朝起きたら、慎司が僕を覗き込んでいた。既に服も着替えて、出掛ける準備はバッチリである。
いや、起こしてくれよ。
「人間って床でもよだれくって寝れんだな」
「ほっといてくれない?」
「それで今日の朝ご飯はなんだ」
「え、まさか楽しみにしてたの? ごめん、じゃあなんか作るよ。あ、でもご飯炊いてな……」
「フフン、俺は頭がいいからな。そうくると思って既に米を研いで炊飯器のスイッチを押してある」
「わああー! すごいよ慎司! 偉いよ! よく気付いたね!」
「褒め方が親戚のババアか?」
ついつい基準が未来の曽根崎さんになってしまっているので、こんな些細なことにもオーバーに感動する僕である。アイツ電子レンジも爆発させやがったからな。
「……これを食べたら、廃墟からカメラを回収しに行くぞ」
もぐもぐと目玉焼きを食べながら、慎司は言う。
曽根崎さんには餌やりをしている気分だったけど、慎司には餌付けをしている感じだ。そんな失礼なことをぼんやりと考えていた僕は、慌てて頷いた。
「うまく手掛かりが得られるといいんだけど」
「おー。何が映ってるのか楽しみだ」
「ところで今日の味噌汁どう?」
「薄い」
そんじゃ、夕食はもう少し出汁を足してみようかな。
腹ごしらえを済ませた僕らは、雨の中廃墟へと向かった。
今日の廃墟も、じめじめとしていて実に陰気である。
とはいえ、ここでモタモタしていると、またあの四つ足が出てきてしまう。僕が鉄パイプ片手に見張る中、慎司は急いで映像をチェックしていた。
「……うん、無事に撮れてるな」
だがそれも束の間、すぐに彼は「ん?」と首を傾げた。
「おかしいな。白い浮浪者と黒い浮浪者が一回ずつしか映ってない」
「え、二十四時間撮ってたのに?」
「前回のスパンが大体一時間とすると、今回は白が十二時間後、更に黒が五時間と間が空いている。……ということは、訪れる時間に規則性は無いのか? いや……」
慎司は苛立たしげに髪の毛をガシガシとかくと、カメラの電源を落とした。
「こっちはまだ情報が必要だ。カメラは設置したまま、メモリーカードとバッテリーを入れ換えて帰ろう」
「オーケー。それじゃ僕また見張ってるから……」
そう言い、辺りを見回した時だった。さっきは見なかった何かを、僕の目は捉えたのである。
「……どうした。四つ足が来たか」
「違う」
ある意味、まだ四つ足よりマシかもしれない。けれど、決して油断はできない存在が、裾を引きずりながらこちらに近づいてきている。
僕は唾を飲み込み、慎司に告げた。
「白い浮浪者の方だ」
そうか、と慎司は平静に返した。彼も僕と同じく、あの存在をそこまでの脅威には感じていないらしい。手早くメモリーカードとバッテリーを交換すると、立ち上がって僕を手招きした。
緑のランプが点灯している。どうやらこの白い浮浪者の姿も、録画するつもりのようだ。
「また生で拝めるとは思わなかった。俺たちはツいてるな」
一昨日と同じ場所に身を潜め、慎司は冷たく笑う。“たち”はやめろと思ったが、既に浮浪者はそこまで来ていたので返事をするのはやめておいた。
白い浮浪者は、前回と同じく少し離れた場所から全体を見て、そして真ん中辺りに歩を進める。そして、じゅるりと胸から関節だらけの腕を持ち上げた。
既存の黒い線に沿って、何も描かれていない部分を白線で染めていく。
だが、変化はそれだけではなかった。
視界に映り込んできた異常に、僕は思わず息を飲む。
その異常とは、引かれる白線と既存の黒線の僅かな隙間。
無数の緑色の発光体が、僕を睨んでいたのである。
「……慎司、逃げよう」
「なんでだ」
「緑の目だ。アイツが線を引いた隙間から、緑の目が見える。……もしかしたらあの浮浪者、僕らに気づいていて異次元に放り込む気かもしれない」
