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原点回帰

 木々が不規則に立ち並ぶ森の中を、必死に、闇雲に進む。


 響く二つの足跡。


 一つはボクのものだ。


 そしてもう一つは、


「追いかけっこですのー? いいですわ、付き合って差し上げましょう。お前が恐怖に怯えながら逃げ惑う姿を眺めるのは愉しいですしねー」


 愉快そうに笑い、しかし赤い眼には濃い殺意を光らせながらボクを追いかけてくるフェイリン。


「ひぃっ!!」


 追手の顔を見るたびに、心臓を握り潰されそうな恐怖が襲い掛かる。


 あの赤い眼だ。あの赤い眼が怖い。血を固めたようなあの赤い眼がボクを睨んでいる所を見るたびに、どうしようもないくらい怖くなる。


 それでも何度も見ようとしてしまうのは、引き離せたんじゃないか、という希望的観測ゆえだった。


 しかし、フェイリンとの差はまったく広がらない。


 みっともなく逃げ続けるボク。


「ほら、反撃に出てみてはいかが? お義父様を殴り殺したみたいに、私もその拳で葬ってごらんなさい。何故そうしませんの?」


 フェイリンは愉悦のにじんだ声でそう訊いてくる。


 こいつが【琳泉把(りんせんは)】を使えることは、すでに聞いている。あえてそれを使わないのは、ボクをいたぶるためだろう。


 それを考えたら、今すぐぶっ飛ばした方が良いのだろう。


 しかし、武法が使えない今のボクにそれは不可能だ。


 なので、ただただ逃げるしかない。


「分かってますわ。お前が反撃に出ることなく兎のようにみっともなく逃げ続けている理由——お前は、「怖い」のでしょう?」


「っ!」


 図星を適格に突かれた。


「お前が処女を捨てた(・・・・・・)のは、あの争乱の時なのでしょう? そして、その自責の念が頭から離れない。どれだけ殺す覚悟を決めたとしても、処女は処女。処女膜を失った者の気持ちが理解できるとは思えませんわ。だから殺してから、初めて己の罪深さに気づくのですわ」


「うるさい! 君に何が分かるんだ!?」


「分かりますわ。私も経験ありますもの」


 恐怖以外の理由で心音が跳ねた。


 その言葉の意味を深く追求したいという衝動に駆られるが、今はそんな余裕などなかった。


 一刻も早く、この女から遠ざかりたい。それしか考えられなかった。


 まだまだ余力はある。まだ逃げ続けられる。


 だけど、フェイリンはその気になればいつでも【琳泉把】を使ってボクを殺せるだろう。つまり、生殺与奪権はあいつに握られているのと同義である。


 逃げ道がこれからも続くのか怪しかった。


 行く先に、夕方の光が見えた。


 木々が乱立して進みにくいこの森から出られると思い、ボクは足を速めた。


「しまった……!」


 だが、それは最悪の選択だった。


 光に中に入った瞬間目に入ったのは、断崖絶壁。もう先へは進めない。


 追い詰められた。文字通りの崖っぷち。


 おそるおそる振り返る。


 暗い笑みを浮かべたフェイリンがいた。赤眼をギラギラ光らせながら、じわり、じわりと距離を詰めてくる。


「ひっ!」


 思わずすくみあがる。


 あの赤い眼が怖かった。怖くてたまらない。


 ——オマエガコロシタ。

 ——オマエガコロシタ。

 ——オマエガコロシタ。


 脳裏で、亡者たちの怨念がざわめく。


 それは耳を塞いでも延々と響き続ける、拷問に等しいものだった。


 フェイリンは嘲笑する。


「この大嫌いな醜い眼でも、お前を怯えさせることができたのなら、あってよかったと思うべかしら」


「何を……」


「お前も聞いたことがありませんかしら? この国において、女の赤い眼は「毒婦の象徴」。この煌国という国が興るよりはるか昔、赤い眼の美女が皇帝を籠絡し、裏から操り、勝手気ままを働いてその国を凋落へと導いた。すぐにその国は滅びましたが、その赤眼の美女はまた別の国でも同じ事をし、その国を崩壊させた。その後、その女は処刑されましたわ。……そんな「伝説の毒婦」の伝説になぞらえ、赤い眼の女は、皇族や貴族の間では疎んじられる対象となっているのです」


