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美女救出

 クビになってしまいました。



 そりゃそうだ。店のお得意様をぶん殴るなんて真似をしてしまったのだから。


 ボクに殴られたお得意様は見事に気絶していた。すぐに目を覚ましたが、その途端に「もう二度と来ねぇからなっ!!」と涙声で怒鳴り、女の子を一人も買わないまま娼館を出て行ってしまった。


 当然ながら、店長は怒髪天を衝く勢いで大激怒。この世に存在するありとあらゆる罵倒をぶちまけてから「お前のせいで貴重な得意様が一人いなくなったよ!! とっとと出て行きな、この疫病神!!」と叫び、ボクを鞄ごと店から追い出した。


 ボクは入ったその日に解雇という、異例の急速(ハイスピード)解雇を経験したのだった。


 入社と退社、両方とも最速の職場だった。今回の経験はあらゆる意味で忘れられないだろう。


 うん、そうだ。ボクは貴重な経験をしたのだ。そう思わないと、自分の馬鹿さ加減が恥ずかしくて死にたくなってくる。


 とにかく、ボクは娼館を追い出されてしまった。


 そこまではまだ良い。百歩譲って、まだ良い。


 ……その後、新たな問題が発生したのだ。


 この【甜松林(てんしょうりん)】という色町は、規模が広くない。その分、噂話なども非常に伝播しやすい。


 つまり何が言いたいかというと――ボクが追い出された事実とその原因が、その日のうちに【甜松林】全体に広まってしまったのである。


 ボクは娼館を追い出された後、しばらく休んでから他の娼館へと足を運び、そこの店長に「雇って欲しい」と頼んだ。しかしボクの体つきと三つ編みを見た途端「お前、さっき近くの娼館で騒ぎを起こした香瑚(シャンフー)って女だろ? とっとと帰んな」と、まるで虫を追い払うような口調で言われた。


 その後もめげずにいくつかの娼館を尋ねたが、みんな同じ反応だった。


 考えてみれば、当然の結果だと思う。店に利益を生まないどころか、逆に損なわせるような人材をどうして雇いたいだろうか。


 ――ボクは半日も経たないうちに、この【甜松林】の中で凶状持ち扱いとなってしまったのだ。


 それを確信した時には、すでに夜明けが訪れていた。


 ボクは結局、一晩中町中をうろついていた。


 どこかからニワトリの鳴き声が聞こえて来る。それによって朝であることを改めて実感したボクは、思わず大きなあくびをした。口を隠さないそのあくびは、年頃の乙女にあるまじきものだった。


「…………はぁ」


 ものすごく声の低いため息がもれる。ウンザリした声質だった。


 なんでボク、こんな所にいるんだろう。


 本当ならボクは今日、帝都へ向けてさらに北上していたはずだ。


 それなのに、どうしてこんなえっちな町で棒立ちしているんだろうか。


 そうだ。あいつだ。あいつのせいだ。高洌惺(ガオ・リエシン)のせいだ。


 あいつのせいでボクは帝都へ少しも近づけず、こんな状況に陥っているんだ。


 こうなったら自慢の【打雷把(だらいは)】の一撃をぶち込んで、無理矢理【吉火証(きっかしょう)】のありかを吐かせてやろうか――そんないつものボクらしからぬ悪魔的発想が浮かんだのは、きっと疲れているせいだろう。


 しかし、仮にそれをやっても無駄だ。リエシンは他人を手駒にするという卑劣な行為に、自分の命をかけているのだ。脅迫や拷問では意味がない。むしろ、自害されたらその時点で【吉火証】の隠し場所がわからなくなる。そうなったら終わりだ。


 【吉火証】を手っ取り早く取り戻したいなら、やはり馬湯煙(マー・タンイェン)の屋敷に入るしかない。


 そしてそれを成すためには、娼婦としてタンイェンに気に入られないといけない。


「……ボクはそれを、自分でさらに難しくしちゃったんだよね…………」


 またしても、馬鹿でかいため息が出る。


 まさしく因果応報。自業自得。身から出た錆。


 【甜松林】の町中からは、夜の時の盛り上がりがすっかり落ち着いていた。大通りを歩く人の数もまばらだ。夜の住人である【甜松林】の人たちは、日が差してからが休み時なのだろう。


 しかし、徹夜慣れしていないボクは眠たかった。またあくびが出る。


 これからどうしようかと、疲れた頭で考える。


 寝たくても、寝られる場所が無い。お腹は空いてない。お風呂も無い。やること、できることなんて一つも存在しないように思えた。


 ――そうだ。修行でもしよう!!


