第七話 糸
「期待しておるぞ、入道」
オオカシラの言葉に対して、入道と呼ばれた、背が少しだけ高い、蛸のような顔をした坊主頭の男が無言でうなずく。
鬱蒼とした森の中で、交わされる会話は森に差す光の道筋の美しさとは裏腹に物騒そのものであった。
蛸のような入道はオオカシラと別れた後、今まで進んでいた方向へ再び歩き出す。
そのような彼を見送ったオオカシラは一人ほくそ笑む。
しかしながら、運の悪いことに、蛸入道の行く先には何十もの腐敗した死骸があった。
そして近くの小川のほとりには刀、それも血生臭いものが落ちていた。
さらに言えば、その直ぐ近くの川底にも誠に美しい模様の太刀が落ちていた。
また、川まで何かを引き摺ったような跡も見受けられたのだった。
蛸入道の向かう先には、白い大地と青い海が広がっていた。
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「――――」
「――――」
日出国、北陸道は越中国、婦負郡が神の通る川の近くの家の一室に、二人はいた。
男が先に目覚め、ふと隣を見遣ると男が出した物音で女も起きた。
男はぬくぬくとしていたはずだったが、突如、猛烈な寒さが彼を襲い、それは彼に大きなくしゃみをさせた。
その男の様子に気づいた女は男を気遣おうと動いたところ、彼女もまた大きなくしゃみをした。
二人して笑い合う夫婦を見れば、彼らの行く先が円満であることが見てとれる。
その夫婦――良人の名は忠氏、妻の名を京子という――はまだ丁度一日前に祝言を挙げたばかりであり、まだ熱した鉄球のようであった。その二人は起きようと思っているうちに、やっぱり起きたくないといわんばかりの様子であり、そして仲の宜しいことに、二人してほぼ同時に眠りに落ちた。
二人の二度目の目覚めは、最早西に傾き始めんとするような日が見えるはずの昼下がりであったが、折からの大雪でお天道さまの気配など微塵も感じられないほどの荒れた天気であった。他の家では、無論できる範囲のこと――例を挙げるならば、ものづくりなど――を行っている。
しかしながら、この二人にはそのようなことをする気力は毛頭ない。仕事などで疲れ果てたとき、何もせず、ただ寝ていたくなるような心情と同じである。
この二人は普段から酒を飲むことは少ない。それなのに昨夜は、多くの人が代わるがわるやってきて、「ささっ、遠慮せずに一杯」なんて言いながら問答無用で酒を注ぎ、更には乾杯まで交わしてしまうのだから、飲まざるを得ない。それを繰り返していくうちに徐々に酔いが回り、そして離脱する羽目になった。
そして今、これまた仲良く二日酔いに陥っている。
このことも、彼らから気力を奪う原因になっている。
しかしながら、問題は全く別の、しかも根本的なところにあった。
忠氏にとっては、この冬が北國で暮らす初めての冬であり、京子はこれといったこともしていなかった。
つまり彼らはしなければならないことをできない上、為すべきことが一つくらいしかない。勿論それは、為すことであり、そのために眠るようなものである。
そうして日は、時は、雪の戸に叩きつける様が如く、無常に流れていく。
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「おはよう」
隣にいる太郎様が目覚めると、私はそう声をかけた。
思えば、ここ半年で、私の生活は激変した。
いまとなりで目覚めた、愛おしいあなたに出会ってからなのだと、あなたを見て思える。
私があなたに出会ったとき、私はただのやつれた少女だった。あのときは、喪失の念から来る悲しみで荒れていた。だけど、何か思うところがあったのだろうと今では思うのだけれども、私はあなたを家に招き入れた。
それから間もなく、最後の親まで、私は亡くしてしまった。私はもうどうすべきかなんて考えられなかった。
普通なら、あなたのことを疫病神だなんて思うかもしれない。でも私はあのとき、あなたのことを寧ろ頼っていた。いや、依存していたと言う方がふさわしいほどだった。
物の怪だとか末法だとか、そんなことはあまり信じてはいなかった。なのに、何の関わりもないはずのあなただけは信じられた。
浮世に生を受け給うてよりはじめての、不思議な、なにか超越的なものを感じた。
そう、あの夜の昔語りは楽しかった。千夜に値するほどだった。いや、昔?
あれはいったい……
「京子」
わ、私?
「何か辛いことでもあったのか」
そんなことを言いながら私の目元を何かで擦った。
「見てごらん。まるで光り輝く真珠のようだ」
私は彼の言葉を聞いて漸く自分が泣いていたことに気づいた。
「私は人魚ではありませんのに」
あなたは私の言葉への返しまでも、どこか素敵なのです。
「人魚とは、何かの吉兆の証やもしれぬな」
そう言ってひとりでに笑い始めてしまうあなたは面白く、愉快で、そして見ていて飽きることはない。いつも、こちらまで可笑しくさせてしまう力を、あなたは秘めている。
やはり可笑しくなってしまう。
「何だお京にもわかるのか。この訳のわからない面白さが」
いや、寧ろ本当に幸せそうに笑うあなたを見ているだけで私も幸せになるのです。
あなたと夫婦になってから、早一月。
まさに春夜桃李の園とでも言うべき時でした。
このままずっとこのような日が続けばどれほど嬉しいことでしょう。
親愛なる太郎様は紙、それも上質なものと、硯と筆を用意して、何かを書きつけた。
そしてそれを私に渡す。
雪溶けど白き君の見えられば妹がかたちを継ぎて見ましを
そう書かれていた。
こうなればやり返すのが筋である。
君しりてせにこひ燃ゆる屋戸の御簾揺らさす風の春待たざるか
それだけを書いて、送り返した。
「ふっ」
そして最後にもう一つ、あなたには素敵ところがあります。表情が豊かで見ているだけで幸せなところです。
「鏡への歌を額田で返すか」
――逢うべき人に出会えたことが、幸せなのだと思う。
後の世で、人々はこの頃の彼女のことをこう呼ぶ。 "Brainwashed Kyoko" と。