 まるで別の世界に没入しているかのような顔で、フェイリンは語り口を続ける。


「この赤い眼は、親の遺伝を無視して稀に生まれてくる。私はその稀な事例の一つでしたわ。おまけに産んだ母親が貴族なのだから尚更タチが悪い。父親にも母親にも無い赤眼を持つ私は「不貞の子」の烙印まで押されて、母もろとも勘当されて家を追われました。それでも母は私を恨まず、十二になるまで私を必死で育て、流行り病で命を落としましたわ。……その後、母の家と対立関係にあるという家柄の貴族が、身寄りの無い私を引き取ってくれました。最初は幸運が舞い降りたのだと思ったけれど……甘かったですわ」


 フェイリンは、心底汚らわしいとばかりに我が身を抱き、吐き捨てるように言った。


「……その貴族の当主は大の幼女趣味で、幼い女児をかどわかしては狼藉を働く最低の男でした。つまるところ、私の体が目当てだったのですわ。突然私を寝台に組み伏せ「家賃を払え」とニヤついた笑みを浮かべて服を引き裂き始めたのです。錯乱した私は手近な短剣を手に取って、そいつを刺し殺しました。その後屋敷から逃げ出し、しばらくしてから後悔と罪悪感で苦しみましたわ。そのまま何日も飲まず食わずでさまよい続け、もう限界と思ったその時に出会ったのですわ……お義父様と」


 途端、まるで恋する乙女のように恍惚とした笑みを浮かべ、とうとうと語った。


「全ての災厄を招いたこの眼をえぐり出してやろうとしたのを止めてくださったのが、お義父様だったのです。お義父様、言ってくださいました。「そんな行動に意味はない」と。そしてさらに私を引き取ってくれるとまで言ってくださいました……私、最初は警戒しましたわ。この男も、私によからぬ欲望を抱いているのではないのかと。けれどいくら口汚く罵っても、あの方は私に優しかった。「お前は我が輩によく似ている。だから放っておけん」と言い続けてくれました。おまけに、自分の持つ秘伝の武法を私などに教えてくれました。……私は、お義父様の優しさに救われました。あの方は私を娘のようにしか思っていなかったでしょうが、私はあの方を愛していた。あの方が望むならば、身も心も、命だって差し上げてもいい。本気でそう思っていましたわ」


 ふと、そこでフェイリンがまとう空気の質が変わった。


「そんなお義父様を……お義父様を…………お前はその拳で殺したんだっ!!」


 総身が震え上がった。


 体の隅々まで塗り潰しそうなほどの、濃く猛烈な憎しみ。


 それを発する今のフェイリンは、義理の父親の死に際と瓜二つだった。


「お前を殺してやるっ! だけどタダでは殺さない! 少しずついたぶって、早く殺してくださいと泣き喚いてもいたぶって、もはや抵抗する気力を失うほどに心が死ぬのを確認してから肉体も殺してやる! お義父様が受けた痛みの何億倍もの痛みを味わわせてから、心も体も殺してやるっ!!」


 体から絞り出すように発せられた、憎しみの怒号。


 この状況、あの時と全く同じだ。


 憎しみだけでボクを殺さんとしてくるゴンバオ。対し、何もできずに引き下がったボク。


 だけど今の状況で、あの時の異なる点が二つある。


 一つは、相手の憎しみに、確かな殺傷力が付与されている点。


 もう一つは、退いたら崖から落ちて死ぬという点。


 つまり、この状況を打破する手段はただ一つ。


 戦うしかない。


 だけど——手が出せない。


 拳を握っても、それを前に突き出すことができない。体がそれを拒否している。


 だけど……本当にそれでいいのか?


