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神桃(シェンタオ)

「――あたしは神桃(シェンタオ)っての。よろしくね」




 その名前を聞いた瞬間、ボクはえらく驚いた。


 ――嘘? 彼女が”あの”神桃(シェンタオ)なのか?


 この【甜松林(てんしょうりん)】では知らぬ者のいない名前。

 【甜松林】で最も高い女の一人。

 一度寝るだけでも財産がごっそり飛んでいく女性。


 ボクは失礼であるということも忘れ、目の前に佇む妖艶な美女を真っ直ぐ指差した。


「あ、あ、あなたがあの神桃(シェンタオ)っ!?」


 驚きのあまり少しわなないた声で問うと、美女はその艷やかな唇の両端を吊り上げて微笑を作った。


「へぇ? やっぱあたしの事知ってるんだ?」


「は、はい。昨晩まで働いてた店で聞きましたから」


「そうなんだ。まあ何にせよ、そういうことだから、よろしくね」


 穏やかな物腰で、美女――神桃(シェンタオ)さんは手を差し出してきた。


 ボクは「あ、はい、どうも……」という恐縮した呟きをこぼしながら、握手に応じた。彼女の手は絹のようにすべすべしていて、そしてボクより少し冷たかった。


 手を離すと、神桃(シェンタオ)さんは改まった口調で言ってきた。


「改めて礼を言うわ。さっきは助けてくれてありがと」


「い、いえ。大したことではないです。一回も殴られてませんし。それどころか全然疲れてませんし」


「疲れてない? そういえばあんた、あんだけちょこまか動き回ったってのに、汗一つかいてないわね。あんた、やっぱり武法の心得があるの?」


 「はい、いささか」ボクは謙遜を交えて返す。


 すると、神桃(シェンタオ)さんは好奇心を帯びた目でこちらを見ながら、


「いささか……ねぇ? あたしゃ武法には門外漢だけどね、こんな狭い路地裏で、しかも人間一人抱えながら、武法士三人からの攻撃を一発も当たらずに避けきるのを「いささか」っていうのなら、世の中めちゃくちゃになってる――それくらいの理解ならできるつもりだよ。あんた、可愛い顔して結構名の知れた武法士なんじゃないのかい?」


「そんなことないですよ。ただのしがない女流武法士です」


「ふーん? まあ、そういうことにしておこうかねぇ」


 彼女はそう言って意味深な微笑を浮かべる。何かを懐へ隠すようなその奥ゆかしい笑みは、彼女の雰囲気と相まってとても婀娜(あだ)っぽく映った。


 仕草の一つ一つが、ボクの心に残った男の部分を絶妙な加減で撫で、ざわつかせ、刺激する。しかもその仕草からはわざとらしさが一切感じられない。自然体であれなのだ。


 娼婦として、女として、明らかに格が違っていた。


 ――娼婦。


 その言葉が引き金になり、これから為すべき目的を思い起こした。


 ボクはこれから、どこでもいいから娼館に再就職しないといけない。


 そして、そのかつてないチャンスは今、目の前に確かにあった。


 ――そう、神桃(シェンタオ)さんだ。


 彼女は【甜松林】の娼婦の最高位『傾城(けいせい)』である、まごうことなき高級娼婦。


 そんな彼女が所属する場所は、当然、かなり位の高い娼館であるはず。


 神桃(シェンタオ)さんくらいの高級娼婦を求めに来るのは、考えるまでもなく金持ちばかりだろう。


 その「金持ち」と呼ばれる者たちの中には、【会英市(かいえいし)】と【甜松林】を立て直すほどの財力を持った資産家――馬湯煙(マー・タンイェン)も含まれている可能性がある。


 つまり彼女の娼館に入れば、タンイェンに会える確率が高くなるかもしれないということ。


「話を戻すよ。もし良かったら、何か助けてくれたお礼をさせておくれよ。どこまで何ができるか分かんないけどさぁ」


 ちょうどそこで、神桃(シェンタオ)さんがそんなことを持ちかけてきた。


 グッドタイミングだ。ここで、彼女の娼館に雇ってもらえるように頼むのだ。


 図々しい頼みであるので、断られる可能性もある。


 でも、試す価値も同様にある。


 駄目でもともとだ。玉砕覚悟で言うのだ。今がその最高の瞬間!


