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奪われる覚悟

 それはさながら、万華鏡のようであった。


 規則も陣形もへったくれも無く散らばった人の群れが、こちらという標的を定めた途端、それを「中心」にして廻り、巡り始めた。


 皆等しく円の軌道をなぞるように滑りの良い足運びを行っており、人数の多さに反して、誰ひとりとして他の仲間とぶつかることはない。事前に動き方を打ち合わせていたのかいなかったのか、連中の動きは驚くほど調和が取れている。

 

 そして、円軌道で歩を進める無数の者たちの中から、一人、また一人と絶えず「中心(ひょうてき)」めがけて矢の如く飛び出す。


 円と螺旋を技術的重点に置いた、華麗かつ鋭敏な体術の嵐がひっきりなしに吹き荒れる。


「くっ!」


 敵の一人が放った鋭い抜き手に、ミーフォンは間一髪前腕部をこすらせる。摩擦によって直進する方向が横へ逸れ、抜き手はこちらの頬をかすって空気を穿孔した。


 この機を逃すまいとすかさず【震脚(しんきゃく)】で踏み込み、正拳。しかし相手は舞踊のような鮮やかさで全身を旋回、体の位置を小さく横へズラしてこちらの突きを紙一重で流す。そのまま遠心力を持続させ、振り返りざま、鶴頭。


 ミーフォンは正拳のために突き出していた腕の肘を曲げる。円弧軌道でやってきた鶴頭が頬を打ち砕く寸前、手前へ起こした前腕部でそれを受け止めた。衝撃が梵鐘のように手根へ響く。


 間断を作らず、そのまま受け止めた相手の腕を掴み取る。さらに引き寄せ、渾身の頭突き【黒虎出林(こっこしゅつりん)】でお返しをしてやろうと考えた――矢先、


「あがっ――!?」


 真横から、大きな「何か」がしたたかにぶち当たった。衝撃の余剰分で跳ね飛ばされるが、どうにか倒れずに姿勢を整える。見ると、肩口を先にして体当たりをし終えた姿勢の、もう一人の敵。


 さらに自分が先ほど仕留め損ねた奴は、踊るように回転しながら迅速に後退。こちらの周囲をしつこくぐるぐると周回する仲間たちの中へ戻り、己もまた行動を同じくした。


 追いかけようとして、そしてすぐにやめた。あの中に入ったとたん、台風のように怒涛の攻め手を浴びる事は、数分前に痛みという授業料を払って学習済みだ。


 しかし、だからといって、この「台風の目」の中が安全であるという意味ではない。


 中と外、どちらも等しく地獄だ。


 さらに、一人抜けた不足分を補うためとばかりに、周囲を巡る無数の敵の中からまた一人排出された――ミーフォンの背後へ。


「しゃらくさい!」


 瞬時に片膝を立て、振り向きざま靴裏を突き放った。


 しかし、苦し紛れに打ち込んだ蹴り。後ろから来たその男は両前腕の旋回を使って(コロ)の原理で難なく受け流した。蹴り足に宿っていた強い直進力が【化勁(かけい)】によってスッキリと溶け消える。


 男はそのまま、こちらの蹴り足を両手で掴み取る。この状態ならこちらを引き寄せることも、足を叩き折る事も容易。


 すぐに対処しようとした瞬間、男の姿が突如残像を置き去りにして消えた。かと思えば「ぐえっ」という醜いうめき声が一瞬遅れで耳を打った。


 見ると、男はこちらから離れた場所で大の字となっていた。


「恩に着るわ!」


 それをしてみせた仲間――ライライに一言礼を告げ、ミーフォンは自分の戦いに意識を集中させた。この戦い、悔しいが気を抜ける暇はほとんど見つからない。ライライの状況を細かく確認する余裕などなかった。


 その通りとばかりに、次の敵が迫る。


 ミーフォンは両拳を脇腹に引き絞り、


「シィィィィィィィッ!!」


 瞬く間に拳の連打を放ち、眼前を塗りつぶした。


 【連珠砲動(れんじゅほうどう)】。一息の間に無数に繰り出される、雨のような連拳。視界が手の肌色一色に染まる。


 しかし、拳からは一向に手応えを感じない。


 足元を見てハッとする。敵は回転しながら腰を深く沈め、拳打の雨の下をくぐっていたのだ。さらに維持していた遠心力を使い、こちらの足を払おうと弧を描いて蹴りかかってきていた。