 確かにボクの体は、武法を恐れている。


 だけど心には、まだ確かに武法を愛する気持ちが残っている。


 さらに心はもう一つ、こうも思っているはずだ。


 武法への愛を貫いていた、以前の自分に戻りたいと。


 もし、この状況で戦わなかったら、肉体的にも、武法士としても、ボクは完全に死んでしまうだろう。


 ならば——戦え!


「シッ!!」


 鋭い気合とともに、フェイリンが風のごとく歩を進めてくる。


 【琳泉把】は使っていない。が、それでもかなり速い。


 右手の短剣を、まっすぐ突き出してきた。




 ——オマエガコロシタ。

 ——オマエガコロシタ。

 ——オマエガコロシタ。




 またも彼女に、亡者の怨念を幻視する。


 体が条件反射で震えをきたす。


 だが、唇を噛み、その痛みで強引に恐怖を誤魔化し、


「やかまっ————しぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」


 怒号を叫びながら、握り締めた左拳をまっすぐ振り放った。


 その左拳は短剣とすれ違い、フェイリンの顔面を重々しくとらえた。ボクシングで言うクロスカウンターと同じ要領だった。


「んぐぉ!?」


 骨同士の激突する音が、彼女のうめきと重なった。ボクの腕力とフェイリンの走行の勢いがぶつかり、その弾みでフェイリンの体が勢いよく弾かれた。


 もたついた足取りで退がりつつ、重心を安定させるフェイリン。その鼻からは、血が滴っていた。


 ボクは彼女を殴った自分の拳を見る。


 ——やれた。攻撃できた。


 ここ二ヶ月の中でずっと出せずにいた拳を、突き出すことができた。


 少しばかり、勇気が湧いてきた。


 大丈夫だ。ボクは戦える。


 戦えるんだ!


 そう、自分に言い聞かせる。


「……ふふふ、なんだ、手が出せるじゃありませんか。ですがこれで、私も本気を出さなければならなくなりました。【琳泉把】を使って、知覚する間も無く串刺しにしてやりますわ」


 鼻腔からの流血などまるで意に介さず、眼をギラつかせながら獰猛に笑うフェイリン。


 落ち着け! あいつの呼吸、微弱な動き、すべてに気を配れ! 【琳泉把】を少しでも使う素振りを見せたら、ボクも同じように【琳泉把】だ!


 大丈夫、今のボクならきっとやれる!


 ばくばくとうるさい心音から意識をそらし、全神経を読みに集中させる。


 ………………ここだ!


 ボクはフェイリンが【琳泉把】を発動させるのに合わせて、同じ技を使った。


 灰色一色の世界に舞い降りる。自分と、向かい合うフェイリンだけが色彩を持つ。


 二人疾駆する。近づく。……ゴンバオの時と違い、互いに速さの違いがない。つまりフェイリンが圧縮可能な拍子は、ボクと同じ「五拍子」。


 内から外へ水平に斬りかかってくるフェイリンの短剣。ボクはその短剣を持つ右手を受け止めて剣の進行を止め、そのまま彼女の腕を掴み取ろうとした。が、それを読んでいたのだろうフェイリンは、短剣を手前に引き寄せながら一歩退き、戻る足に合わせて再び刺突を見舞ってきた。喉を狙ったそれを、ボクは身を開いて紙一重で回避。


 ——世界が色彩を取り戻す。


 両者の足に、ほんのわずかの間だけの硬直が訪れる。ただし手は動く。

 フェイリンは突き出した右手の短剣の切っ先をこちらへ向け、首へ素早く近づけてきた。ボクもその攻撃は読んでいたので、【硬気功】をほどこして首を守り、切っ先が刺さるのを防ぐ。ボクは左手ですかさずフェイリンの右前腕部を捕まえて、短剣を振れなくする。


 そのまま、上半身を傾けて、二人仲良く横倒しとなった。


 ゴロゴロと転がりながらも、ボクは必死にマウントをとりにかかる。どうにか、ボクが覆いかぶさった状態になって止まった。


「くっ、この……!」


 ボクは両手でフェイリンの短剣を強引に奪おうとする。


 フェイリンは空いた左手でボクの脇腹をドスドス殴ってくるが、我慢し、思いっきりの力で短剣を奪い取った。それを使おうと一瞬思ったが、あいにくボクは短剣術には明るくない。なのでそれを後ろへ思いきり投げ、断崖絶壁の下に捨てた。