 ボクは勢いでぶつかった。


「あ、あのっ! じゃあ一つだけ、いいですかっ!?」


「なんだい? 言ってみな」


「ボクを――あなたのいる娼館で雇ってください!!」


 そうぶつけるように言い募ってから、胸が地面と並行になるくらい深く頭を下げた。我ながら見事なお辞儀だと思う。


 ……沈黙が訪れた。とても重苦しい沈黙が。


 神桃(シェンタオ)さんが重苦しさを発しているのか、それともボクがそう思い込んでいるのか、それは分からない。


 すべては、この頭を上げれば分かること。


 怖い。一言も発さない彼女が、今どんな顔をしているのか分からないから。


 しかしそれでも、ボクは勇気と気力を振り絞って、ゆっくりと頭を上げた。


 そうすることで見えた神桃(シェンタオ)さんの顔は、笑っているわけでも、怒ってるわけでも、ましてや冷ややかに見下ろしているわけでもなかった。


 まるで――懐古に浸るような表情。


 遠い昔に目の当たりにした情景を今再び見ているような瞳が、ボクの呆けた顔をくっきりと映し出していた。


「……あんた…………」


 その美しい唇からようやく出てきたのは、かすれた声。


 それからまた数秒黙り込んでから、神桃(シェンタオ)さんはさっきよりもはっきりした声で、ゆっくりとボクに問うた。


「…………返答の是非を出す前に一つ確認したいんだけど、あんた……結構良いトコの育ちじゃないか? 雰囲気とか顔つきとかから、なんとなく分かるよ。そうなんだろ?」


 いきなり、要領を得ない質問だった。


 けど、ボクはとりあえず正直に答えた。


「はい。手前味噌ですが、多分そこそこ良い家柄だと思います」


「やっぱり……なら、どうしてこんなゴミ溜めで働きたがる? もしかして家が豊かだったのは昔で、今はすっかり没落してて、食い扶持を稼ぎに来たんじゃないのかい?」


 再度問われる。まるで責めるような響きを持った言い方で。


 いや、責めるのとはちょっと違うかもしれない。なんというか、答えが予想できてるけどその予想通りであって欲しくない、そんな案ずるような気持ちが感じられなくもない口調だった。


 しかし、その予想は見事に間違っている。


「そうじゃないです。ボクは――馬湯煙(マー・タンイェン)の屋敷に入りたいんです」


 神桃(シェンタオ)さんは見事に目を皿にした。


 ボクの答えが、自分の予想と全く違っていたこともあるだろう。


 けれど、それだけではなかった。


「どういうことだい? なんだって馬湯煙(マー・タンイェン)の屋敷なんかに入りたがる?」


 まあ、当然の疑問である。


「ある人を探してるからです」


「ある人、ってのは?」


「【甜松林(ここ)】で働いてた「瓔火(インフォ)」っていう娼婦です」


 次の瞬間、神桃(シェンタオ)さんはものすごい勢いでボクの両肩口を掴んできた。


「あんた、瓔火(インフォ)を知ってるのかい!?」


 切羽詰ったような顔で、そう問いただしてきた。


 その反応にボクは口をあんぐりさせながらも、


「もしかして……お知り合いなんですか?」


「知り合いも何も、瓔火(インフォ)――姉御はあたしの先輩だよ。階級はあたしの方が上だがね」


 今度はボクが驚愕する番だった。


「こんな町にはふさわしくないくらい、優しい人だった。【甜松林】に入ったばっかの頃、うまく馴染めなかったり、くじけそうになったりしたあたしを、姉御はいつも優しく励ましてくれた。姉御の優しさには何度救われたか数え切れないわ。おかげであたしは徐々にだけどうまくやれるようになって、果てには『傾城』なんていう仰々しい地位にも上り詰められたわ。姉御は先輩ってだけじゃない、あたしにとっては恩人なのよ」