 ミーフォンは双拳を納め、後方へ跳ぶ。払い蹴りを僅差で回避。


 着地した後も気を抜けなかった。敵が即座に腰を上げ、滑るように近づいてきた。


 対して、ミーフォンは正拳に【震脚】を付随させて放った。


 が、例によって例のごとく。また回転によって、体の位置を微かにズラされた。こちらの放った拳が惜しくも空を切る。


 かと思えば、敵は踊るような回転を維持しながらこちらの懐中に滑り込む。


 ――危機感を覚えたミーフォンは、急いで臍下丹田(せいかたんでん)に【気】を凝縮させた。


「ふっ!」


 敵は自身の行う回転運動をさらに圧縮させた。遠心力を残したまま、足底から五体全てへ捻りを加え、拳を真っ直ぐ伸ばす。直前までの遠心力、そして全身の旋回力を込めた拳が、自身もまた螺旋運動を行いながら一直線に疾る。


 ――胴体前面への【硬気功(こうきこう)】が完了。それからほとんど間を置かずに螺旋の拳が直撃。


「くっ……!」


 まさしく間一髪の防御に成功したミーフォンは、衝撃の勢いに身を任せて彼我の距離を大きく開いた。痛みも損傷もない。が、受けた【勁擊(けいげき)】の余波が鋼鉄の胴体表面をビリビリ振動させていた。


 ――くそっ、面倒くさい。


 周囲に絶えず渦巻き続ける人間の台風。その中から敵が一人、二人、三人と次々吐き出されては、それと同じ人数が人間台風の中へ戻る。吐き出された者は台風の目に立つ自分たちへ接近。回避、【化勁】、攻撃の三種類の行動が、円を基準とした美しい体さばきより次々と繰り出される。


 ミーフォンもライライも、すっかり翻弄されていた。


 水面を翻る花々を彷彿とさせる動き。芸術的にさえ見えた。


 【龍行把(りゅうぎょうは)】はその動きの華麗さゆえ、一部の武法士からは花拳繍腿(かけんしゅうたい)――見た目が華やかなばかりで、実戦的ではない武法――と揶揄されている。


 だが、長年いがみ合ってきた流派の者であるミーフォンは知っていた。【龍行把】はその美しい動作の中に狡猾さ、そして鋭さを内包している。まるで(スカート)の下に単刀を隠し持った絶世の美女のごとく。


 【龍行把】最大の得意分野、それは「円運動の操作」。


 文字通り、自身に円の軌道で働く運動量を自在に拡大、縮小させられる。

 大きな円で回避、翻弄し、

 小さな円――螺旋――で【化勁】、そして貫通力の高い【勁擊】を行う。


 さらにこの武法は、集団戦でも無類の強さを発揮する。「円」という動きはその性質上、他の「円」の動きとの調和が取りやすい。武館が違えど【龍行把】同士であるなら、たとえ事前に陣形や役割を組み立てていなくとも、比較的高度な連携を実現することが可能なのだ。そして、それが普段一緒に切磋琢磨している師兄弟同士であったなら……その連携の完成度は推して知るべしだ。


 そう――まさに今この時のように。


 何度も防がれ、躱され、打たれたミーフォンはたまらず後退。同じく退いたライライと背中同士を付き合わせた。


 二人一組の塊の周囲を、【龍行把】たちは絶え間なく周回し続ける。まるで水面下で獲物の隙を伺うサメのように。


「……ねえライライ、お姉様との一戦で見せた、あの恐ろしく速い蹴りは使えないの? あれがあれば、こっちの圧勝だと思うんだけど」


「【無影脚(むえいきゃく)】のこと? 悪いけど無理よ。あれは【意念法(いねんほう)】の準備に時間がかかるもの。そんな余暇を、彼らが心優しく与えてくれるとは到底思えないわ」