 フェイリンは柔道でいう巴投げの要領でボクを後ろへ蹴り転がした。ボクは転がる流れで立ち上がる。


「害虫並みにしぶといですわね、お前はっ!」


 またしても【琳泉把】を使うボクとフェイリン。


 灰色の世界で何度か手を交え、再び色彩ある世界に立ち戻った瞬間、怒涛の手技の応戦を繰り返す。


 しかし、手技の巧妙さに関しては、相手の方が上だった。一発顔面を打たれて一瞬ひるんだ隙を突く形でボクの両肩を掴み、足の捻りの力を用いて投げ飛ばした。


 どうにか断崖絶壁から落ちる前に体勢を整えられたが、次の瞬間、右側頭部、左脇腹、右大腿部に衝撃を受けた。視界に星が散る。


 ボクに一度に三撃与えたフェイリンが煙のように目の前に現れ、ガッと首根っこを掴んできた。


 その細腕に似つかわしくない怪力で、ボクを持ち上げた。首がぎりぎりと締まり呼吸が妨げられる。


 眼下のフェイリンを見下ろす。憎しみに燃える紅玉のような赤眼が、ボクを強くとらえていた。


「ふふふ、苦しそうですわね。……ですがお義父様が死に際に味わった苦しみはこんなものではありませんわ」


 経穴を思いきり殴られた。特に激痛を感じる場所だ。


「っ! あがああああああ!!」


 何度も何度も殴られる。


「くっふふふふふふふ!! 苦しんで死ね!! 穴という穴から液体垂れ流して死ね!! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」


 赤い眼をギラギラ光らせ、口角を泡立たせながら狂ったように呪詛を吐き続けるフェイリンは、病に冒された狂犬のようだった。


 幾度も襲いくる激痛と、頸部を圧迫される苦痛の二つにさいなまれながら、ボクはうっすら思った。


 ——ああ、これが呪いなのか。


 ボクが手にかけてきた亡者達の怨念。


 それらが今、フェイリンという形をとってボクを殺そうとしているのか。




 ……なんだこれ、意外と大したことがないな。 




 少し工夫すれば、乗り切れそうだ。


 彼女たちには、彼女たちの言い分があるのだろう。


 だけどボクも、守りたい何かがあって、彼らを殺したのだ。


 そもそも、悪と呼ばれる行いをしたのはあいつらだろう。


 それなのに、どうして報いなんか受けなきゃいけないんだ。完全に逆恨みじゃないか。


 ……そうだ。これは逆恨みなのだ。


 ボクはボクの正義を貫き通したのだ。ならば、それに胸を張れ。


 やられっぱなしで……いられるか!


 ボクはフェイリンの顎を蹴り上げた。


「おごっ!?」


 ひるんだ声と同時に、ボクの首を掴む力が弱まった。両手で強引に引っぺがして着地し、強烈な震脚に合わせた正拳突き【衝捶(しょうすい)】をたたき込んだ。


 今度はうめき声さえ上げず、ものすごい勢いで吹っ飛んだ。彼女の姿が一気に遠ざかり、森の奥へと吸い込まれていった。


 訪れる束の間の静寂。




 ボクの五体を満たすのは——懐かしい高揚感。




 相手へようやく有効打を与えられたことによるカタルシスではなかった。


 ——技を使うことそのものに、体が、心が、喜びを感じていた。


 懐かしい。この感覚。


 その感覚を引き金に、昔の記憶が蘇る。


 それは幼少期、用心棒兼武法教師として(リー)家に招かれたレイフォン師匠に、【打雷把】を習い始めた頃のこと。


 最初は武法の基礎中の基礎である【易骨(えきこつ)】が上手く進まず、悩んでいた。だけど師匠の岩をも打ち砕く一撃を脳裏に浮かべながら一生懸命に修行し、ようやく体の感覚が変わって【易骨】が成ったことを自覚した瞬間、心身が喜ぶのを感じた。


