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ショートショート集

幸せの狭い風呂

作者: 青樹空良

「んっは~」


 思わず声が漏れる。

 おっさん臭いと思いつつやめられない。

 一日の終わりの、至福のひととき。


 いつも湯船につかるときの癖で、閉じてしまう目を開ける。

 すぐ目の前に風呂場の壁。

 今度はため息が出る。


 俺は風呂に入るのが大好きだ。

 毎日のこのひとときは何物にも代えがたい。


 だけど、一つだけ問題がある。


「もっと広い風呂に入りたいな……」


 俺は足が伸ばせない湯船の中で呟いた。




 仕事帰りに、入ったことのない店の前で足を止める。

 ショーウィンドウの向こうに見えているのは温泉の写真。

 見たところ小さな雑貨屋のようだ。


 いつもなら男一人でふらりと入れるような店でもないと通り過ぎるところだが、温泉の写真につられてふらふらと店のドアをくぐってしまった。

 よほど広い風呂に飢えているらしい。

 店内がアンティーク調でほどよい暗さなのは少し助かる。

 明るくて女子高生が高い声で笑っている店なんかはさすがに辛い。


 外から見えていた場所に向かう。

 さっき見た写真の下にあったのは、入浴剤だった。

 なんとなくがっかりする。

 俺は雑貨屋に何の期待をしていたんだろう。


 すぐに出るのもばつが悪くて、入浴剤を手に取ってみる。

 小さな箱に入った三袋入り。


「!!?」


 値段を見て驚く。

 思っていたより高い。

 最近は高級なやつも出ているのか。


『日々の疲れが取れないあなたを別世界へお連れします』


 パッケージにはそう書かれていた。

 確かに、風呂というのは別世界だ。

 俺にとっては癒やしの空間というやつだ。


 少々考えてから、俺は入浴剤を持ってレジへと向かった。

 温泉旅行に出かけることを思えばどうってことない。




 入浴剤を使うのは久しぶりだ。

 さらさらとお湯の中に入れると、ふんわりといい香りがする。

 森の奥にいるような、そんな香りだ。

 色は白くて、本物のにごり湯みたいだ。

 風呂の底が見えない。


 贅沢かと思ったけれど、たまにはいいかもしれない。


「んっっは~~~~」


 香りだけでなく肌当たりも心なしかいいような気がする。

 肩までしっかりとつかってから、目を開ける。


 目を開けた。


「どこ、ここ」


 ぱちぱちとまばたたきをしてみる。


 お湯で顔を洗ってみる。


 何度か繰り返しても、いつもの風呂の壁は見えなくて、目の前には露天風呂。

 しかも、周りはうっそうとした森に囲まれている。


 俺は思い出す。

 確か、入浴剤の袋にはこう書いてあったはずだ。


『山奥の秘湯』


 手を伸ばしてみる。

 ……壁に当たらない。


 別世界?

 確かにパッケージにそんなことが書いてあったけれども。


 きょろきょろと周りを見回す。

 湯けむりで森の中だということくらいしかわからない。

 他に誰かいたりするの、か?


 目を凝らしていると、白いもやの向こうにぼんやりと人影らしきものが見えてきた。


「あの……」


 声を掛けようとしてやめる。

 もし女性とかだったらどうしよう、なんて今のこの事態で考えることなのか?と思うが、そんなことを考えてしまった。


 さあっと風が吹いて湯けむりが晴れる。


「うあっ!」


 その先にいたのは……猿。

 しかも一匹じゃない。

 俺のことなんか気にしないで気持ちよさそうに湯につかっている。


 さすが山奥の秘湯。


 そして、近くからがさりと木が揺れる音。

 茂みから出てきたのは、熊。

 当たり前のように熊も温泉に入ってきた。

 