 偶然思いついたその考えは、まさしく天啓だった。


 というか、そもそもボクが一番忘れちゃいけない事だったじゃないか。


 【吉火証】を取られたこととか、娼館行きになったこととか、お客さん殴ってクビになったこととか、嫌なことがいくつも重なったせいですっかり忘れていた。


 武法の修行は、いつだってボクの一番の癒しだったではないか。


 よし、なんか少し元気が出てきた。今から気分転換に一汗かきに行こう。


 思い立ったが吉日とばかりに、ボクは【甜松林】の正門へ生き生きした足取りで進み、外へと出た。


 だが、正門を出てすぐの所で、嫌な奴に会った。


「――おはよう、李星穂(リー・シンスイ)進捗(しんちょく)具合はどうかしら?」


 右肩に乗った一つ結びの髪束。質素な半袖と長裙(ロングスカート)。憂いを帯びたような大きい瞳と、右目の下に二つ横並びした泣きぼくろ。――そんな身体的特徴を持つ少女、高洌惺(ガオ・リエシン)は、見透かしたような微笑みをたずさえてそう訊いてきた。


 ボクは仏頂面で、ぞんざいに返答した。


「……別に。どうもこうも無いよ」


「お客さんを派手に殴り飛ばしたらしいじゃない。凄いわ貴女。【甜松林】ができて以来、そんな真似をした娼婦は一人もいないわよ。一夜にして【甜松林】に伝説を築いたわね」


 賞賛するようでいて皮肉の混じった口調がなんかむかつく。


「うるさいなぁ、分かってるならわざわざ訊かないでよっ。ていうか、そんな事言うために来たわけ?」


「そうよ」


 リエシンはあっさり肯定した。


 ――ほんっっっっっっとに可愛くない!


 やな奴、やな奴、やな奴!


 ボクが頬っぺたを風船みたいに膨らませて怒りをこらえていると、


「――と言いたい所だけど、もう一つ用があったわ」


 リエシンが、急にからかい半分な態度を引き締めてそう言った。


 ボクの顔も思わずそれにつられ、真剣味を帯びた。


「もう一つの用って?」


「私の母が、娼婦だった頃に名乗っていた名前を教えに来たのよ。教えるのを忘れていたから」


 ――そういえば、聞いてなかったな。


「何て名前だったの?」


「『瓔火(インフォ)』よ。……それじゃあ、もう失礼するわ。せいぜい今の情報を役立てて頂戴」


 そっけなく告げると、リエシンはボクの横を通り過ぎて去って行った。


 【甜松林】の周囲に広がる広葉樹林の一角へ入り、その奥まで消えゆく彼女の後ろ姿を、ボクはしばらく眺めていた。


「お母さんの名前教えるだけでいいのに、なんでわざわざイヤミを前置する必要があるんだよ……ホントやな奴」


 ボクはそう小さく愚痴った。


 何か一つ悪口を言わないとやっていけないのか、あの娘は。


 そう不満を感じる一方、先ほどの彼女の言い回しに対する引っかかりを、心の中で密かに抱いていた。


 ――娼婦だった頃(・・・・)