「もう、使えないわねっ」


「酷いわよ……」


 二人して渇いた笑いをこぼす。笑っていられる状況でないことは火を見るより明らかだが、そうしないと戦意が萎えそうだった。


 少し早いライライの息遣いが、背中を通して伝わってくる。


 連中は一人に対して、一人で当たらない。大体二、三人で当たってくる。一人だけでも面倒くさいのに、それが三人同時にかかってくるのだ。やりにくいったらありゃしない。


「ミーフォン、お互いに背中をくっつけたまま戦うというのはどうかしら? そうすれば、後ろを補えると思うのだけど」


「おすすめしないわよ。あたしたちそれらしい連携なんかやったことないし、流派も違うし。逆に墓穴るんじゃない?」


「やっぱりあなたもそう思う?」


 「三人寄れば文殊の知恵」とはいうが、今は二人だ。いい知恵など望むべくもなかったようである。


 肝心の一人は、今もあの歓楽街で……。


 ――それを考えた瞬間、ミーフォンの中に熱が蘇った。


 そうだ。凹んでいる場合じゃない。自分は一刻も早く【吉火証(きっかしょう)】を奪い返さないといけないのだ。そして、それはこいつらを叩きのめさない限りは望めない。


 なら、戦おう。たとえ何十人何百人立ちはだかったとしても、一歩も退くことはまかりならない。でないと、大好きなあの人の笑顔を二度と見られなくなる――!


「――――ッ!!」


 切歯。そして疾駆。


 前方から近づいて来る三人のうち、一番右の敵めがけて突っ込む。


「ハッ!!」


 ――が、肉薄した瞬間、急激に進路を左へ変更。三人のうち一番左を走っていた敵めがけて肘から勢いよく激突した。【震脚】による踏み込みも加えて。


「がぁっ――!?」


 唐突な進路変更に虚を突かれたそいつは上手く対応しきれず、腹で強力な肘打を甘んじて受けた。紙屑同然に吹っ飛ぶ。


 ミーフォンはまだ止まらない。靴裏のかかとで地面を蹴り削り、土を掘り起こして盛大に舞わせた。


 残った二人の敵は目を押さえる。そして、その隙にまとめて打ち倒した。一人目は【黒虎出林】の頭突きで、二人目は回し蹴りで。


 ――十秒足らずの時間で、三人の相手を下した。


 ミーフォンの士気は高揚する。


 なんだ、やればできるではないか。


 いける。このペースを保っていれば、いつかは終わりが見える。


 このまま地道に崩していってやる。


 そう考えた時だった。


 自分の周囲で戦っていた敵一人が退き、人間台風の中へ戻る。交代とばかりに、新たな一人が台風の目の中へ飛び出してきた。


「!」


 その人物の姿を見た瞬間、ミーフォンの瞳が敵意で燃え上がった。


 リエシンに次いで憎たらしい男、徐尖(シュー・ジエン)だった。


「――死なすっ!!」


 ミーフォンは撃ち放たれた一矢と化し、憎き標的めがけて突進。


 間隔はすぐに潰れきった。


「らあっ!」


 怒気混じりの気合いとともに、鞭のごとき回し蹴りを放つ。


 ジエンはそれを防御しようと腕を構える。受け止めた後、捕まえるつもりだろう。


 しかし、回し蹴りが衝突する寸前、ミーフォンは蹴り足の膝を曲げた。足が折りたたまれて半分の長さに減り、ジエンに当たるはずだった向こう脛の部分が消失。こちらの足はジエンの目の前を通り過ぎた。