「へぇ、そりゃ有力な情報だ」
呑気な感想を述べる慎司の手を引こうとしたが、すげなく振り払われる。それどころか頭のてっぺんを押さえられ、無理矢理座らされた。
「落ち着け。……大丈夫だよ、俺達はアイツらの絵に何もしちゃいないんだ。もうしばらく見ていよう」
けれど、白い浮浪者の行動はそこまでだった。僕を見つめる緑の目を残したまま、彼は腕をボロ布の下にしまいこむ。
そして、何事も無かったかのようにズルズルと帰り始めたのだ。
「おい、追うぞ。せっかくのチャンスだ。ヤツらの住まいを拝見させてもらおうぜ」
「やめろって。もし気付かれたら……」
「そしたら全力で撤退だ。俺は逃げ足には自信があるぞ」
「知ってるー」
完全に好奇心のスイッチが入ってしまっている。ならば今の彼に何を言っても無駄だろう。
まあ、あの四つ足に比べたらまだ直接的な危険は少ないか。
そう判断した僕が慎司を追って腰を上げようとすると、何やらくぐもった声が耳に届いた。
「……? 慎司、今何か言った?」
「いいや? なんだよ、なんか聞こえたか」
「うん。人の呻き声みたいな……」
声の出どころを探す。どうやらそれは、あの絵の所から聞こえてくるようだった。
……この声は、男性のものだ。そう気づいた瞬間、僕の頭の中で昨日消えた男と点と点が繋がった。
「景清!」
慎司の静止も構わず、僕は絵に向かって走り出していた。緑の目の前に立ち、声に向かって呼びかける。
「誰かいるんですか! いたら手を伸ばしてください! こちらから引っ張ります!」
生きているなら、まだ助かるかもしれない。幸い、僅かな隙間とはいえ上手くやればギリギリ人が通れるぐらいの幅はあるのだ。
そんな僕の声に呼応するように、呻き声が大きくなった。
「……ッ!」
血まみれの手が伸ばされる。僕は、すぐにそれを両手で掴んだ。
腕に爪が食い込む。当然痛むが、人の命には代えられない。僕は歯を食いしばり、体ごと持っていかれそうになる力に必死で抵抗した。
「――ああもう、クソボケ!!」
しかし、ここで慎司が割って入ってきた。鉄パイプを振り上げ、僕の手を掴む腕に勢いよく叩きつける。
「し、慎司、何を……!」
「黙れ! いいから手を離せ!」
「でも、手を離したらこの人は!」
「お前を引きずり込もうとしてんだよ!! ンなことも分かんねぇのかこのボケナスが!!」
その言葉にハッとする。腕の先を見ると、緑の目に囲まれぐちゃぐちゃ潰れた男の顔から、白い歯が覗いていた。
――笑っているのだ。僕は、悲鳴を上げて手を離した。
そこをすかさず慎司が殴りつける。男の手は痙攣し、僕の手を解放した。
「急げ! まずは離れるぞ!」
「……慎司、ごめん……!」
「いい! 走れ!」
僕は頷き、廃墟の出口を目指して慎司と一目散に逃げた。
が、その道中。僕はどうしても見逃せないものを見つけてしまった。
「慎司!」
「ンだよ!」
「あれ見て!」
「あれ?」
言われて、慎司は僕の指差す先を見る。そこにあったのは、壊れたエスカレーターをゆっくりと上がる黒い浮浪者の姿。
「……アイツ、ひょっとして絵を直しに行ってるんじゃない?」
「……」
立ち止まり、上がった息を整えながら僕は慎司に進退を問う。
「どうする? ビデオでは録画できてると思うけど」
「……いや、行ってみよう。さっきも俺は緑の目を見ることができなかった。なら肉眼とビデオには差異がある可能性が高い。景清の目なら、新しい情報が得られるかも」
「分かった」
彼の出した結論に反対する理由は無い。僕らは踵を返すと、呻き声が聞こえるあの部屋へと戻っていったのだった。