 まるで、もう過去の事であるかのような言い方。


 そんな文脈をわざわざ用いた意図が妙に気になった。


 しかしすぐに最初の目的を思い出し、考えるのをやめた。


 少しばかり修行して、気を紛らそうという予定だったではないか。リエシンの台詞よりも武法を優先するのが、ボクという人間のはず。


 ボクはリエシンが入った所とは別の場所から、薄暗い広葉樹林の中へと入っていった。


 無秩序に乱立する木々をかきわけるようにして奥へ進む。


 しばらくすると、そこそこ広い空間を見つけた。太い広葉樹によって楕円形に包囲された、草木一本生えていないこげ茶色の地面。植物の匂いに土の匂いが濃く混じっていた。


「よし、ここでいいかな」


 ボクは持っていた手提げ鞄を木の根元へ置いてから、その楕円形の広場の中心に立つ。


 両足を揃えて直立し、ゆっくりと深呼吸。心を落ち着ける。


 しばしリラックスしていたが、次の瞬間、ボクの動きは「緩」から「急」へ突発的に移った。


 ――真横へ【震脚(しんきゃく)】で踏み込み、同時に肘で鋭く仮想の敵の胸を抉る。

 ――突き出した肘の腕を円弧の軌道で素早く脇に引き戻し、そこからすぐに真っ直ぐ掌打、さらに追い討ちとして肘鉄。仮想敵に息もつかせぬ二連擊を叩き込んだ。

 ――片腕を内側から外側へ広げて仮想の正拳を受け流しながら、仮想敵の懐へ侵入。もう片方の拳で真っ直ぐ腹を打ち貫く。


 踏み込みがいくつも連なり、地を揺るがす。

 拳脚が空気を切る。

 三つ編みが躍動する。

 何度も、何度も、何度も、イメージで作り上げた敵をぶち抜いた。

 落雷のごとき【震脚】の音が、森の中に絶えずこだまする。そのたびに、周囲の野鳥がざわめき立つ。


 ボクは体の内側に溜まった鬱憤を発散するように、力強く【拳套(けんとう)】を練り続けた。










 ――結局、少しと言いながら、二時間も修行に没頭してしまった。


 ボクは近くに流れていた川で汗を洗い流してから、元来た道へと引き返した。


 少しばかり体を動かしたおかげか、ぼーっとしていた思考がスッキリしたものになっていた。眠気もすっかり覚めている。


 うん。やっぱり修行って最高だよね。


 根拠は無いし、前途多難だけど、何とかなる気がしてきたよ。


 ボクは生き生きした足取りで【甜松林】へと戻ってきた。


 しかしまだ午前中であるため、人通りこそ二時間前と比べて少し増えたものの、町の活気は夜に比べればまだまだ衰えていた。


 午前に来る客が少ないためか、開いている娼館はまだ無い。その他には、両手の指で数える程度しかない酒屋やその他の店が開いているだけだった。


 また雇ってもらうよう頼みに行こうと思ったが、これはもう少し時間を潰してからの方がいいかもしれない。


 することの無くなったボクは、大通りを適当にぶらつきながら、通る人々を眺めた。


 若い女の人――今は普通の格好をしているが、ほとんどが娼婦だろう――が多いのは言わずもがな。


 時々だが、男性も見かける。そしてその六割以上は、背中に棒でも入ったかのごとき綺麗な姿勢と、足裏が地面に磁石のようにくっつくような歩きという、共通した特徴を持っていた。


 つまり、武法士。


 ――実はこの【甜松林】には、武法士の数が結構多い。


 なぜなら彼らは皆、この町の用心棒的存在だからだ。


 【甜松林】にも武館がいくつか存在する。それらの武館はこの【甜松林】の統括団体『落果会(らっかかい)』から月払いで報酬を得て、その対価としてこの町の警備をしているのだ。こういった色町では、糾紛(トラブル)を起こす客も多い。彼らはそんな迷惑な客を腕づくで処理する事が仕事なのである。


 ここの武館は全て、ヤクザ者との繋がりが深い。なので品性は皆無だが、その分荒事慣れしている。何より実利優先であるため、金のためなら一切手心を加えない。こういった役回りには理想的な人選というわけだ。


 ……ちなみにこれらは全て、クビになった娼館の先輩に聞いた話である。


「それにしても、何もやることが無いなぁ……」


 立ち止まり、一人ぼやきをこぼす。


 しばらくこの町を散歩していたが、そんなに規模が大きくないため、すぐに大通りは踏破した。なので、未知なる道(ダジャレではない)の探索という暇つぶしは潰しきってしまった。