 それからも同じような具合で技を身につけていき、そして同じような具合で快感を得た。


 それは、酒で酔ったり、賭け事で大勝ちしたりなどで得られる即物的快感とは根本的に質が異なる、尊く、得難く、かけがえの無い快感だった。


 しばらくして、さくさくと草木を踏み荒らす足音が森の奥から聞こえ、その足音の主であるフェイリンの姿が見えてきた。


「殺す……殺す……殺してやる…………!」


 【打雷把】の一撃をモロに受けたのだ。当然打たれた腹部を押さえながら、ところどころよろけながら歩いていた。だが、赤い双眸は殺意の光をなおも剣呑に放っていた。


 まだ戦いは続く。彼女はボクを帰してはくれないだろう。


 そんなフェイリンの呼吸に意識を集中させる。


 ある程度距離を近づけてから、彼女に合わせる形で【琳泉把】を発動。灰色の世界に没入する。


 接近する二人。


 だけど、そのまま打ち合うことはしない。【琳泉把】の使い方では、彼女に確実に一日の長がある。同じ土俵では戦ってやらない。


 なので、ボクは接近した瞬間、彼女の片腕を掴んだ。【琳泉把】の効果が切れるまでそうして捕まえ、「断絶」が解けた瞬間に強烈な一撃を見舞うためだ。


 そんなボクの魂胆に気付いたフェイリンは、懸命に突いたり蹴ったりを仕掛けてくる。だがボクはそれらを難なく抑える。


 【琳泉把】が解け、「断絶」で足が動かなくなる。


 「断絶」が解けた次の瞬間、ボクは間伐入れずに【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】を放った。


 風に吹かれた病葉同然に跳ね飛ぶフェイリン。


 そして、また思い出す。昔の修行の記憶を。


 いよいよたまらなくなり、ボクは戦闘中にもかかわらず【拳套(けんとう)】をその場で演じた。ボクが長年にわたって育ててきた、努力の結晶を。


 技を使うたびに、その技を覚えるまでの軌跡を思い出し、快感を思い出す。


 それはまるで、武技の一つ一つの尊さを、心身が再確認しているかのようだった。


 ……楽しい。


 そうだ。楽しいんだ。


 ぼくの心身は、武法士としてのボクの原点を思い出しつつあった。


 ——楽しいから、面白いから、武を学ぶのだ。


 それこそが、ボクが武法を始めたきっかけだった。


 確かに、武法は戦闘や殺戮のために研究、開発されていったものだ。ゆえに、殺し合いという土俵から目を背けることはできない。


 だけど、それだけじゃない。


 人を殺すこと以上に尊いものがあることを、ボクは知っていたではないか。


 人を殺す苦しみよりも、武法を学ぶことの方がはるかに尊いことを、ボクは知っていたではないか。


 それなのに、ボクは……


 大きく息を吸い込む。


「ばっっっっっっっっっかやろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」


 そして、今までの自分に対する罵倒を、思っくそ叫んだ。


 なんという視野狭窄! 

 なんという盲目! 

 なんという間抜けさ!


 小事にばっかりとらわれて、大事に目が全然行ってなかった!


 今までの自分の愚かさに、もうバカと言うほかなかった。






 ——もう、大丈夫だ。






 ボクはもう、これからどんなことがあっても、この気持ちを忘れはしないだろう。


 再び、フェイリンが戻ってくる。やはりまだ動けるか。さっき【移山頂肘】を打った時の手ごたえがなかったから、きっと後ろへ飛ぶなりして衝撃を逃したんだろう。


 殺意で炯々と輝き続ける赤い眼。


 ……もう、亡者の姿を連想することはなかった。


 ボクは大きく息を吸い込むと、半身の立ち方を取り、構えた。


「終わりにしよう——趙緋琳(ジャオ・フェイリン)


 決着をつけるために。

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