 いや、うん、さすが山奥の秘湯。


 確かに大きい風呂に入りたかったし、温泉なんか大好きだけど、大好きだけど。

 野生動物に囲まれているとなると、さすがにのんびりゆったり湯につかるどころじゃない。


 どうしたもんか、なんて思っているうちにまた湯けむり。


 いつの間にか俺は、自分のアパートの小さな風呂の中にいた。


 久しぶりの入浴剤が気持ちよ過ぎて眠っていたらしい。

 どうやら夢にまで見てしまうほど、温泉に行きたかったようだ。


 疲れてるな。




 二日目。

『海が見える露天風呂』


 昨日に引き続き、何のひねりもないネーミングだ。

 今日も袋を開けて、さらさらと湯を張った風呂桶の中へ。


 吸い込まれそうなコバルトブルーの海。

 かすかに潮の香りさえ漂ってくる気がする。

 というか、バスソルトみたいなものなのかもしれない。


「んっふ~~~~~~」


 またしてもいつもの癖で目を閉じてお湯につかる。

 

 なんだろう。

 波の音がするような。


「ん? ここ、どこ」


 目を開けると、そこは海だった。

 ああ、なんかこういうの映画の最初に見たことある。


 じゃなくて!


 また夢だろうか。

 入浴剤が気持ちよすぎて一瞬で寝てるとか。


 とりあえず堪能しよう。

 昨日と違って周りに野生動物はいない。

 あるのは露天風呂周りの岩場と見渡す限りの海。

 ワイルドだ。


 せっかくだから体を思いっきり伸ばしてみる。

 夢だとしても足を伸ばしても壁にぶつからないのは最高だ。

 鼻歌の一つも出てしまうというものだ。

 極楽気分だ。

 だったんだが……。


 そんな気分に水を差された。

 文字通り水に。


 ワイルドすぎる露天風呂のせいで、高くなった波は直接俺を襲った。


「しょっぱい」


 二日続けてリアルな夢だ。

 なんて思ったら、目の前は再びいつもの壁だった。


 ただ、


「やっぱり、しょっぱい」


 なぜか髪も海で泳いだときと同じで、ばさばさになっている。




 三日目。

『宇宙旅行気分』


 入浴剤の袋をじっと睨む。


「これ、入れて大丈夫なのか……」


 さすがに怪しい。

 昨日もろに波をかぶったせいで、まだ潮のにおいがするような気がする。

 夢にしてはリアルすぎる。


「でも、もったいないよなぁ。害は無いし、それなりのお値段だったし、一緒に入るような彼女いないし……。ええい!」


 最後のネガティブ思考を断ち切るように思い切って投入。


「おお」


 漆黒の風呂にきらきらと星のようなものが渦巻く。

 これは、一人で見ているのがもったいない。


「ふんっ!」


 男らしく風呂へダイレクトイン。


 瞬間、


「あ~、やっぱり」


 夢じゃなかったのね。


 目を閉じていないのに、風呂に入った瞬間景色が切り替わった。

 見渡す限りの宇宙。

 これは温泉とか、そういうレベルじゃない。


 宇宙遊泳なんて言葉を聞くことがあるから、『泳げる=お湯の中』だと解釈するべきなのか。

 ヤケになって泳いでみる。


 おお、前に進むぞ。


 どこまでも行ける。

 どこまで行っても、どの星にも手は届かない。


 ぷかぷか浮かんでいれば疲れも取れただろうに、泳ぎまくってしまった。

 それでも星は遠い。


 脱力してみる。

 気持ちがいい。

 宇宙に俺一人。

 しかも裸。

 なんという開放感。


「んっは~」


 いつもの声が出る。

 心地よさに目を閉じる。

 目を開けると、低い天井があった。




 四日目。

 入浴剤はもう無い。


「んっは~」


 目を閉じて開けてみても、いつもの狭い浴室。

 だけど、


「いやぁ、うちの風呂ってこんなにいいところだっけ」


 狭くて足も伸ばせない風呂が極楽に見える。

 無駄に疲れることもない。


 広くなくても温泉じゃなくても、風呂ってのはいいもんだ。

 うん。


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