 娼館はまだ開いていない。酒場にも興味がない。ヤクザ者の武館にはあんまり近寄りたくない。


 暇だった。とにかくやることがなかった。


 ぶっちゃけ、今【甜松林】にいる意味は皆無のような気がする。


 さっきの森で食べられる植物でも探そうかな――そんな考えが浮かんだ時だった。


「――ちょっと! 離しな! 酒臭いのよあんたら!」


 どこかから、そんな女の人の声が耳に届いた。


 まるで何かに捕まっており、その拘束を必死になって解こうとしているような語気を持っていた。


 気になったボクは耳を澄まし、再び声が聞こえて来るのをジッと待つ。


「――いい加減にしな! なんでアタシが――」


 さっきと同じ声――しかし最初に比べて、苛立ちの語気(ニュアンス)が増していた――が、別の言葉に形を変えてボクの鼓膜を震わせた。


 音源をたどると、視線は建物同士の間にある細い脇道で止まった。


 野次馬根性を覚醒させたボクは、コソ泥のような忍び足でその脇道へと近づき、建物の陰からそっと様子を伺った。


 影が差して薄暗いその路地裏にいたのは、人相の悪い三人の男。そして彼らは、建物の外壁にもたれかかって立つ一人の女性を三方向から囲い込んでいた。

 

 ――思わず見とれてしまうほどの美女だった。


 目鼻立ちが並外れて整っているのは言うに及ばず。つり上がった瞳は刃物のような鋭利さを連想させる一方で、長くきつく反り返った睫毛の影響で強い色気も感じさせる。艷やかで枝毛一つ無い長髪はお尻の辺りまで伸びており、絹束と見紛うような長いもみあげは、豊かで且つとても形の良い胸部の膨らみに優しく垂れ下がっていた。着ている服装は黒い長袖と、足首まで丈がある黒い長裙(ロングスカート)。露出は低いが、ぴっちりとした大きさであるため、内包する肉体の理想的曲線美がよく分かる。


 全体的に垢が抜けきったその美しい女性は、苛立ちと焦り、そして憤りで表情を歪めていた。そして、そんな顔すらとても絵になっている。


「なあ、オイ、いいだろぉ? 俺らと一発交流深めようぜぇ?」


 彼女を囲う男の一人が、緊張感の抜けきったぐでんぐでんの喋り方でそう言った。


 その路地裏は薄暗い分涼しいはずなのに、三人の顔は不自然に赤みを持っていた。疑いようもなく、酒気帯び状態だった。


「ざけんな、このカッペ! 下心見え見えなのよ! ちょっと酒に付き合う程度なら構わないけど、下半身で交流したいってんならきちんと出すモン出しな! 話はそれからだよ!」


 女の人は、さっきボクが聞いた声と同じ声でそう喝を発した。


 ……今の台詞から察するに、彼女は娼婦なのだろう。


 男たちは粘っこくまとわりつくような言い方で、


「おいおい、お前よぉ、この【甜松林】をバカ客から守ってやってんのは一体誰だと思ってんですかぁ?」


「俺らでしょ? だったらぁ、それなりの見返りを支払ってくれてもいいんじゃないのぉ?」


「そうそう。別に支払いは金じゃなくてもいいんだぜ。その体でもさぁ」


 ――この【甜松林】を、俺らが守ってる。


 ボクはあの三人が、【甜松林】を警備する武法士である事を察した。


 しかし、今の彼らは明らかに迷惑な客と五十歩百歩に見えた。


「ハンッ、起きたまま寝言吐かしてんじゃないよ! あんたらへの報酬は『落果会』がいつも払ってんだろ! ウチらからあんたらに何かしてやる義理は皆無だね! そのキタネー(ツラ)二度と見せんじゃないよ! おととい来な、インキンタムシ!」


 女の人は中指を立て、果敢にそう啖呵をきった。おおっ、武法士三人が相手なのになんて漢気だろうか。ちょっと惚れ惚れしちゃったぞ。


 だが、その罵倒は悪手だった。男の一人が彼女の胸ぐらを片手で掴み、宙へ一気に持ち上げたのだ。


「口答えすんじゃねぇよ、この売女(ばいた)がよぉ!! テメェらは男にケツ振って媚びてりゃいいんだよ!! なんなら今ここで俺の自慢の妖刀ぶち込んでやろぉかぁ、ああ!?」


