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絶望

 【熙禁城(ききんじょう)】正門のすぐ横の小さな扉から出てきた宮莱莱(ゴン・ライライ)を早速出迎えたのは、ひどく心配そうに表情を曇らせたミーフォンだった。


「お姉様は大丈夫そう?」


 その質問に首を縦にも横にも振れぬまま、ライライは濁した答えを出した。


「シンスイは眠ったわ。体にも異常はなかった。けれど……」


「けれど?」


「心が……深刻みたい」


 体内に重々しくドロドロした沈殿物を溜め込んだような気分で、二の句を継いだ。




「——恐怖」




 ビクッ、とミーフォンは肩を震わせた。


 この一言だけで十分だっただろう。シンスイの身に、何が起こっているのかの説明は。


「きっかけは分からない。けれど、これだけははっきり言える。あの子は……シンスイは、闘うことに強い恐怖を抱いてしまったのよ」


 「恐怖」とは、武法士と隣り合わせな感情だ。


 だが、一口に「恐怖」と言っても、その種類、性質は異なる。


 例えば、刃物が怖いのは誰だって同じだ。だがこういった単純な恐怖心は、鍛錬次第である程度は克服可能である。実物の刀で寸止めされる訓練などだ。まして、武法には【硬気功】という防刃法が存在する。


 ……しかし、心に強く刻み込まれた恐怖は、取り除くことが非常に困難である。


 死の淵をさまよった者の中には、その時の恐怖が心に刻み込まれ、それを再び感じまいとして無意識に戦いを遠ざけたがる者もいる。


 人を殺してしまった者の中には、人の命を奪うことの恐怖に怯え、二度と戦いをしなくなってしまう者もいる。


 そういった恐怖を抱いた武法士は、往々にして武法から足を洗うのである。


「でも、どうしてよ!? お姉様、あたし達とは普通に一緒に戦ってたじゃない!」


「そうね。でも……それが無理をしてたのだとしたら?」


 息を飲むミーフォン。


「あの子ね、人を殺すのを嫌がっていたの。そりゃ、誰だって嫌かもしれない。だけど、みんな普通に戦ってた。その中で、シンスイだけが、殺人を行うことに人一倍忌避を感じていたのだとしたら?」


「そんなこと! だって、あれは帝都を守るために仕方なくやってた事じゃない!」


「ええ。でも、それは理屈。感情は必ずしも割り切れるとはいえないわ。それに……私達と別れて宮廷に向かってから、何かあったのかもしれない。シンスイの心に深い傷を刻み込むほどの「何か」が」


 おそらく、いや、きっとそうだ。


 宮廷での戦いで起こった「何か」が、シンスイの勇敢な心を殺したのだ。


 ライライは友として至らなさを覚え、唇の下で歯噛みする。


 自分はシンスイの「勝利」にしか目が向いていなかった。その時に何が起こったのかなど、まったく気にしていなかったのだ。知っていれば、自分に何かできたかもしれないのに。


 ……いや、たとえ知っていたとしても、自分にできることなど片手で数える程度しかなかっただろう。それも、限りなく効果が薄い手段ばかりだ。


「……君達、ここは宮廷前だ。雑談は不敬だぞ」


 そこでふと、横槍を入れてくる声が聞こえた。


 振り向くと、そこには見知った顔があった。


 シンスイの父である、李大雲(リー・ダイユン)であった。何やら冊子を数冊抱えている。宮廷に何か用事があって来たのだろう。


 ライライは一礼し、


「ごめんなさい。その通りですね。場所を変えます」


「待ちたまえ。先ほど、シンスイがどうとか言っていたようだが……娘に何かあったのか」


「それは……」


 一瞬、ライライは返事に窮した。シンスイは父親に対し、きまって強気に振る舞っていた。その父親に弱みを教えることは、彼女の自尊心を傷つけてしまうことになるかもしれないと思ったからだ。


 けれど、どれだけ対立したとしても、この厳粛そうな男はシンスイの父なのだ。


 教えておく必要がある。そう思い、ライライは事情を話した。


「……そうか」


 ダイユンはそう言ってしばらく黙った後、次のように一言。




それは好都合だな(・・・・・・・・)




 ライライは我が耳を疑った。


「こう、つごう?」


 自分の代わりに、ミーフォンがかすれた声でそらんじた。


「そうだ。これであの娘は武林などという野蛮な世界から足を洗える。官吏になるための最大の障害はこれで無くなった。決勝戦などそうそうに棄権させて、実家で勉学に励ませられる」


 そうのたまうダイユンの顔には、微かながら笑みさえ浮かんでいた。まるで憂いが晴れたかのような。


 心に怒気が蓄積されていく。


 だが、溜まりきるのはミーフォンの方が圧倒的に早かった。自分より大柄なダイユンの胸ぐらに掴みかかり、憤怒の形相で発した。


「ふざけんな!! あんたそれでも親!? 娘が傷ついたっていうのに、なんだそのニヤケ面はっ!!」


「親なればこそ。このように、神聖なる宮廷の門前で(たむろ)し、なおかつ胸ぐらを掴んで暴力行為をほのめかす粗野な者達が吹き溜まる武林という世界から抜け出せるのだ。喜びこそすれ、なにゆえ気に病む必要がある?」