 ――そうだったのか。


 しかし聞いた限りでは、瓔火(インフォ)さんはなかなか良心的な人みたいだ。


 ……そんな人のお腹からあのひねくれ娘が生まれただなんて。


 神桃(シェンタオ)さんは、苦虫を噛み潰したような顔をして続けた。


「けど、姉御は一ヶ月ほど前に馬湯煙(マー・タンイェン)に指名されて屋敷に連れてかれて、それっきりウチの店には顔を出してないんだ。あたしはずっとそれが気がかりで、一度あの男の屋敷まで尋ねたんだけど「知らない」って一蹴されて追い返されたわ。どうにも納得できなかったけど、さすがにそれ以上の追求はできなかったわ」


「どうしてですか?」


「あの馬湯煙(マー・タンイェン)が相手だからに決まってんだろ。この辺り一帯の連中は、みーんなあの男の差す傘の下で飯食ってるようなもんだからね。下手な事すりゃ自分の生活が脅かされかねないわけ」


 くそっ、と毒づく神桃(シェンタオ)さん。


「だけど、気持ちはどうしても止められないのよ。姉御が行方不明になった一件、確実に馬湯煙(マー・タンイェン)が何らかの形で一枚噛んでる。あいつが姉御を連れて行ったのがそもそもの始まりだし。それに姉御だけじゃない。あいつに連れてかれた娼婦は全員同じように行方をくらましてるんだ。怪しむなって方が酷ってもんだろ。けど、あたしは立場上何もできない。下手するとあたしだけじゃなく、あたしのいる店までぶっ潰されかねないからね。そうしたら後輩たちに迷惑がかかる。もどかしいよ、まったく」


 ……まるで馬湯煙(マー・タンイェン)という名の天子が君臨する国みたいだ。


 悔しげに言う彼女を見て、ボクはそんな考えを抱いた。


 警察機構たる治安局が及び腰である以上、確かにそれでは解決も追求もできないだろう。


 けど――だからこそボクが役に立つ。


神桃(シェンタオ)さんは、瓔火(インフォ)さんを探したいですか?」


「……当たり前じゃないか。あの(ひと)はあたしの恩人なんだ」


「なら――なおさらボクを雇ってください。ボクは【甜松林】にも【会英市】にも住んでいない余所者です。だからタンイェンに気兼ねせずに動けます」


 神桃(シェンタオ)さんはあっけにとられたような顔をする。


 そんな彼女をよそに、ボクはさらに二の句を継いだ。


瓔火(インフォ)さんがどこに行ったか分からない以上、一番怪しくて、なおかつ探す価値があるのは屋敷の中です。ボクはそこに侵入して、瓔火(インフォ)さんがいないかどうかを確認しようと思っています」


「どうやってだい? 奴の屋敷は、奴が金で雇った武法士によって厳重に警備されてんだ。こっそりでも外から入るのは難し…………あんた、まさか……」


 途中で何かに勘づいたような反応を示し、神桃(シェンタオ)さんは恐る恐る尋ねてきた。


 彼女がこちらの考えを察していると確信したボクは、こくんと首肯した。


「そうです。タンイェンに娼婦として買われ、屋敷へ入れてもらうんです。そうすれば外の警備もすんなり抜けられます。その後、厠所(トイレ)に行くとかの理由を付けてタンイェンから離れ、屋敷の中をこっそり探し回るんです」


「……その方法はあたしも一回考えたよ。けど、屋敷の中物色してる最中に見つかったらその時点で捕まっちまうだろ」


「必ずしもそうとは限りません。素人ならほぼ確実にそんな結果になるかもしれないですが、ボクは武法士です。タンイェンの使用人に怪しまれて捕まりそうになっても、それなりに対処できます」


 そこまで聞き終えると、神桃(シェンタオ)さんはおとがいに手を当てて思案顔をし始めた。


 ボクの出した案――より正確にはリエシンの案だが――に乗るべきか、迷っているのかもしれない。


 だがやがて、腹をくくったように顔を上げた。


「……本当に、姉御を探してくれるのか?」


 そう訊く彼女の表情は、まさしく真剣そのものだった。


 ボクは口元を微笑ませ、力強く肯定した。


「はい。任せてください」


「そうかい……」


 神桃(シェンタオ)さんは目を閉じ、黙想するようにしばし口を閉ざす。


 が、すぐにまぶたを持ち上げ、呆れの眼差しでこちらを見て言った。


「…………けどなぁ、あんたのその策にゃ、一つだけ大きな欠陥があるよ? それはねぇ、まずタンイェンに買われなきゃいけないって点さ。それが出来なきゃ、そもそも始まらないじゃないか」