 男は太く濁った声で怒鳴り、その持ち上げた女体を乱暴に揺さぶる。


「くっ……この……離しなっ!」


 女の人は必死に拘束を解こうとする。だが彼女を掴む無骨な手は、まるで金属の枷のようにビクともしない様子。


 見たところ、あの女の人は武法士ではないようだった。もし武法の心得が多少なりともあるのなら、あそこでやられっぱなしじゃないはずだから。


 普通の人間が武法士に、それも三人をまともに相手にして勝てるわけがない。


 その上、あの三人は完全に酔っ払った状態だ。放っといたら何をしでかすか分かったもんじゃない。酒に呑まれまくった人間に理屈は通用しない。


 ――ここは、加勢した方がいいか。


 ボクは隠れて様子を見るのをやめ、物陰から姿を現した。


「あのー……何してるんですかー?」


 さも今来たかのように振る舞い、答えの分かりきった質問を投げかける。


 男の一人が、酔いでめちゃくちゃになった語調(イントネーション)でがなり立てた。


「るっせぇ! 俺らぁ今お楽しみの最中だ! 上も下も引っ込んだ幼児体型はお呼びじゃねぇんだよ、タコ!!」


 一方的に突っぱねる言い方にムッとしたボクは、脇道の入口に鞄を置いてから、躊躇なくすたすたと三人の元へ歩み寄る。


 そして、女の人を持ち上げている男の腕を片手で掴むと、


「――うぉあっ!?」


 強引に引っ張り込んだ。


 一見細く柔弱な少女の腕は鍛え上げた【(きん)】によって凄まじい膂力(りょりょく)を発揮し、鋼のような男の腕を徐々に、徐々に下へと引きずり込んでいく。


 女の人のいる位置が少しずつ下がり、やがて地に足を付いた。


「いだだだだだだ!? っ! は、離せコラ!」


 男がボクの手を振り払う。それによって、女の人も腕から開放された。彼女は地に膝を付きながら、ケホケホと何度も苦しそうに咳き込む。


「テメェ、一体何のつもりだ!? それに今の力……ただのガキじゃねぇな! 武法士かぁ!?」


 男は少しばかり理性を取り戻した眼差しで睨めつけてくる。さっきボクが掴んだその腕には、五本の指の跡がくっきり残っていた。


「この野郎……邪魔しやがって……!」


「しゃしゃり出てきてんじゃねぇぞ! 殺されてーのか!?」


 酒臭い息と一緒に脅し文句を吐き出す。


 ボクはそんな彼らに目もくれず、膝を付いた女の人に近寄ってしゃがみこんだ。


「大丈夫ですか? ケガは?」


「けほっけほっ…………あ……ああ、大丈夫だよ。ありがと」


 少しかすれた声で紡がれた女の人の言葉に、ボクはひとまず安堵する。


 彼女に肩を貸してから立ち上がり、そのまま元来た道へ進もうとしたが、


「てめっ、シカトしてんじゃねぇぞっ!!」


 男の一人が放った拳の接近を感知したため、それを素早く片手で掴み取った。


 中指と薬指の腹で、受け取った男の拳面を押し返す。


 その勢いで二歩ほどたたらを踏んだ男は、酒気で赤みがかった顔をさらに紅潮させ、


「このガキャ――――――!!!」


 本格的に勢いをつけて突っ込んで来た。


 ボクは女の人の胴回りを片腕で抱きかかえた。彼女の方がボクより背が高いため、頭が豊満で柔らかなおっぱいの谷間に挟まってしまうが、今は気にしない。


 さっき以上の速度と圧力を持って飛んできた拳。顔面を狙った攻撃だ。ボクは女の人を脇に抱えたまま、足を小さく動かして頭の位置を横へズラし、紙一重で拳を回避した。


 だがそれで終わりではない。回避の時に移動した位置の延長線上にいた別の男が、ボクの髪の毛を掴もうと手を伸ばしていた。


 鉄棒みたいに強靭そうな五指が頭部を捕らえる僅差(きんさ)、またしてもボクは頭の位置を横へ少し動かし、相手に空気を掴ませる。そしてすぐさま伸ばされた腕の外側をなぞるようにして進み、男の横を素通り。