 そして、迅速に軸足を踏み換え、振り向くと同時に後ろ回し蹴り。


「ぐっ――」


 一回目の蹴りはあくまでも囮。本命である二回目に対して反応の遅れたジエンは回避が間に合わず、上腕部に甘んじて蹴擊を浴びる。


 体が軽く横へ跳ぶが、すぐに着地。


 しかしその時、すでにミーフォンがジエンの間合いの内へ踏み入っていた。


 天を引きずり下ろす気持ちで頭部を一気に急降下。同時に【震脚】による踏み込みで自重を倍加。渾身の頭突き【黒虎出林】がジエンに迫る。


 ――が、標的の姿が突如"消失"した。


 地を揺るがさんばかりの踏み込みに付随して放たれた頭擊は、見事に空振りする。


 地に差した影から上部に存在を認め、見上げる。ジエンはこちらの頭より少し高い位置で浮遊していた。攻撃が当たる寸前に、一気にあの高さまで跳躍したのだ。


 浮遊から自由落下へ以降。こちらの右肩を踏み台にしてから、真後ろへと着地した。


「このっ!」


 背後を取られる事は武人として恥ずべき事。ミーフォンは稲妻にも等しい速さで退歩し、深く腰を沈めつつ重心を移動。踏み込みと沈墜を合わせた勁力を肘一点に集中させた。


 ジエンは鞠が弾むような軽やかさで後方へ跳び、ミーフォンの肘鉄を直撃寸前で回避。さらに着地後、再び軽快に跳び上がる。空中で一度宙返りし、大きく距離が離れた位置に降り立つ。


 その身のこなしを見て、思わず瞠目する。


 足腰の「溜め」をほとんど作らず、まるで風に吹き上げられた紙のごとき速度と身軽さで跳躍できる、驚異的身体能力。


 人とは思えないこの動きは――間違いなく【軽身術(けいしんじゅつ)】のそれだ。


 つまり、シンスイの【吉火証】を鞄ごとひったくった黒ずくめの男の正体は、こいつだったということ。


 それを確信した瞬間、ミーフォンはますますジエンが憎らしくなった。


 ――長年敵対してきた流派の人間。

 ――高洌惺(ガオ・リエシン)の仲間。

 ――自分の敬愛する女性から、大切なものを盗んだ実行犯。


 ここまで憎む理由が結集した存在は、そうそう目にかかれないのではないだろうか。


 おまけに奴を含むここの連中全員、こちらに謝罪しないどころか武力を剥き出しにしてきたのだ。まさしく居直り強盗の態度そのままだ。


 敵意という火種にどんどん油が注がれ、大火となっていく。


 その大火は、ミーフォンの激情を駆り立てた。奥歯が我知らず強く噛み合わさる。


 大地の奥底まで足を埋没させんばかりの力強さで瞬発し、加速。


 ジエンとの間合いを再び圧縮するや、重心の乗った後足で地面を踏み切る。生み出した脚力を脊柱のうねりによって上半身まで伝達させ、それが手まで届いた瞬間に【震脚】で重心移動。手首を左手で握りこんだ右拳を、顎下から吐き出すように突き放った。――【白蛇吐心(はくじゃとしん)】。足と脊柱の力を手まで伝達させ、それを【震脚】の踏み込みとともに放つ強力な正拳。勁力のみの威力もかなりのものだが、打つ際には両腕と胴体で三角州の関係を形作るため、勁力はその頂点にあたる拳へと十割集まる。


 大きな(ちから)のこもった小さな拳。当たれば決め手に化けるであろう【太極炮捶(たいきょくほうすい)】有数の剛拳が、ジエンめがけて空気の膜を破って突き進む。


 ――しかし、【龍行把】は受け手に秀でた武法。攻める際にはよく考えないと、簡単に足元を掬われる。


 それを忘れ、激情に身を任せたツケは大きかった。


 結果として言えば、【白蛇吐心】はジエンに当たりこそした。


 しかし、やはり手応えは皆無だった。なぜなら、ミーフォンの強打を手で受け止めるや否や――その力を利用して自身を急回転させたからだ。まるで水流を受けて回りだす水車のように。