「………………あ」


 予想外の方向から突然殴られた気分となった。


 ――確かに、言われてみればそうだった。


 今までボクは娼館に入ることばっかり考えていた。しかし娼館に入るのはあくまでもスタートラインに過ぎない。その先でタンイェンに買われないと策は成立しないのだ。


 そうだ。そうではないか。その事をすっかり忘れていた。


 そしてそう考えたとたん、自分のしようとしていることがいかに難しいのかを再認識してしまった。


 タンイェンに気に入られる。これはまさしく言うは易し、行うは難しの所業だ。何せこの【甜松林】には娼館がいくつもある。奴が必ずしもボクのいる娼館に来てくれるとは限らないではないか。


 なんだよそれ。ハードモードすぎやしないか。


 ボクは体中の血がサーッと足底へ下がるような悪寒を得た。


 だが、そんなボクとは違い、神桃(シェンタオ)さんはクスクスと可笑しそうに笑っていた。


「ははははっ! なんにも考えてなかったのかい? しょうがないねぇ、じゃあ――手を貸してやるよ」


「えっ?」


「あたしは【甜松林】で顔が広いからねぇ。馬湯煙(マー・タンイェン)が買った女全員に共通する特徴から、奴の趣味嗜好を結構察してるつもりさ。おまけにあいつがウチの店に足を運ぶ頻度は結構多いし、入れば会える確率も高くなるだろうさ」


「えっと……それってつまり……?」


 ボクは、すでに分かりきっているはずの彼女の答えをさらに追求した。もし予想どおりなら、かなり希望が見えてくる展開になると思うからだ。


 神桃(シェンタオ)さんはボクの頭にポンと手を置くと、ニカッと人の良さそうな笑みを見せた。


「――いいよ。あんたを雇ってやる」


 それは、ボクが予想していた通りの答えであり、なおかつ望んでやまなかった答えだった。


 ボクはぱあっと表情を輝かせ、


「い、いいんですか!?」


「おうとも。さっき助けてもらった礼と、瓔火(インフォ)の姉御を探したいっていう気持ちゆえに、さ。正直言うと雇うかどうかを決めるのはあたしじゃなく店長だが、『傾城』であるあたしはある程度のわがままなら押し通せる力があるからね、あんたを上手いこと店にねじ込んでみせるよ。けど――まだそれじゃ足りない」


 言うや、彼女はこちらをビシッと指差し、遠慮のない言い方で、


香瑚(シャンフー)、あんたにはまだ馬湯煙(マー・タンイェン)を射止めるための魅力が足りない。素材は文句なしに一級品さ。だがその容貌や発する香り、立ち振る舞いとかは、奴の好みとは大きくかけ離れてる。それじゃあ奴が来店したとしても、ソッポを向かれるのがオチさね。見た目が良いだけの女なんざ、この【甜松林】にゃゴロゴロいるんだから」


「そんな……それじゃあ、どうすれば?」


「あたしが鍛えてやる」


 神桃(シェンタオ)さんは力こぶを作るように片腕を曲げ、ギュッと力強く拳を握る。


「タンイェンが来るまでの間、『傾城』であるあたし直々に――男を悦ばせるための技術知識(ノウハウ)をあんたに叩き込んでやる。その特訓は決して楽じゃない。けど、絶対の成功を約束してあげる。どうだい? あんたにこれを受ける覚悟がある?」


 ボクは一秒も迷わず「はい!」と頷いた。


 どうせこれを乗り越えないと、ボクの武法士生命は終わったも同然なのだ。なら、躊躇するだけ無駄ってものだろう。


 それに、タンイェンがよく来る店に入れる上、お膳立てまでしてくれるというのだ。今のボクにとってこれだけありがたい話は無い。


 ならば、なってみせようじゃないか。


 タンイェンのお眼鏡に叶う娼婦に。


 この夜の街の中で一際輝く星に。


 それまでの間、この神桃(シェンタオ)さんがボクの師父だ。






 こうして、ボクは娼婦として再デビューしたのだった。


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