 二人目を越えたのも束の間。三人目の男が、左右の腕を大きく開いたまま突進してくる。抱きついて捕まえるつもりだ。


 翼のように開かれた両腕が今まさに閉じるという刹那の時間、ボクは地を蹴った。真後ろへ大きく飛び退いて、男の腕の間合いからギリギリで外れた。


 着地する。その時ちょうど背後にいた男がこちらへ腕を薙ぐ――よりも先にボクが背中で体当たり。突き飛ばして約2(まい)の距離を作った。


 三人はそれからも懲りずに何度も手足を出してきたが、そのことごとくが空振りという結果に終わる。


 ボクは狭くて人の密集した路地裏の中を活発に駆け巡り、やって来る攻撃を全て避けていく。胸の中に女性を抱いたまま縦横無尽に移動し続けるその様は、さながら激しい舞踏(ダンス)のようだった。


 三対一の人数差。こっちは一人荷物を抱えている。おまけに道幅も狭い。回避には向かない条件であることは言わずもがなである。


 けれど――ボクにとっては問題無い。


 【打雷把】は強大な【勁擊(けいげき)】だけが売りではない。針穴に糸を通すような精緻な歩法も特徴の一つである。


 その歩法によってあらゆる攻撃を必要最低限の動きで回避し、そのまま自分にとって有利な立ち位置を取るのだ。レイフォン師匠が強かったのは、そういった歩法によって「絶対に当たる一撃必殺」という夢物語を実現できたからだ。


 そして、師匠は自分と同じ持ち味を、弟子であるボクにも持つよう要求した。


 長年に渡って足の器用さを養ったボクは、足だけで針穴に糸を通せるし、足で持った筆で手書き並みに上手い字を書くこともできる。それらに比べれば、この狭い通路での攻撃の回避など容易い。


 まして、三人の動きは酔いのせいでキレがなく、なおかつ大振りで先読みがしやすい。ボクに一発も当たらないのは、もはや必然ともいえる。


 どれくらいの間、そんな一方的なやり取りをしていただろうか。


 気がつくと、三人は揃って息を切らせていた。


 当然の結果と言える。武法士は体力があるが、技とも呼べないような勢い任せの攻撃を繰り返していれば無駄な体力も食うはずだ。


「く……お、覚えてやがれ! 顔覚えたからなっ!」


 やがて、男たちはベッタベタな捨て台詞を言ってから、そそくさと路地裏から出て行った。


 ボクと女の人だけが、その場に残される。


「あの……もう離してもいいんじゃないかい? 連中ズラかったわけだし」


「へ? ああ、ごめんなさい。そうですね」


 女の人を脇に抱えている事をすっかり忘れていたボクは、慌てて腕から開放する。


 彼女はくるりとこちらへ向き直ると、その鋭さのある美貌を緩めて笑った。


「ありがとね、可愛い嬢ちゃん。あんたのおかげで助かったよ。危うく商売道具のこの(カラダ)を傷つけるトコだったわ。酒に呑まれた男なんざ発情期のワン公と大差ないからねぇ」


 その笑みを見て、ボクは思わずドキリとした。うわ……近くで見ると余計に綺麗な人だなぁ。なんか凄く良い匂いもするし。ていうか本当に娼婦なのか? どっかの国のお姫様だって言われてもボクはきっと疑わないよ。


「もしよかったら、なんか礼をさせておくれよ。……えーっと、あんた、なんていうんだい?」


「はい。ボクは李星穂(リー・シンスイ)っていいます。【甜松林】では、ええっと、香瑚(シャンフー)って名乗ってました……昨夜まで」


 最後の所を、気まずい気持ちで付け加えた。


 途端、女の人は突然ひどく驚いた顔と声で、


「まぁ! じゃああんたなのかい? 指名客を擊倒(ノックアウト)してクビになったっていう娘は!」


「う…………まあ、はい、その通りです……」


「あっははは! なーるほど! じゃあさっきのあの強さも納得ってもんだわね! あんた、何か武法をかじってんだろ?」


「はい、いささか……ところで、あなたのお名前は……?」


「ああ、悪い。言ってなかったねぇ。……【甜松林(ここ)】での名前で構わないかい?」


 こくん、と頷く。


 彼女は裕然とした態度を崩さぬまま、名乗った。




「――あたしは神桃(シェンタオ)っての。よろしくね」




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