「…………この、クソジジイッ!!!」


 いよいよ限界に達したのか、ミーフォンは空いた手を握り締め、それをダイユンへ叩き込む前兆を見せた。


「ごめんなさい」


 取り押さえるのは間に合わないと瞬時に悟ったライライは、そう一言謝ってから、ミーフォンを横へ蹴り飛ばした。遠くへゴロゴロと転がっていく。


 拘束から解放されたダイユンは、乱れた襟元をわずらわしそうに整えていた。


 ライライは一礼し、


「……失礼しました。今のは聞き流してください」


「ふん」


 何も言わず、一回鼻を鳴らしてから宮廷へ歩み去っていくダイユン。


「クソ親父」


 姿が見えなくなった途端、ライライは唾を吐くように小さく毒づいた。ミーフォンの側へ歩み寄り、


「ごめんなさい。間に合わないから、蹴っ飛ばしてしまったわ」


「……いいわよ。別に。正直マジムカついたけど、あのオッサンを殴っても……お姉様の心が晴れるわけじゃないから」


 気落ちした声。


 ごろんと仰向けになり、目元を片腕で覆いながら、悔しげに呟いた。


「どうすれば……いいのよ」


 ライライも同じ気持ちだった。


 しかし、その問いに答えられる者は、その場にはいなかった。









 すでに自分の部屋のように慣れ親しんだ内廷の寝室には、夜闇がとっぷり落ちこんでいた。


「はぁ……」


 ボクは灯りをつけることなく、寝台の上で膝を抱えてうずくまっていた。


 ライライたちと別れた昼頃から、ずっとこんな風に過ごしている。


 今は夜と分かるが、理解できるのは「暗い」ということだけで、どれくらいの時間帯なのかは分からない。


 いい加減このままでいるのも飽きてきた。


 ボクはおもむろに寝台を降り、白い素足で床を踏む。


 腰を落とし、呼吸を整える。


 片脇に拳を引き絞り、足からの力を手に伝達させて矢の如く突き放とうと——




 ——オマエガコロシタ。




 したが、途中でその拳は伸びを止めてしまった。


 歯を食いしばるのに合わせて、伸びかけた拳をギリギリと強く握り、床に叩きつけた。


「……ちくしょうっ!!」


 床にしがみつくようにうずくまりながら、何度も何度も床を殴る。


 自分の情けなさに強く憎悪していた。


「なんで……簡単な技すら出せないんだよ……!?」


 ——ボクの体が、武法を拒否している。


 いや、より正確には、ボクの心の奥底に付けられた深い傷が、ボクの肉体に無意識のうちにストップをかけている。


 人間には、生存本能というものがある。なので、いくら自殺をしようとしても、必ず本能が拒否反応を示す。


 それと同じくらい、ボクの心に強く刻み込まれたのだ——「恐怖」が。


 きっかけは間違いなく、ゴンバオとの戦いだ。


 ボクの必殺の一撃【冲星招死(ちゅうせいしょうし)】を受け、生きていられないほどの重傷を負ったゴンバオだが、それでも強烈な執念と憎悪で死にゆく身を動かし、目から赤黒い血を流しながらボクへ近づいた。


 ボクは首を絞められただけで、大したことはされなかった。だが、自分の死を悟ってもなおボクを道づれにしようとしたその凄まじい情念は、ボクに恐怖を刻み込んだ。


 それによって、ボクは知ったのだ。


 どんな大義名分を掲げたところで、殺された相手はあの世でボクを憎悪するのだと。


 殺された相手でなくても、その相手を大切に思う人間から憎しみを買うだろう。その憎しみはいつか、実在する本物の脅威となってボクに襲い掛かるかもしれない。


 一回拳を打つたびに、ボクは一つの憎悪を買うかもしれない。


 ボクの歩く道は、血塗られた道なのだ。


 ボクが武法を愛する気持ちは、今も変わらない。


「なら、なんで体が動かないんだよっ!!」


 大好きなのだ。


「だったら動けよっ!!」


 二度目の人生を、全て武法に捧ぐと決めたのだ。


「ならこの体たらくはなんなんだよっ!!」


 ドン! と両の拳を床に叩きつける。


 全身を震わせながら、床で丸くなる。


 目に溜まった涙が視界を水面のように揺らし、大粒の滴を落とす。


「ちくしょう……ちくしょう………」


 ……大好きな武法が、できなくなってしまった。


 その現実を認識しつつも、それを認めることができなかった。


 武法がなくなれば、ボクはいったい、何をよりどころとして生きていけば良いのだろう。


 わからない。


 誰かわかるなら、どうか教えてほしい。


「ボクは……どうすればいいんだよ…………」


 闇の中に、ボクの声が寂しく響く。


 それに答えてくれる者は、やはりいなかった。


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