 そして、ジエンはその回転力をそのまま利用し、拳を(ハンマー)よろしく叩き込んできた。


「えがっ――――!!!」


 凄まじい衝撃と痛覚に右の二の腕を殴られ、一瞬、呼吸が止まりそうになる。


 ミーフォンの小柄な体が病葉(わくらば)のように宙を舞う。肩口から落下してからもしばらく勢いのまま転がり、ようやく横寝の姿勢で停止した。


「ミーフォン! ――っく! このっ!?」


 ライライはこちらを案じて声を荒げるが、あっちもすぐに助けに入れる状況ではないらしい。翻弄されているような声質で分かる。


「ぐっっ……!!」


 支援は望めないと悟ったミーフォンは、今なお残留する激痛を堪え、可能な限り迅速に立ち上がった。


 痛みを訴えるのは、先ほど打たれた右の上腕部。優れた衝撃分散機能を持つ武法士の骨格でなかったら、胸骨もろとも砕かれていたに違いない。


 衝撃の苛烈さを思い出して恐怖したかのように、ガクガクと震える右腕。


 もし本当にそうなら、皮肉なものだ。なぜならその衝撃を作り出したのは、ほかならぬ"己自身"なのだから。


 先ほどジエンが使った技は【借力盤打(しゃくりきばんだ)】。相手の打撃力を利用して自身を回転させ、その遠心力を用いて打ち返す技だ。その打撃の威力は、回転に利用した相手の攻撃力に比例する。【龍行把】に伝わる高等技術である。


 つまるところ、ミーフォンは自分で自分を殴ったのだ。


 今更ながら後悔の念が募り、歯噛みする。激情を腹の中へ呑み込み、冷静な態度で戦いに徹するべきだったのだ。


 しかし覆水盆に返らず。手負いの有様である自分に対して、ジエンは無傷そのものだった。


 ミーフォンは睨みをきかせ、ふと浮かんだ素朴な疑問をぶつけた。


「……あんた、なかなかやるじゃない。それだけの実力があるってのに、なんでお姉様を利用しようなんて考えたのよ」


「……馬湯煙(マー・タンイェン)の用心棒の雑魚だけなら、まだなんとかできよう。だがあの屋敷には一人、とんでもない怪物がいる。奴には、我々全員でかかったとしても勝ち目はない。だからこそ、李星穂(リー・シンスイ)の力が必要なのだ」


 ――とんでもない怪物?


 その代名詞についてもっと詳しく訊きたかったが、そんな暇はなかった。ジエンが再び距離を急激に詰めてきたからだ。


 拳が勝敗を決する間合いとなるや、再び打ち合いが始まる。


 攻撃。防御。反撃。回避。反撃、防御、反撃、【化勁】、攻撃攻撃攻撃防御防御防御回避反撃防御反撃【化勁】反撃【化勁】攻撃攻撃攻撃攻撃攻撃攻撃回避回避回避回避回避回避――


 数えるのも嫌になるほどの、怒涛のやり取り。


 勢いは五分五分――ではない。むしろ、その方がまだマシだった。先ほどの攻撃の痛みがまだ尾を引いていて、ミーフォンの動きは徐々にだがどうしても鈍ってきていた。蜘蛛の巣から抜け出そうと懸命にもがく蝶の心境である。


 このままではマズイ。いずれ押しつぶされる。


 仮にジエンを退けたとしても、他にもまだまだたくさん敵はいる。今の状況が長引けば体力的にもたない。数の暴力の餌食となる未来は避けようがない。


 何か、この絶望的状況を打破できる方法はないのか――!


 その時。




「――こんばんはー。兄さんにお弁当届けに来ましたー」




 出入り口が突然開き、この緊迫した状況に似合わないのんびりした声が聞こえてきた。


 開かれた戸から姿を現したのは、一人の長い黒髪の少女だった。見た感じ、歳は自分と同じくらいか、一つ上くらいだろう。おっとりとした雰囲気を放っており、ますます今のこの状況にふさわしくなかった。


 少女は何事もない日常を送るにふさわしい普通の表情で入ってきたが、今まさに繰り広げられている大立ち回りを目にした瞬間、凍りついた。


 彼女に対して最初に声を発したのは、ジエンだった。


「来るんじゃない! 今は外へ出ていろ!」


 沈着な物腰を崩さないジエンには珍しい、焦りを帯びた剣幕と声。


 途端、少女は表情を解凍させ、オロオロと狼狽え始めた。


「え、ええ!? どういうことジエン兄さん!? それより、その二人は誰っ? なんで皆戦ってるの!? ああもう、いったい何がどうなってるの!?」


 ――兄さん。


 あの娘は、確かにそう口にした。


 つまり、ジエンの妹。


 ……それを悟った瞬間、ミーフォンの脳裏にある策が浮かんだ。


 そう。とても悪魔的な策が。


 正直、良心が痛む。だが、この場を乗り切るには最善の策だった。


 ――苦悩が続いたのは約一秒半。即断といってよい時間だ。


 ミーフォンは、ジエンがよそ見をして手を止めている隙を利用した。隠し持っていた連結式三節棍を襟元の背中側から抜き出し、慣れた手つきで迅速に組み上げる。鎖で繋がれた三本の短棒は、あっという間にミーフォンの身長より少し長い一本の棍へと姿を変えた。


 左手で末端を、右手で棍の中心近くを握り締め、走り出した。


 向かうは――ジエンの妹がいる入口!


「っ! 行かせん!」


 こちらの意図を早々に察したのだろう。ジエンは必死な様子で追随してくる。


「おあっ!?」


 が、途中で背中に後ろから吹っ飛んできた仲間がぶつかり、巻き添えを食う形で倒れ伏した。倒れた二人の延長線上を走りながら見ると、三人の敵に一人で応戦するライライの姿。それを見て、蹴散らした敵がこっちに飛んできたのだと悟った。たまたまなのだろうが、嬉しい偶然だ。


 ミーフォンはひたすら全力で疾駆した。途中で妨害してくる敵のことごとくを躱し、蹴散らしながら、一心不乱に直進を続けた。


 そしてようやく、周囲を取り囲んで廻り巡る人間台風の前へと到達。その向こう側には、今なお状況が飲み込めずに狼狽を続けるジエンの妹の姿。


 それを視界に認めると、ミーフォンは棍を地面に思い切り突き立てる。深く刺さったのを確認すると、垂直方向に伸びた棍の先端へ素早く跳び乗り、足を乗せる。


 そして、そこを足場にし――跳躍した。


 足腰の【(きん)】の力を総動員させて跳び上がり、地上から3(まい)を優に超える宙を放物線の軌道で舞う。


 眼下には、あれだけ自分を悩ませてきた人間台風の奔流。その「人だかり」が、前から後へと流れていく。鳥になった気分であった。地上で起きているあまねく事が、まるで他人事のように感じる。鳥は皆こんな心境で、人を俯瞰しているのだろうか。


 だが、鳥の気持ちを味わう時間は終わりだ。体に働く慣性の軌道が、放物線の下りの部分に差し掛かった。引力に導かれるまま高度が下がっていく。


 やがてミーフォンは着地。そこは、人間台風を超えてすぐそこの位置であった。ギリギリながら、飛び越えに成功したようである。


 前方にはジエンの妹が棒立ちしている。


 彼女へ風のように近づき、そして背後に回り込む。


「きゃあっ!」


 連衣裙(ワンピース)の裾をめくり上げ、右太腿に隠していた匕首(ひしゅ)を右手で抜き出す。左腕で少女の体を強く抱き込み、匕首の刃をその喉元へ突きつける。




「全員動くなっっ!!!」




 落雷のごとき一喝。


 ピタリと全員の動きが止まり、水を打ったように静まり返った。


 全員の視線を一身に浴びながら、ミーフォンはさらに威勢良く言った。


「これが見える!? とっととお姉様からガメた【吉火証】を返しなっ!! さもないとこの子の首がパックリといくわよっ!!」


 チキンッ、と刃をさらに首へ近づけ、匕首の存在を強調する。


 武館全体が騒然とする。


「ちょっ、ミーフォン!? 一体何を!?」


 ライライが何か言っているが、今はシカトする。


「どうすんの!? さっさと選びなさい!! 素直に【吉火証】を渡す!? それともこの子を見捨ててでも【吉火証】を守る!? どっちでも構わないよ!! さあ、今夜のご注文はどっち!?」


 少女の背丈はミーフォンより少し高いので、表情は見えない。だがこちらへ伝わってくる体の震えから、怯えていることが容易に分かった。


 【龍行把】の者たちから受ける眼差しの色は様々だ。焦り、恐れ、敵意、殺意。だがいずれも負の感情という面では共通していた。


 当然というべきか、ジエンはすがるような形相と口調で訴えてきた。最初に抱いた冷静沈着な印象などとうに形無しであった。


「や、やめろ! 妹は武法士じゃないんだ!」


「へー、武法士じゃないんだ? そりゃいいこと聞いたわ。だったら【硬気功】は使えないってことね。喉笛かっ切るのも簡単で助かるわー」


 煽るように言う。ことさらに嗜虐的な笑みを浮かべ、刃の腹で人質の首筋を何度も軽く叩く。少女の肩から伝わる震えが強くなった。


 ジエンの顔がさらに蒼白具合を増した。今、妹はどんな顔をしているのだろうか。


「な、なぜだ!? なぜ妹を狙う!? 妹は――」


 関係ないだろう――そう続けようとするのを遮る形で、ミーフォンは言った。




「黙れ、豚野郎」




 口に溜まった汚物を吐き出すような語調。


「妹は関係ないだって? 寝言は起きたまま言うもんじゃないわ。その理屈が通るなら、あんた達が李星穂(リー・シンスイ)――お姉様にやった事は何? お姉様だって、元々あんた達の事情になんか全く関係のない、赤の他人だったのよ? それを腐った手段で従わせて利用してるのはどこのどいつ? 自分の投げた手裏剣を自分で食らってんじゃないわよ」


 まったくもって反吐が出る思いだった。


 相手から何かを奪っておいて、自分は奪われたくないなどと平気で吐かしているのだから。


 この男のツラの皮は、【太極炮捶】の技術書並みに分厚い。


「あんたは誰かから何かを奪っておいて、その奪った相手に「自分を憎むな」と?

 いじめられた奴に、「いじめた奴を憎むな」って?

 夫を寝取られた女に、「寝取った相手を憎むな」って?

 不当に家族を殺された人間に、「仇を憎むな」って?

 侵略された国の民に、「侵略した国を憎むな」って?

 ――――甘えんじゃねーよ、ハゲ」


 最後の一言は、込められる限りの怒りを込めて放った。


 ジエンは蒼白した顔のまま、凍りついたように表情を硬直させていた。


 ミーフォンは、ダメ押しにもう一言告げた。


「良い機会だから教えてやるわ。――奪われる覚悟の無い奴に、他人から何かを奪う資格なんか微塵もありゃしないのよ。【吉火証】がないと、お姉様の武法士生命は終わったも同然。それを返さないっていうなら……お姉様から未来を奪おうっていうなら、あたしは容赦無くこの子の喉笛を切り裂くわ。さあ、これが最後通告よ。――【吉火証】を返しなさい」


 言いたいこと、言うべきことは全て言い尽くした。


 あとは、相手方の返答次第。


 さっきまでの白熱ぶりが、嘘のように静かになっていた。しかし、どこか圧力のある、緊迫した静けさだった。


 やがてジエンは、


「………………要求を、呑む。だから……妹を離してくれ……」


 生気が抜けきったようにうなだれ、かすれた声でそう言った。


 ミーフォンはなおも慈悲無く言い放つ。


「妹を返すのは【吉火証】を持ってきてからよ。あと、持ってくるなら可及的速やかになさい。あんまり時間をかけると(はかりごと)があると見なすから、そこの所よろしく」


「わ、分かった……」


 言うや、ジエンは気だるげに立ち上がり、この広場の奥にある小屋へ向かって歩き出した。


 他の師兄弟も、何も言わなかった。それを見て、ジエンの行動がこの一門の総意であると確信できた。


 ミーフォンはおくびにも出さず、内心で安堵した。


 良かった。引き下がってくれて。


 いくら自分でも、戦う力の無い人間を殺したくはなかったから。


 師兄弟であるリエシンのために汚れ役を背負うほど、絆の深い一門だ。十中八九応じるとは思っていたが、万が一という事もあった。なので、連中の譲歩が奇跡のようにさえ思える。


 ライライを見る。こちらの真意を知ってか知らずか、呆れたように笑っていた。





 ――【吉火証】がその手に戻るまでの間、ミーフォンは無慈悲な悪人を演じ続けたのだった。


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